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本日の担当は、竜です  作者: 奉日本 灯
【第二巻】本日の担当は、竜です。2 〜竜たちと過ごす、初めての夏〜
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第一章 土曜日の、焼きたてをどうぞ(3)

 四切れになったシフォンは、カウンターの内側で、皿ごと静かに待っていた。


 ガラス戸から入る光が、昼前より少しだけ斜めになっている。焼き色のついた側面に、その光が細く当たって、ふちのところだけが明るかった。


 陽華(ひばな)は、テーブルを拭くふりをしながら、さっきから三度、カウンターの前を通りすぎていた。通りすぎるたびに、首だけが皿のほうを向く。


*


 ボーン、と一時の鐘が鳴った。


 それからしばらくして、カラン、とドアベルが鳴った。


 戸を押さえて入ってきたのは、ちよばあだった。片手に杖、脇にスケッチブック。戸口で一度足を止めて、鼻を小さく動かした。


「……おや。甘い匂いだね」


「いらっしゃい、ちよばあ」


「こんにちは、朔くん」


 ちよばあは、カウンターの丸椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。杖をカウンターの縁に掛けて、スケッチブックを膝にのせる。


 その目が、一度だけ壁のほうへ向いた。写真の隣に掛かった、自分の絵。すぐに、こちらへ戻ってきた。


「表の、焼きたて。まだ、あるかい」


「ありますよぉ」


「じゃあ、それと。ブレンドも、ひとつね」


 まほろさんが、皿の前に立った。ナイフの刃先を生地に当てて、重さにまかせて沈めていく。五つめの一切れが、皿の上で静かに倒れた。冷蔵庫から出した生クリームを、スプーンでひとすくい添える。


 ブレンドといっしょに出すと、ちよばあはフォークを取って、端のほうを小さく切った。口に入れて、目を閉じる。


「……やわらかいねえ」


 それきり、何も言わなかった。


 ひと口ずつ、ゆっくりと食べた。ときどきフォークを置いて、ブレンドを飲んで、また取る。スケッチブックは、膝の上で閉じたままだった。皿の上にクリームの跡だけが残ると、ちよばあはフォークをそろえて置いて、両手をカップに添えた。


 レジの前で、黄金(こがね)が七百円を受け取った。チーン、と引き出しが開く。


「おおきに。坂、気ぃつけてな」


「チヨ、ゆっくり下りるのだぞ」


 陽華が戸を押さえて、杖の先が敷居をまたぐのを、最後まで見届けていた。


*


 二時の少し前に、女の人の二人連れが入ってきた。初めて見る顔だった。同じような麦わら帽子を、二人とも胸の前に抱えている。


「あの、表の、焼きたてって――」


「ございます」


 言い終わる前に、雫(しずく)が答えていた。


 ブレンドを二つと、シフォンを二つ。まほろさんが二回ナイフを入れて、雫が小皿を両手で一枚ずつ運んだ。テーブルに置くとき、雫は手のひらで、そっと皿を示した。


「こちらが、本日の六つめ。こちらが、七つめでございます」


 二人は顔を見合わせて、それから同時に吹き出した。


「番号つきなんだ」


「なんか、当たったみたい」


 雫は、何がおかしいのかわからないという顔で、ていねいにお辞儀をして戻ってきた。


 数えていたのは、黄金だけではなかったらしい。


*


 二人連れが坂を下りていったあと、陽華がカウンターの前に戻ってきた。皿の上をのぞく。


 ひとつ。


「コガネ」


「なんや」


「もしもだぞ。もしも、このひとつが、日が暮れても残っておったら」


「残らへん」


「もしも、の話なのだ」


 黄金は帳簿から顔も上げずに、万年筆の尻で紙をとん、と叩いた。


「残ったら、帳簿に『売れ残り、一』て書く。それだけや」


「……食べぬのか」


「書くんや」


 陽華は、皿と帳簿とを見比べた。どちらに転んでも、口には入らないらしい。


 ボーン、と半の鐘がひとつ鳴った。


 カラン、とドアベルが鳴った。


 戸口に立っていたのは、黒髪をひとつに結んだ女の人だった。白い半袖のブラウスに、紺色の長いスカート。肩から、小さな布のかばんを提げている。胸に名札はない。脇に書類挟みもない。


 一瞬、誰だかわからなかった。


「……御影さん」


 御影さんは、戸口で小さく頭を下げた。昨日と同じ角度だった。


 陽華が、皿の前で振り返った。その足が、半歩だけ、皿のほうへ残った。


 それから、残った半歩ごと、戸口へ駆けていった。


「シノ! そなた、よいときに来たのだ。ちょうど、ひとつだけ残っておる!」


 さっきまで、そのひとつをいちばん長く見ていたのは、陽華だった。


*


 御影さんは、カウンターの丸椅子に腰を下ろした。


 かばんを膝にのせる。両手を、カウンターの上に置く。置いてから、少し考えて、膝の上に下ろした。かばんの上で指を組む。ほどく。右手の指先が、何もないところで、ペンを持つ形に一度だけ閉じた。


 閉じた指を、御影さんはしばらく見ていた。それから、そっと開いて、カウンターの縁に置き直した。


 昨日は、あの手にずっとペンがあった。


「……ブレンドと、表のケーキを、ひとつ」


「はい」


 豆を挽いて、紙の縫い目を互い違いに折る。八十八度の湯を落とすと、粉がふくらんで、細かな泡がぷつぷつと消えていった。御影さんは、今日は泡を見ていなかった。


 まほろさんが、皿の前に立った。


 八つのうちの、最後のひと切れ。ナイフを当てて、ゆっくりと沈める。刃のすきまからは、もう何ものぼってこなかった。


 まほろさんは、ナイフを持ったまま、少しだけ眉を下げた。


「湯気はねぇ、朝のうちに、出ていっちゃったの」


 それから、皿にクリームを添えて、御影さんの前に置いた。


「でも、今朝、焼いたのよぉ」


「……はい」


 御影さんはフォークを取った。


 切り分けたのは、ほんの端だった。指の先ほどもない、小さなひと口。クリームはつけなかった。


 口に入れて、静かに噛む。


 振り子時計が、コチ、コチと鳴っていた。カウンターの内側で、まほろさんは身じろぎもしなかった。


 御影さんの喉が、小さく動いた。


「……伺っていたより」


 そこで、言葉が途切れた。フォークを持ったまま、御影さんは少しだけ目を伏せた。


「おいしい、です」


 まほろさんが、ゆっくりと一度だけうなずいた。大きな体の、どこにも力の入っていないうなずき方だった。


 ふた口めから、御影さんはクリームをつけた。ひと口ずつ、同じ大きさに切って、同じ速さで口へ運ぶ。皿の上のひと切れが、きちんと少しずつ小さくなっていった。


 最後のひと口のあとで、ブレンドを飲み干した。


 御影さんは、かばんから小銭入れを出した。中をのぞいて、硬貨を一枚ずつ、ためらわずに選び出していく。


「ブレンドとケーキで、七百円ですね」


 カウンターに並んだ硬貨は、一円の狂いもなかった。


 黄金がそれを受け取った。チーン、と引き出しが開く。


「おおきに」


「ごちそうさまでした」


 御影さんは、戸口でもう一度頭を下げた。カラン、とドアベルが鳴って、白いブラウスの背中が坂の下へ小さくなっていった。


 まほろさんは、空になった皿を、両手で持ち上げていた。


*


 三時を回って、しばらくしたころ。


 年配の男の人が、戸口から顔をのぞかせた。初めて見る顔だった。日に焼けた腕で戸を押さえたまま、表のほうを振り返る。


「表に、焼きたてってあったけど」


 まほろさんが、カウンターの内側から出てきた。


「ごめんなさいねぇ。今日は、もう、みんな行っちゃったの」


 男の人は「そうか」と頭をかいた。


 まほろさんは、大きな体を少しかがめて、男の人と目の高さを合わせた。


「また、来週の土曜に、焼くのよぉ」


「……じゃあ、今日はコーヒーだけ、もらおうかな」


 男の人はブレンドを一杯、ゆっくり飲んで帰っていった。戸口で、「土曜な」とひと言だけ言い残して。


*


 六時の鐘のあと、ガラス戸の鍵を回した。


 床を掃いて厨房へ入ると、まほろさんが流しの前に立っていた。


 朝に外したまま、流しの横の台に伏せてあったアルミの型を、両手に持っている。空になった皿は、もう洗って、水切りに立ててあった。


 まほろさんは、型にぬるい湯を張って、スポンジを入れた。くすんだ銀の内側を、ゆっくりとなぞっていく。筒の根元の角に、焼けた生地のかけらが小さくこびりついていた。まほろさんは、そこだけスポンジを置いて、指の腹でそっとこそげ落とした。あの大きな指が、針の穴でも探すように細かく動いた。


 すすいで、布巾で拭く。外側をひと回り。内側をひと回り。筒の中に布巾の端を通して、もうひと回り。


 勝手口のほうから、翠(すい)が廊下を通って厨房の入口に顔を出した。まほろさんの手もとを、じっと見ている。


「翠ちゃん、持ってみる?」


 翠は両手を伸ばして、拭き終わった型を受け取った。抱えた拍子に、肘が少し浮いた。


「……かるい」


「なかが、空っぽだものねぇ」


 翠は型を胸の前で持ったまま、筒の穴をのぞきこんだ。それから、まほろさんの顔を見上げた。


「……らいしゅうも?」


「来週もよぉ」


 翠はこくりとうなずいて、型をまほろさんの手に返した。返すとき、両手で、底を下から支えていた。


 朝、この中には、縁を越えるほどの生地が詰まっていた。


 それが八つに切られて、八つとも、誰かの皿の上で、少しずつ小さくなっていった。誰が食べたのか、ひとつずつ言える。麻の帽子の旦那さんと、手提げの奥さん。黒板を見て入ってきた二人。ちよばあ。麦わら帽子の二人連れ。それから、名札をつけていない御影さん。


 来週は、まだ誰のぶんかわからない八つが、この中に入る。


 まほろさんは、拭き終えた型を台の上に伏せた。布巾をたたんで、その横に置く。


 それから、空いた両手を、一度だけ見下ろした。


 きのう、そろばんの横で、隠すように重ねていた手だった。


 今は、隠していなかった。


(第一章・了)

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