第一章 土曜日の、焼きたてをどうぞ(1)
六月二十日、金曜日。
チョークの箱から、黄色を一本選んだ。
ガラス戸から入ってくる光は白っぽくて、どこか平たかった。床に落ちた椅子の影も、縁がぼんやりとにじんでいる。半袖の腕にまとわりつく空気が、梅雨はまだ当分続くと教えていた。
祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、一行書く。
『本日の担当は、黄金です。』
黄色の字は、白で書くよりも少しだけ明るく見えた。
帳簿を抱えた黄金が、うしろからのぞきこんだ。丸眼鏡のふちが、白い光をはじく。
「うん。黄色は、ええ色や」
「金色じゃないけどな」
「金色のチョークがあったら、とっくに買うとるわ」
買うのか、とは聞かなかった。たぶん、本当に買う。
月曜に、父へ『十日は店を休む』とだけ送った。返ってきたのは『わかった』の四文字だった。八月の話は、それでひとまず済んだことになっている。
*
厨房の入口から、まほろさんが出てきた。
くぐる手前で、ちゃんと背を丸めている。胸の前に両手で抱えているのは、祖父のアルミの型だった。真ん中に筒の立った、使いこまれて少しくすんだ銀色。
「朔ちゃん」
「うん」
「土曜日に、また焼いてもいいかしらぁ」
型の内側に、店の灯りが鈍く映っていた。まほろさんはそれを、俺のほうへ少しだけ傾けてみせた。大きな手のわりに、頼みごとをする子どもみたいな手つきだった。
「うん。焼いてほしい」
まほろさんの細い目が、もっと細くなった。
レジの前で、ぱちん、と珠の音がした。
「ほな、値段決めなあかんな」
*
黄金は、カウンターの内側にそろばんを置いた。まほろさんがその横に型を並べ、俺は二人のあいだに立った。
「まず、卵。六つ」
ぱちん。
「薄力粉。砂糖。油」
ぱち、ぱち、ぱち。珠が上がるたびに、黄金の指先が迷いなく次の桁へ移っていく。
「それから、オーブンのガス代や。まほ姉、何分やったっけ」
「百七十度で、四十分よぉ」
「四十分な」
ぱちん。
「タダでよいのだ!」
ホールでテーブルを拭いていた陽華が、布巾を握ったまま、カウンターの向こうから身を乗り出した。橙のポニーテールが、勢いのままに跳ねる。
「マホの菓子を食べた者は、みな笑うのだ。笑顔とは、配るものなのだ!」
「あかん」
黄金は顔も上げなかった。
「それ、前にまほ姉が言うて、ウチが止めたやつや」
「む……」
陽華は口をとがらせたまま、テーブルのほうへ戻っていった。布巾の動きが、さっきより少しだけ乱暴になった。
カウンターの奥でカップを拭いていた雫が、首をかしげた。
「まあ。けれど、八つでは足りないのではございませんの」
「足りへんから、ええねん」
「……足りないのが、よろしいのですか」
「足りへんかったら、来週も来てくれはるやろ」
雫は布巾を持ったまま、しばらく考えこんでいた。商売というものを、初めて聞いた顔だった。
焙煎室のほうから、声だけが飛んできた。
「焼きが甘くなきゃ、いくらでもいい」
「ホム。それ、値段の話になってへん」
ぱちん、ぱちん。黄金の指は止まらない。卵、粉、砂糖、油、ガス。珠がひとつずつ積み上がって、もうすぐ答えが出そうに見えた。
その袖を、小さな手が引いた。
いつのまにか、翠がカウンターの内側に入りこんでいた。頭の双葉が、少しだけ前に傾いている。
「……こがねえ」
「なんや、スイちゃん」
「……まほねえ、は?」
翠は、型の横に置かれたまほろさんの手を見ていた。卵を割って、白身を泡立てて、型に流して、冷めるまで待つ手を。
黄金の指が、珠の上で止まった。
そろばんを見下ろして、それから、まほろさんの手を見た。丸眼鏡の奥の目が、二度まばたきした。
「……前に、百五十円で出したら……ゆうて弾いたやろ。あれ、まほ姉の手間、入れてへんかってん」
「あらあら。私の手間なんて、いいのよぉ」
「ようない」
黄金は、珠をいったん全部払った。かしゃっ、と乾いた音がした。
今度は、最初から弾き直した。卵。粉。砂糖。油。ガス。それから、白身を泡立てる時間。焼けるのを見ている四十分。逆さにして冷ますあいだ、型のそばを離れない時間。ひとつ増えるたびに、黄金の指はさっきよりゆっくり動いた。
まほろさんは、自分の手を、カウンターの上でそっと重ねた。隠すみたいに。
最後の珠を上げて、黄金は息をついた。
「……三百円や」
まほろさんが、重ねた手をほどいて、手のひらを見下ろした。
「……そんなに?」
「これでも、まけとる」
まけるな、と言いそうになって、やめた。たぶん、黄金がいちばんそう思っている。
「決まりも決めとくで。土曜だけ。一日一台を、八つに切る。なくなったら、終わり」
「ブレンドとセットにはしないのか。お茶会のときは、付けただろ」
「お茶会のときは、お茶会や」
黄金は、そろばんの縁を指でなぞった。
「これからは、毎週の品や。ブレンドはブレンド、ケーキはケーキ。混ぜたら、どっちの値打ちもわからんようになる」
黄金は帳簿を開いて、いちばん下に新しい行をひとつ書き足した。万年筆の先が、紙の上でいつもより少しだけゆっくり動いた。
『シフォンケーキ 一切れ 三百円』
「黒板にも書くよ。土曜の朝だけ、担当の下にもう一行」
「明日からやな」
黄金は同じ字を小さな紙にも書いて、レジの横に置いた。値札の下書きらしい。
翠が背伸びをして、その紙をのぞきこんだ。双葉が、ぴこっと跳ねた。
*
十時の鐘を聞いてから、戸の鍵を回した。
曇りの金曜日は、午前も午後も、客がぽつぽつと坂を上ってきては、ブレンドを一杯飲んで下りていった。陽華は戸口で一人ずつ迎え、雫は湯気の立つカップを、両手でそっと運んだ。
二時を少しすぎたころ、カラン、とドアベルが鳴った。
黒髪をひとつに結んだ女の人が、戸口で小さく頭を下げた。グレーのパンツスーツの胸に、名札が留めてある。脇に、書類挟みを抱えていた。
市役所の御影志乃さんだった。
「久遠さん。定期の確認に伺いました」
「確認、ですか」
「台帳の管理者になられて、二か月になりますので。記載のとおりかどうかを、確かめさせていただきます」
「シノ! よう来たな!」
陽華が両手を広げて駆け寄った。御影さんは、その手前でぴたりと止まって、もう一度頭を下げた。
厨房の入口に、まほろさんと、焔が並んでいた。焔のほうが、まほろさんの肘のあたりから顔だけ出している。
「……ケーキの人じゃねえか」
「御影です」
御影さんは表情を変えずに言った。焔は「おう」とだけ返して、引っこんだ。
呼び方を変える気は、ないらしい。
御影さんは、カウンターの端に書類挟みを開いた。陽華、雫、黄金、翠。厨房の入口のほうへ目をやって、まほろさんと、その奥の焔。一柱ずつ確かめるたびに、ペンの先が紙の上で小さく動いた。
「台帳には、七柱と記載されています」
「朧は、屋根裏で寝てます」
「存じております」
ペンが、もうひとつ印をつけた。
朧さんは、屋根裏でまだ眠っている。夜にならなければ、下りてこない。
「確認のため、ブレンドを一杯いただけますか」
豆を挽いて、紙フィルターの縫い目を互い違いに折った。湯を回しかけてドリッパーとカップを温め、粉を移す。八十八度の湯を真ん中にそっと落とすと、焦げ茶の粉が、息を吸うようにふくらんだ。
蒸らしの三十秒のあいだ、御影さんは背筋を伸ばしたまま、粉の表面に浮かぶ泡をじっと見ていた。確認の目つきなのか、ただ見ているだけなのか、横顔からはわからなかった。
「の」の字で三投。八分目で、ドリッパーを外す。
御影さんはカップを受け取ると、ひと口飲んで、書類挟みに何か書きつけた。それから、もうひと口。今度は、何も書かなかった。
黄金がレジの前で帳簿を開いて、万年筆を走らせた。のぞくと、『確認 ブレンド一杯 お代なし』とあった。
御影さんがカップを置いたとき、その目が、レジの横で止まった。
さっき黄金が書いた、小さな紙。
「……こちらのメニューに、ケーキが、あるようですが」
「明日からや」
黄金が即座に答えた。
御影さんは、紙を見た。それから、書類挟みに目を落とした。
「提供開始前の品は、確認の対象外です」
ペンの先が、ほんの少しだけ、紙の上で止まっていた。
*
まほろさんが、厨房の入口で背を丸めた。
くぐり抜けて、カウンターの横まで来る。御影さんの前に立つと、ほとんど見上げるほどの高さになった。まほろさんは、そこで少しだけ膝を折った。目の高さを合わせるように。
「明日はね、焼きたてなのよぉ」
御影さんが、顔を上げた。
「朝のうちに焼いて、逆さにして、待つの。それでね、まだ少しあったかいうちに、切るのよぉ」
まほろさんの両手が、何もない宙で、ナイフを入れる形をした。ゆっくりと、生地の重さを確かめるように。
「ナイフを入れるとねぇ、中から、ふうっと湯気が出るの。それがいちばん、おいしいところなのよぉ」
御影さんは、何も言わなかった。
まほろさんの手を見ていた。それから、まほろさんの顔を見た。細い目は、もう明日の型の中を見ているようだった。
振り子時計が、コチ、コチと鳴っていた。
御影さんは、書類挟みを閉じた。ぱたん、と小さな音がした。
「……明日は、閉庁日ですので」
それだけ言って、立ち上がった。
「本日の確認は、以上です」
頭を下げて、戸口へ歩いていく。カラン、とドアベルが鳴って、グレーの背中が坂の下へ小さくなっていった。
来るとも、来ないとも、言わなかった。
まほろさんは、戸のほうを見たまま、ゆっくりと立ち上がった。
「……閉庁日って、お休みの日のことよねぇ」
「たぶん、そうです」
「そう」
まほろさんは、それ以上は何も聞かずに、厨房へ戻っていった。入口の前で背を丸める、その背中が、さっきより少しだけ弾んで見えた。
*
六時の鐘のあと、黄金が封筒をひとつ差し出した。
「店のお金や。レシート、もろてきてな」
まほろさんと二人で、坂を下りた。
湿った風が、坂の下から上ってきていた。まほろさんの三つ編みが、背中で重たげに揺れる。歩幅は大きいのに、足取りはゆっくりで、俺はいつもより少しだけ速く歩いた。
坂の下のスーパーで、卵をひとパック、薄力粉、砂糖、それから生クリームをかごに入れた。油は、ナポリタンのときのものがまだある。
帰りの上り坂で、袋をひとつ持とうとした。
「いいのよぉ。軽いもの」
まほろさんは、粉と砂糖の入った袋を片手に提げていた。小指一本に、引っかけるようにして。俺の手には、卵のパックだけが残った。
いちばん軽いものを、いちばん大事そうに持って、坂を上った。
*
夕飯の皿を洗い終えて店に戻ると、厨房の灯りだけがついていた。
まほろさんが、流しの前に立っていた。
祖父のアルミの型を、両手で灯りのほうへかざしている。くすんだ銀の内側を、ゆっくりと回しながら、のぞきこむように見ていた。真ん中の筒の穴から、細い目が片方だけのぞいた。
「……明日ねぇ」
誰に言ったのかは、わからなかった。
型の中には、まだ何も入っていない。明日の朝には、あの中いっぱいに、ふくらんだ生地が詰まる。
厨房の灯りは、消さずにおいた。




