第一章 土曜日の、焼きたてをどうぞ(3)
四切れになったシフォンは、カウンターの内側で、皿ごと静かに待っていた。
ガラス戸から入る光が、昼前より少しだけ斜めになっている。焼き色のついた側面に、その光が細く当たって、ふちのところだけが明るかった。
陽華は、テーブルを拭くふりをしながら、さっきから三度、カウンターの前を通りすぎていた。通りすぎるたびに、首だけが皿のほうを向く。
*
ボーン、と一時の鐘が鳴った。
それからしばらくして、カラン、とドアベルが鳴った。
戸を押さえて入ってきたのは、ちよばあだった。片手に杖、脇にスケッチブック。戸口で一度足を止めて、鼻を小さく動かした。
「……おや。甘い匂いだね」
「いらっしゃい、ちよばあ」
「こんにちは、朔くん」
ちよばあは、カウンターの丸椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。杖をカウンターの縁に掛けて、スケッチブックを膝にのせる。
その目が、一度だけ壁のほうへ向いた。写真の隣に掛かった、自分の絵。すぐに、こちらへ戻ってきた。
「表の、焼きたて。まだ、あるかい」
「ありますよぉ」
「じゃあ、それと。ブレンドも、ひとつね」
まほろさんが、皿の前に立った。ナイフの刃先を生地に当てて、重さにまかせて沈めていく。五つめの一切れが、皿の上で静かに倒れた。冷蔵庫から出した生クリームを、スプーンでひとすくい添える。
ブレンドといっしょに出すと、ちよばあはフォークを取って、端のほうを小さく切った。口に入れて、目を閉じる。
「……やわらかいねえ」
それきり、何も言わなかった。
ひと口ずつ、ゆっくりと食べた。ときどきフォークを置いて、ブレンドを飲んで、また取る。スケッチブックは、膝の上で閉じたままだった。皿の上にクリームの跡だけが残ると、ちよばあはフォークをそろえて置いて、両手をカップに添えた。
レジの前で、黄金が七百円を受け取った。チーン、と引き出しが開く。
「おおきに。坂、気ぃつけてな」
「チヨ、ゆっくり下りるのだぞ」
陽華が戸を押さえて、杖の先が敷居をまたぐのを、最後まで見届けていた。
*
二時の少し前に、女の人の二人連れが入ってきた。初めて見る顔だった。同じような麦わら帽子を、二人とも胸の前に抱えている。
「あの、表の、焼きたてって――」
「ございます」
言い終わる前に、雫が答えていた。
ブレンドを二つと、シフォンを二つ。まほろさんが二回ナイフを入れて、雫が小皿を両手で一枚ずつ運んだ。テーブルに置くとき、雫は手のひらで、そっと皿を示した。
「こちらが、本日の六つめ。こちらが、七つめでございます」
二人は顔を見合わせて、それから同時に吹き出した。
「番号つきなんだ」
「なんか、当たったみたい」
雫は、何がおかしいのかわからないという顔で、ていねいにお辞儀をして戻ってきた。
数えていたのは、黄金だけではなかったらしい。
*
二人連れが坂を下りていったあと、陽華がカウンターの前に戻ってきた。皿の上をのぞく。
ひとつ。
「コガネ」
「なんや」
「もしもだぞ。もしも、このひとつが、日が暮れても残っておったら」
「残らへん」
「もしも、の話なのだ」
黄金は帳簿から顔も上げずに、万年筆の尻で紙をとん、と叩いた。
「残ったら、帳簿に『売れ残り、一』て書く。それだけや」
「……食べぬのか」
「書くんや」
陽華は、皿と帳簿とを見比べた。どちらに転んでも、口には入らないらしい。
ボーン、と半の鐘がひとつ鳴った。
カラン、とドアベルが鳴った。
戸口に立っていたのは、黒髪をひとつに結んだ女の人だった。白い半袖のブラウスに、紺色の長いスカート。肩から、小さな布のかばんを提げている。胸に名札はない。脇に書類挟みもない。
一瞬、誰だかわからなかった。
「……御影さん」
御影さんは、戸口で小さく頭を下げた。昨日と同じ角度だった。
陽華が、皿の前で振り返った。その足が、半歩だけ、皿のほうへ残った。
それから、残った半歩ごと、戸口へ駆けていった。
「シノ! そなた、よいときに来たのだ。ちょうど、ひとつだけ残っておる!」
さっきまで、そのひとつをいちばん長く見ていたのは、陽華だった。
*
御影さんは、カウンターの丸椅子に腰を下ろした。
かばんを膝にのせる。両手を、カウンターの上に置く。置いてから、少し考えて、膝の上に下ろした。かばんの上で指を組む。ほどく。右手の指先が、何もないところで、ペンを持つ形に一度だけ閉じた。
閉じた指を、御影さんはしばらく見ていた。それから、そっと開いて、カウンターの縁に置き直した。
昨日は、あの手にずっとペンがあった。
「……ブレンドと、表のケーキを、ひとつ」
「はい」
豆を挽いて、紙の縫い目を互い違いに折る。八十八度の湯を落とすと、粉がふくらんで、細かな泡がぷつぷつと消えていった。御影さんは、今日は泡を見ていなかった。
まほろさんが、皿の前に立った。
八つのうちの、最後のひと切れ。ナイフを当てて、ゆっくりと沈める。刃のすきまからは、もう何ものぼってこなかった。
まほろさんは、ナイフを持ったまま、少しだけ眉を下げた。
「湯気はねぇ、朝のうちに、出ていっちゃったの」
それから、皿にクリームを添えて、御影さんの前に置いた。
「でも、今朝、焼いたのよぉ」
「……はい」
御影さんはフォークを取った。
切り分けたのは、ほんの端だった。指の先ほどもない、小さなひと口。クリームはつけなかった。
口に入れて、静かに噛む。
振り子時計が、コチ、コチと鳴っていた。カウンターの内側で、まほろさんは身じろぎもしなかった。
御影さんの喉が、小さく動いた。
「……伺っていたより」
そこで、言葉が途切れた。フォークを持ったまま、御影さんは少しだけ目を伏せた。
「おいしい、です」
まほろさんが、ゆっくりと一度だけうなずいた。大きな体の、どこにも力の入っていないうなずき方だった。
ふた口めから、御影さんはクリームをつけた。ひと口ずつ、同じ大きさに切って、同じ速さで口へ運ぶ。皿の上のひと切れが、きちんと少しずつ小さくなっていった。
最後のひと口のあとで、ブレンドを飲み干した。
御影さんは、かばんから小銭入れを出した。中をのぞいて、硬貨を一枚ずつ、ためらわずに選び出していく。
「ブレンドとケーキで、七百円ですね」
カウンターに並んだ硬貨は、一円の狂いもなかった。
黄金がそれを受け取った。チーン、と引き出しが開く。
「おおきに」
「ごちそうさまでした」
御影さんは、戸口でもう一度頭を下げた。カラン、とドアベルが鳴って、白いブラウスの背中が坂の下へ小さくなっていった。
まほろさんは、空になった皿を、両手で持ち上げていた。
*
三時を回って、しばらくしたころ。
年配の男の人が、戸口から顔をのぞかせた。初めて見る顔だった。日に焼けた腕で戸を押さえたまま、表のほうを振り返る。
「表に、焼きたてってあったけど」
まほろさんが、カウンターの内側から出てきた。
「ごめんなさいねぇ。今日は、もう、みんな行っちゃったの」
男の人は「そうか」と頭をかいた。
まほろさんは、大きな体を少しかがめて、男の人と目の高さを合わせた。
「また、来週の土曜に、焼くのよぉ」
「……じゃあ、今日はコーヒーだけ、もらおうかな」
男の人はブレンドを一杯、ゆっくり飲んで帰っていった。戸口で、「土曜な」とひと言だけ言い残して。
*
六時の鐘のあと、ガラス戸の鍵を回した。
床を掃いて厨房へ入ると、まほろさんが流しの前に立っていた。
朝に外したまま、流しの横の台に伏せてあったアルミの型を、両手に持っている。空になった皿は、もう洗って、水切りに立ててあった。
まほろさんは、型にぬるい湯を張って、スポンジを入れた。くすんだ銀の内側を、ゆっくりとなぞっていく。筒の根元の角に、焼けた生地のかけらが小さくこびりついていた。まほろさんは、そこだけスポンジを置いて、指の腹でそっとこそげ落とした。あの大きな指が、針の穴でも探すように細かく動いた。
すすいで、布巾で拭く。外側をひと回り。内側をひと回り。筒の中に布巾の端を通して、もうひと回り。
勝手口のほうから、翠が廊下を通って厨房の入口に顔を出した。まほろさんの手もとを、じっと見ている。
「翠ちゃん、持ってみる?」
翠は両手を伸ばして、拭き終わった型を受け取った。抱えた拍子に、肘が少し浮いた。
「……かるい」
「なかが、空っぽだものねぇ」
翠は型を胸の前で持ったまま、筒の穴をのぞきこんだ。それから、まほろさんの顔を見上げた。
「……らいしゅうも?」
「来週もよぉ」
翠はこくりとうなずいて、型をまほろさんの手に返した。返すとき、両手で、底を下から支えていた。
朝、この中には、縁を越えるほどの生地が詰まっていた。
それが八つに切られて、八つとも、誰かの皿の上で、少しずつ小さくなっていった。誰が食べたのか、ひとつずつ言える。麻の帽子の旦那さんと、手提げの奥さん。黒板を見て入ってきた二人。ちよばあ。麦わら帽子の二人連れ。それから、名札をつけていない御影さん。
来週は、まだ誰のぶんかわからない八つが、この中に入る。
まほろさんは、拭き終えた型を台の上に伏せた。布巾をたたんで、その横に置く。
それから、空いた両手を、一度だけ見下ろした。
きのう、そろばんの横で、隠すように重ねていた手だった。
今は、隠していなかった。
(第一章・了)




