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本日の担当は、竜です  作者: 奉日本 灯
【第二巻】本日の担当は、竜です。2 〜竜たちと過ごす、初めての夏〜
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第一章 土曜日の、焼きたてをどうぞ(2)

六月二十一日、土曜日。


 カラカラ、と遠くで豆が転がっていた。


 床板の下の、そのまた奥から届く音だ。眠りの浅いところで、それだけが小さく続いている。四時半をすぎたのだろう。焔(ほむら)が、明日のぶんを焼きはじめている。


 今日店に出す豆は、きのうの朝に焼いたものだ。ひと晩寝かせて、今ごろキャニスターの中で落ち着いている。


 寝なおそうとして、やめた。階段を下りる。


 厨房の灯りは、ついたままだった。


 その下に、まほろさんがいた。


 流しの横の台に、祖父のアルミの型が置いてある。くすんだ銀が、きのうの夜より少しだけ明るく見えた。洗って、拭いて、また拭いたのかもしれない。その隣に、卵のパックがひとつ。


「おはよう、朔ちゃん」


「早いですね」


「目が、覚めちゃったのよぉ」


 まほろさんは、型の縁を指でなぞっていた。焼くには、まだ早すぎる時間だった。


 焙煎室の戸の向こうから、声だけが飛んできた。


「まほ姉。まだ焼かねえのかよ。オーブン、空いてんぞ」


「七時の鐘が鳴ったらねぇ」


「なんで七時なんだよ」


「焼いて、冷まして、外したら、ちょうどお店を開ける前になるのよぉ」


 カラカラの音が、一拍だけ止まって、また続いた。返事のかわりだったらしい。


*


 六時の鐘のあと、勝手口のほうから小さな足音がした。


 翠(すい)が、廊下から厨房の入口に顔を出した。裏庭の土の匂いが、少しだけいっしょに入ってくる。まほろさんが卵を手に取るのを見て、目をぱちりと開けた。


「……翠も」


「じゃあ、翠ちゃんには粉をお願いしようかしらぁ」


 まほろさんは、卵を台の角に当てた。


 こつ。


 大きな手の中で、殻がふたつに分かれる。黄身を片方の殻からもう片方へ、とろりと移すと、白身だけが細い糸を引いてボウルに落ちた。それを六回。黄身は小さなボウルに、白身は大きなボウルに。ひとつも崩れなかった。あの手の大きさで、どうしてこんなに静かに割れるのか、いつ見てもわからない。


 黄身に砂糖を入れて、泡立て器で混ぜる。濃い黄色がだんだん白っぽくなって、もったりと重くなる。そこへサラダ油を細く垂らし、水を加えた。


「翠ちゃん、いいわよぉ」


 翠が、ふるいを両手で持ち上げた。薄力粉を入れて、縁を指でぽん、ぽんと叩く。


 白い粉が、さらさらと落ちていく。落ちながら、ふわりと舞い上がった。


 舞い上がった粉は、翠の顔の前を通って、頭の双葉に積もった。ぽん、と叩くたびに積もる。翠は真剣にふるいだけを見ていて、気づかない。


 ふるい終わったころには、双葉の上に、白い小山がのっていた。


「翠。頭」


「……?」


 翠は、自分では見えない頭の上へ目を寄せた。それから、首をそっと横に振った。粉が、肩の上へはらはらと落ちる。


「……ゆき」


 六月だけどな、と言うのはやめておいた。


*


 まほろさんが、白身のボウルを少し傾けて抱えた。


 最初は大きく、ゆっくり回す。透きとおっていた白身に、細かな泡がまじりはじめる。しゃか、しゃか、しゃか。


 その音が、だんだん詰まってきた。


 しゃかしゃかしゃか――しゃーっ。


 一本の音になった。泡立て器の先が、もう見えない。ボウルの中だけ、小さな嵐が起きている。


 電動より速い。


「朔ちゃん、お砂糖ねぇ」


 言われるままに、三回に分けて入れる。一回めで泡のきめが細かくなり、二回めでつやが出た。三回めを落とすと、白身は真っ白に、ずしりと重たくなった。


 まほろさんが、ふっと手を止めた。泡立て器を、そっと持ち上げる。


 ボウルの中に、角がぴんと立った。先が揺れもしない。


「……いいと思います」


「そうねぇ」


 まほろさんは、ボウルを傾けて、その角をしばらく見ていた。


 メレンゲをひとすくい、黄身の生地へ落とす。ゴムべらで、底からすくって、返す。泡をつぶさないように、ゆっくり。大きな手が、ここだけは息をひそめるように動いた。二回め。三回め。最後のひとすくいが消えるころには、生地は黄色をうっすら残したまま、ふんわりと軽くなっていた。


 ゴムべらの先から、型の中へ生地が流れていく。筒のまわりをぐるりと回って、くすんだ銀を少しずつ隠していった。


 まほろさんは、型を両手で胸の高さまで持ち上げた。


 とん、とん。


 台に二回落とす。大きな泡がひとつ、表面でぷつりと割れた。


 店のほうで、振り子時計が鳴りはじめた。


 ボーン、ボーン――七つ。


 鐘が鳴り終わるのを待って、まほろさんはガスオーブンの扉を開けた。百七十度の熱が、顔の前にふわりと押し寄せる。その奥へ、型をまっすぐ入れた。


 扉が閉まる。


 四十分。


 最初の十分は、何も匂わなかった。やがて、温まった卵の、やさしい匂いがしてきた。それが砂糖の甘さを連れて、だんだん丸くなっていく。三十分をすぎたころには、厨房じゅうが、ふくらんだ匂いで満ちていた。焦げる手前の、香ばしいふちのある甘さだった。


 まほろさんは、そのあいだずっと、オーブンの前の椅子に座っていた。扉の小さな窓をのぞくでもなく、ただ、そこにいた。


 焙煎室の戸が細く開いて、焔が鼻をひくつかせた。


「……焼けてきたな」


 それだけ言って、戸は閉まった。


 まほろさんが立ち上がって、扉を開けた。


 生地は筒のまわりから大きく盛り上がって、型の縁を越えていた。てっぺんには、日に焼けた麦わらのような色がついている。ところどころに入った割れ目から、まだ白い内側がのぞいていた。


 まほろさんは、布巾を当てて型をつかむと、迷わなかった。


 型を逆さにして、真ん中の筒を空き瓶の口に差しこむ。ふくらんだ頭は、台に触れないまま、宙で止まった。


「早く外すと、しぼんじゃうのよぉ」


 逆さのまま、一時間あまり。そのあいだ、型は誰にも触られなかった。


*


 そのあいだに、生クリームを泡立てた。


 砂糖を少し入れて、泡立て器を回す。液体だったクリームに、だんだんとろみがついてくる。すくって落とすと、とろりと流れて、跡がすぐに消えた。そこで止める。


「そこで、やめるのねぇ」


「これくらいが、合うと思って」


 まほろさんは、細い目をもっと細くした。ボウルにふたをして、冷蔵庫に戻した。


 厨房の入口から、橙色の頭がのぞいていた。


 陽華(ひばな)は、逆さになった型のまわりを、ゆっくりと一周した。もう一周した。


「マホ。これは、逆立ちの修行なのか」


「冷ましてるのよぉ」


「そうか。……ならば、余が、ひと切れ毒見を」


「売りもんや」


 入口の横から、黄金(こがね)の声がした。値札の清書をしていたらしく、万年筆を持ったままだった。


 陽華の肩が、すとんと下がった。店の戸口の真鍮は、ぴくりとも揺れなかった。


「……売りもん、なのだな」


「せや」


 陽華は、それでも型のそばを離れなかった。見ているだけなら、売りものは減らない。


*


 黒板の前に立った。


 祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、白いチョークで書く。


『本日の担当は、まほろです。』


 その下に、もう一行。


『土曜日の、焼きたてをどうぞ。』


 うしろで、まほろさんが黒板を見ていた。二行めのところで、目が止まっている。しばらくそうしてから、エプロンの前で、両手をきゅっと重ねた。


 レジの横では、黄金が清書したばかりの値札を立てていた。『シフォンケーキ 一切れ 三百円』。下書きより、字がひとまわり大きい。


 九時の鐘が鳴って、しばらくしてから、型を外した。


 空き瓶から、型を抜く。かたん。


 細いナイフを、縁にそって一周させる。筒のまわりも、もう一周。皿をかぶせて、ひと息に返す。型の底を、とん、と叩いた。


 まほろさんが、型をそっと持ち上げた。


 焼き色のついた側面が、灯りの下に現れた。ふっくらしたまま、ひとつもへこんでいない。


 まほろさんは、皿ごと両手で持って、カウンターの内側へ運んだ。


 雫(しずく)が、その横に小皿とフォークを並べはじめた。シュウッ、と銅のポットが小さく鳴った。


*


 十時の鐘を聞いて、戸の鍵を回した。


 ガラス戸から入る光が、ときどき濃くなっては、また薄くなる。床の上の椅子の影が、そのたびに輪郭をはっきりさせた。


 カラン、とドアベルが鳴った。


 入ってきたのは、年配の夫婦だった。麻の帽子をかぶった旦那さんと、小さな手提げを持った奥さん。見覚えがあった。お茶会の日、いちばん最初に戸を開けてくれた二人だ。


「黒板に、焼きたて、って書いてあったから」


 奥さんが、少し照れたように言った。


 まほろさんが、カウンターの内側から出てきた。夫婦の前まで来ると、大きな体を折って、ていねいに頭を下げた。


「この前は、来てくださって、ありがとうございました」


 奥さんは目を丸くして、それから笑った。


「こちらこそ。また来たくて、来たのよ」


 旦那さんは、帽子を取って小さくうなずいた。それ以上は、誰も何も言わなかった。


 ブレンドを二つと、シフォンを二つ。


 豆を挽いて、ドリッパーに湯を落とす。蒸らしの三十秒のあいだに、まほろさんが、カウンターの内側で皿の前に立った。


 ナイフを持って、生地の上に刃先を当てる。一日に、八つ。その最初のひと切れだった。


 まほろさんは、ひと呼吸だけ止まった。


 刃が、すうっと沈んでいった。押すのではなく、生地の重さにまかせるように。ふわりとした断面が、刃に引かれて少しだけたわみ、またもとに戻る。


 そのすきまから、湯気がひと筋、立ちのぼった。


 芯に残っていたぬくもりが、細く、白く、灯りの中へのぼって、消えた。卵と砂糖の匂いが、遅れてふわりと広がった。


 まほろさんは、それを見届けるまで、ナイフを止めていた。


 二切れを小皿にのせて、横にスプーンで生クリームを添える。白いクリームが、皿の上でゆっくりと形をゆるめた。


 雫が、ブレンドといっしょに、二枚の皿をテーブルへ運んだ。


 奥さんは、フォークの側面で、ひと口ぶんをそっと切った。断面が、フォークに押されて小さく沈む。クリームを少しだけつけて、口に入れた。


 しばらく、何も言わなかった。


「……ふわふわなのに、ちゃんと卵の味がする」


 旦那さんは黙ったまま、ふた口めを切っていた。今度は、クリームをたっぷりつけた。三口めは、もっと早かった。


 皿が空になると、旦那さんが顔を上げた。


「来週も、あるのかい」


「土曜だけやで」


 レジの前から、黄金が答えた。チーン、と引き出しが開いた。


 奥さんが、戸口でもう一度振り返って、小さく手を振った。カラン、とドアベルを鳴らして、夫婦は坂を下りていった。


*


 昼までに、初めて見る顔のお客さんが二人、黒板を見て入ってきた。どちらも、ブレンドとシフォンを一つずつ頼んだ。


 まほろさんは、そのたびに皿の前に立って、ナイフを入れた。湯気は、もう立たなかった。かわりに、断面のきめが、さっきよりしっとりと落ち着いていた。


 昼すぎ、客足が途切れた。


 まほろさんが、皿の前に戻ってきた。切り分けたあとの、すき間のあいたシフォンを、細い目でじっと見下ろしている。


 大きな指先が、残ったひと切れずつを、数えるように差していった。


「……あと、四つねぇ」


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