第二章 水曜日の、地図にない湖(1)
七月一日、火曜日。
厨房の蛇口から出る水が、六月より、ほんの少しぬるくなっていた。
コップに一杯汲んで、飲みほす。喉を通るあいだだけ、冷たかった。
焙煎室のほうから、カラカラと豆の転がる音がしていた。
戸をのぞくと、焔が手回しの焙煎機の前にしゃがんでいた。ハンドルを回す手に、迷いがない。ドラムの下の炭は白い灰をかぶりながら、芯のほうで赤く脈を打っていた。
「おう」
「調子よさそうだな」
「今日は火の起きがいいんだよ。ひと吹きで、ぶわっと来た」
焔は、ドラムに耳を寄せたまま言った。火曜日。焔の日だ。
カラカラという音の中に、ピチッ、と細い音がまじった。二ハゼだ。
焔はハンドルから手を離して、ドラムの口を開けた。黒に近い焦げ茶の豆が、ざらりと網の上に広がる。うちわがひと振りされるたびに、熱い煙が顔の前を流れていった。
「明日のぶんだ。雫の日だからな。焼きが甘ぇとか、言わせねえ」
雫は、そういうことを言わない。言わないのを知っていて、焔は同じ顔で焼く。
うちわの手を止めずに、焔がこちらを見上げた。
「朔。ここ入んなら、もう一杯飲んでこい」
「今、飲んだ」
「足りてねえ。お前、暑いとすぐ顔に出んだよ。横で赤い顔されてっと、焼き色がわかんねえ」
焼き色の言い方で、心配している。
*
黒板の前に立って、祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、白いチョークを当てた。
『本日の担当は、焔です。』
書き終えてみると、焔の一文字だけが、前後の字に押しこめられたように窮屈だった。
「……アタシだけ、狭くねえか」
いつのまにか、うしろに焔が立っていた。
「画数が多いんだよ」
「じゃあ、でかく書けよ」
布巾で一文字ぶんだけ消して、書き直した。今度は、焔の字だけが、ほかの倍ほどの大きさになった。
「……でけえよ」
焔はふいと横を向いた。しっぽの先に、ぽっと小さな火がついた。消せとは、言わなかった。
「焔。今日、何かしたいことはあるか」
「ねえよ。豆焼いて、終わりだ」
それはもう、朝のうちに済んでいる。
*
昼すぎ、黄金が、店のお金の封筒を胸に抱えてレジの前から出てきた。
「店長はん、ちょっと信金まで両替行ってくるわ。百円玉、心もとのうなってきてん」
「守銭奴。外、蒸すぞ。途中でへばんなよ」
厨房へ戻りかけていた焔が、振り返りもせずに言った。
「へばらへん。お金持っとるときのウチは、強いねん」
黄金はサイドテールを揺らして、カラン、とドアベルを鳴らして出ていった。
戻ってきたのは、ずいぶん経ってからだった。
片手に、封筒。もう片方の脇に、茶色く日に焼けた紙の筒を抱えている。丸眼鏡の奥の目が、出ていったときより明らかに細かった。機嫌のいいときの細さだった。
黄金は、レジの引き出しに、紙で巻いた硬貨の棒を並べはじめた。
陽華が、レジの横からのぞきこんだ。
「コガネ。その銀色の棒は、何なのだ」
「百円玉や。ぎょうさん、紙に巻いてあんねん」
「紙のお金を持っていって、こんなに重いものと替えてきたのか」
陽華は棒をひとつ持ち上げて、手のひらの上で重さを確かめた。目が、みるみる丸くなる。
「得をしたのだ!」
「してへん。同じや」
「重くなったのにか」
「重さで値打ちは決まらへん」
陽華は納得のいかない顔で、棒をそっと引き出しに戻した。戻したあとも、しばらく指先で撫でていた。
*
「なんだその筒。また何か拾ってきたな」
焔が、厨房の入口から顔を出していた。
「拾てへん。買うたんや」
黄金は筒を、胸の前で大事そうに抱え直した。
「何を買ったんだ」
「地図や」
「宝の地図か!?」
陽華が、両手でカウンターの縁をつかんだ。
カラン、カラン。
閉まったままの戸の上で、真鍮が勝手に跳ねた。
「宝かどうかは、知らん。古い町の地図や。浜通りの骨董屋の、奥の箱に丸めて突っこんであってん」
黄金は、筒の端を指でとんとんと叩いた。
「聞いてや、店長はん。裏に、染みがあんねん。そこ指さしてな、『これ、水かぶってますやん』て言うたんや。それから、折り目のとこ。『これ、開いたら破れるやつやわ』て」
「うん」
「ほんで、黙って帰るふりしたら」
「したら?」
「店の人のほうから、『ほな』て」
黄金は、そこで胸を張った。値段は言わなかった。言わなくても、最初の値札からどれだけ下がったかは、顔に全部書いてあった。
「破れるやつを、買ってきたのか」
「破れへん。ウチが開くんやから」
「店のお金か?」
「ちゃう。ウチのがま口や」
黄金は、エプロンのポケットを上から押さえた。
「ウチが欲しゅうて買うたもんに、店のお金は使われへん」
「広げてみせるのだ、コガネ!」
「あかん。店で広げたら、ほこり立つやろ。閉めてからや」
陽華は、それから閉店までに、三回、筒のまわりを通りかかった。
*
六時の鐘のあと、ガラス戸の鍵を回した。
テーブルをふたつくっつけて、布巾で拭いた。拭き終えたところを、黄金がもう一度、乾いたふきんでなぞった。
「手ぇ、洗てきてな。紙には、手の脂が毒やねん」
言われたとおり、六柱と俺とで、順番に手を洗った。屋根裏の朧さんは、まだ下りてこない。
黄金が、筒の紐をほどいた。
巻かれていた紙が、ゆっくりとほどけていく。乾いた、少し甘いような匂いがした。古い押し入れの奥と、日なたに置いた本の背表紙を混ぜたような匂いだった。
四つに折った跡と、そのまた半分に折った跡が、紙の上に浅い溝になって走っていた。折り目の交わるところだけ、紙が布のようにやわらかくなっている。黄金は、そこを指で押さえないように、端だけをつまんで広げていった。
広げきると、紙の端が、名残惜しそうに少しだけ反り返った。
まほろさんが、大きな手のひらを、反った端にそっとのせた。押さえるというより、置くだけだった。
「刷ったもんやない」
黄金が、眼鏡を指で押し上げた。
「全部、手で描いとる。ほら、線の太さが揺れとるやろ。筆が紙の上で、ちょっとずつ息しとるねん」
灯りの下で、紙はうすい茶色をしていた。線は、もとは黒かったのだろう。今は、濃いところと薄いところがまだらになって、焦げ茶に近い色に沈んでいる。
海の際を、細い線が一本、波打ちながら走っていた。港のあたりで小さく入りこみ、そこから内陸へ、くねった太い線が一本のびている。
「……これ、潮見坂か」
「たぶんな」
坂の線は、上へ、上へとのびていって、紙の北の端の近くで細くなった。
その先に、まるい形がひとつ、描いてあった。
雫の指が、紙の上で止まっていた。
触れてはいない。爪の先が、紙のほんの少し上に浮いている。その下に、細い字で、二文字。
『鏡湖』
雫は、何も言わなかった。
浮かせたままの指が、まるい形の縁を、ゆっくりとなぞりはじめた。墨の線をなぞるのではなく、その内側の、何も描かれていないところを、確かめるように。ひと回りして、もとのところへ戻ってくる。もう一度、回る。
テーブルのまわりで、誰も動かなかった。振り子のコチ、コチだけが、灯りの外から聞こえていた。
雫の足もとで、床板の色が、小さくまるく濃くなっていた。椅子のうしろから、しっぽの先がのぞいている。雫は、気づいていないようだった。
「……みず、の、かたち」
翠が、字の左側を指さした。湖の、さんずいだった。
「……そうですわね」
雫の声は、思っていたよりずっと小さかった。
四月の、ある閉店後に、雫が言っていたことを思い出した。
「わたくしの湖、地図に載っておりませんの」
あのとき、俺は何も聞き返さなかった。
*
エプロンのポケットから、スマホを出した。
地図を開いて、潮見坂の上をたどる。指で北へ滑らせていくと、町の外れに、小さな青い形がひとつあった。
拡大しても、名前は出てこなかった。紙の上のまるい形より、ずっと小さく見えた。
雫が、画面をのぞきこんだ。
「……名前は、ございませんのね」
「手描きの地図はな」
黄金が、紙の端を見たまま言った。
「描いた人が大事に思とるもんほど、大きゅう描くもんや。物差しで測ったら、あかんねん」
それが、どちらの大きさのことを言っているのかは、わからなかった。
焔が、テーブルの角に肘をついて、地図をのぞきこんだ。
「歩いて行けんのか、ここ」
「坂を上りきった先だから、たぶん」
画面と、紙と、雫の横顔を、順番に見た。
「明日、行ってみるか。店を開ける前なら、行って帰ってこられる」
雫が顔を上げた。青い目が、二度まばたきした。
「……わたくしが、行ってもよろしいのでしょうか」
「明日は、雫の日だろ」
「……はい」
床の濡れたところが、また少し広がった。
*
まかないの支度に立つ前に、雫が、地図を畳みたいと言った。
黄金は少しだけ考えてから、うなずいた。
雫は、まほろさんの手が離れた端から、紙を持ち上げた。新しい折り目は、ひとつもつけなかった。昔からある溝に、指先を一本ずつ沿わせて、紙が自分で曲がりたいほうへ曲がるのを、待つようにして畳んでいった。
黄金は、口を出さなかった。
最後のひと折りで、手描きの二文字が、いちばん上に来た。
雫は、その面を上にしたまま、地図をテーブルの真ん中に置いた。




