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本日の担当は、竜です  作者: 奉日本 灯
【第二巻】本日の担当は、竜です。2 〜竜たちと過ごす、初めての夏〜
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第二章 水曜日の、地図にない湖(2)

七月二日、水曜日。


 六時の鐘が鳴る前に階段を下りると、店の戸口に雫(しずく)が立っていた。


 ガラス戸の内側で、背筋をまっすぐに伸ばし、両手を体の前でそろえている。エプロンは、まだつけていなかった。戸から入る朝の光は薄く、床の上の椅子の脚も、輪郭がまだぼんやりしている。


「おはようございます、朔さま」


「おはよう。……いつから、そこに」


「焔さんの豆の音が、聞こえはじめたころからですわ」


 四時半だ。


 厨房の奥からは、今もカラカラと豆の転がる音が続いている。焔(ほむら)が、明日に出すぶんを焼いているのだ。焙煎の匂いが、焙煎室の戸のすきまを抜けて、店のほうまで薄く届いていた。


 黒板の前に立って、白いチョークを取った。祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、一行書く。


『本日の担当は、雫です。』


 振り返ると、雫はさっきと同じ場所で、同じ姿勢のままだった。


「雫。今日、何か――」


「参りとうございます」


 聞き終わる前に、答えが来た。


 ゆうべから、ずっと決まっていたらしい。


*


 六時の鐘のあと、勝手口のほうから小さな足音がして、翠(すい)が厨房の入口から顔を出した。裏庭の土の匂いが、少しだけいっしょについてくる。


「翠。これから、雫と池を見に行くんだけど」


「……いく」


 返事は、すぐだった。双葉が、ぴんと立った。


「……くさ、の、こえ、きく」


 翠の中では、それがもう自分の役目になっている。


 七時の鐘が近づくころには、陽華(ひばな)とまほろさんが店に下りてきていた。黄金(こがね)は、ゆうべ雫が畳んだ地図を、折り目どおりのまま手に持っている。


「紙は、持ってかれへんで」


「わかってる」


「外は湿気がきついねん。汗も、手の脂も、紙には毒や。……せやから」


 黄金はテーブルの上で、地図を一面ぶんだけそっと開いた。『鏡湖』の二文字のあたりが、灯りの下に出る。


「撮っていき。光、当てんといてな」


 スマホを構えると、黄金が横から画面をのぞきこんだ。


「近い。もうちょい引き。……あ、店長はんの手ぇの影、入っとる」


「どこ」


「そこや。そこ。……ちゃう、今ずらしたほうに入っとる」


 三回撮り直して、ようやく許しが出た。黄金は地図をまた折り目どおりに閉じて、レジの横に置いた。


 焙煎室の戸が開いて、焔が出てきた。手の甲で額を拭いながら、雫を見る。


「雫。走んなよ」


「走りませんわ。歩いて参りますもの」


「お前が走んねえって言うときは、だいたい走ってんだよ」


 口は悪いが、言っていることは、たぶん正しい。


「シズ! スイ! 土産話を、待っておるぞ!」


 陽華が大きく手を振った。まほろさんは、その後ろで「気をつけてねぇ」と、のんびり言った。


 七時の鐘を聞いてから、ガラス戸を開けた。カラン、とドアベルが鳴る。雫と翠と俺とで、坂に出た。


*


 坂を、上へ向かって歩いた。


 空は一面、薄い雲におおわれていた。日の光は雲の向こうで白くならされて、どこにも濃い影を落とさない。肌に触れる空気はまだひんやりとしているのに、湿り気だけは、もう夏のものだった。


 潮見坂を上りきると、家並みがまばらになった。道の両わきに草が茂り、朝露を抱えた葉先が、歩くたびに足首に触れる。青くて、少し苦い匂いがした。


 振り返ると、町が下のほうへ、屋根を重ねるようにして続いていた。そのずっと先で、海が、空と同じ色をして平らにのびている。


 前を向き直すと、雫が、いつのまにか三歩先にいた。


 走ってはいない。たしかに、歩いている。ただ、一歩ごとの間が、どんどん詰まっていく。水色の髪が、背中で小刻みに揺れていた。


「……しずねえ、はやい」


 翠が、俺の横で小走りになった。


「雫、ちょっと――」


 言いかけたところで、雫の靴の先が、道に張り出した草の根に引っかかった。


「まあ」


 体が、ふわりと前へ傾いた。とっさに腕を伸ばして、肘をつかむ。雫は宙で一度止まって、それからゆっくりと、まっすぐに戻った。


「……走っては、おりませんの」


「うん」


「歩いておりましたの。少しばかり、速く」


「……かなり」


 翠が、短く言った。


 雫はほんのりと頬を染めて、そこからは俺の隣を歩いた。それでも、肩ひとつぶんだけ前を。


*


 二十分ほど歩いたところで、道の先に柵が見えた。


 腰ほどの高さの柵が、草の中をぐるりと囲んでいる。その一か所に、白い札が立っていた。『遊泳禁止』。赤い字は雨と日に洗われて、ところどころ、地の白に溶けかけていた。


 柵の向こうに、水があった。


 小さかった。


 地図の上では、坂の先に、指で輪を描いたほどの丸があった。けれど目の前の水は、家の庭をいくつか寄せたほどの広さしかない。向こう岸の草の一本一本まで、ここから見分けられた。


 雫は、柵の前で足を止めた。


 さっきまでの早足が、嘘のようだった。両手を、柵の上にそっと置く。朝露に濡れた柵は冷たかったはずだが、雫は手を引かなかった。


 水の面は、空と同じ薄い灰色をしていた。岸に近いところだけ、底の草の緑がうっすらと透けている。風が渡ると、灰色の上に細かなさざなみが生まれて、こちらの岸へ順に寄ってきた。寄ってきて、柵の足もとの草の下で見えなくなる。風がやむと、水はすぐに、もとの平らに戻った。


 平らに戻った面に、雲が映っていた。それから柵と、雫が映っていた。


 雫は、何も言わなかった。


 青い瞳が、水の面のどこか一点を見ていた。岸でも、真ん中でもない。俺には、何もないところに見えた。まばたきが、少なかった。柵に置いた指先だけが、ときどき、ほんのわずかに動いた。ゆうべ、地図の上で丸の内側をなぞったときと、同じ動きだった。


 声をかけようとして、やめた。


 ここで何か言えば、それは俺の言葉になってしまう。雫が今聞いているものの上に、余計な音を重ねることになる気がした。


 柵の足もとで、翠がしゃがみこんでいた。


 両手を膝に置いて、草の根もとに耳を寄せている。しばらくそうしてから、翠は顔を上げた。


「……ゆうがた、まで、ふらない、って」


「そうか」


「……それから」


 翠は、もう一度だけ、草のほうへ耳を寄せた。


「……おみず、きょうは、しずか、って」


 雫の指が、柵の上で止まった。


「……そうでございますか」


 小さな声だった。水に向かって言ったのか、翠に言ったのか、わからなかった。


*


「おや。喫茶店の」


 うしろから声がした。


 振り返ると、池のそばの畑から、麦わら帽子の男の人がこちらへ歩いてくるところだった。手に鍬を提げている。日に焼けた顔に、見覚えがあった。


 源さんだった。


「おはようございます」


「おはようさん。こんな朝っぱらから、池の見物かい」


「ええ。ちょっと、見てみたくて」


 源さんは、柵の前の雫と、しゃがんでいる翠を見比べた。翠は、源さんと目が合ったとたんに立ち上がって、俺の背中のうしろへ回りこんだ。


 隠れたつもりらしい。腰のあたりから、若草色の頭と双葉が、半分はみ出していた。


「はは。隠れんぼかい」


「すみません。人見知りで」


「いいさ、いいさ」


 双葉が、途中まで持ち上がって、そこで止まった。出ていくかどうか、まだ迷っている。


 源さんは笑って、柵に片手をかけた。水の面を、目を細めて眺める。


「今は、こんなだけどねえ」


「昔は、違ったんですか」


「子どもの時分はね、夏になると、みんなここへ来たもんさ。朝から、日が暮れるまで泳いでね」


 源さんは、札のほうへ顎をしゃくった。


「あんなもんが立つ、ずっと前の話だよ。冷たい水でねえ。真夏でも、飛びこむと、ひやっとした。……いい水だった」


 雫が、源さんのほうを向いた。


「このへんの年寄りは、鏡池って呼んでる。……昔は、もうちょっと立派な名前だったんだがね」


 源さんは、それきり昔の名前は言わずに、懐かしそうに笑った。


 鏡池(かがみいけ)。ゆうべ地図で見た字とは、最後の一字だけが違っていた。


 雫は、柵から両手を離した。


 源さんに向き直って、深く頭を下げた。水色の髪が、肩からこぼれ落ちるほど、深く。


「……ありがとう、ございます」


 源さんは、目をぱちくりさせた。


「なんだい。礼を言われるようなことは、何もしちゃいないよ」


「いいえ」


 雫は顔を上げた。それ以上は、何も言わなかった。


 源さんは首をかしげて、俺を見た。俺にも、うまく説明できる気はしなかった。


「……また、店にも寄ってください」


「ああ。そのうち、かみさん連れて行くよ」


 源さんは鍬を担ぎ直して、畑のほうへ戻っていった。


 そのあとも、雫はしばらく柵の前を離れなかった。翠は俺の背中から出てきて、黙ってその隣に立った。雲の映った水の面を、二柱は同じ高さの目で見ていた。


 急かす理由は、どこにもなかった。


*


 帰り道、雫は早足にならなかった。


 翠と同じ速さで、俺の隣を歩いた。潮見坂の上まで来たところで、一度だけ、北のほうを振り返る。柵も水も、もうここからは見えない。


 雫はしばらくそうしてから前を向いて、坂を下りはじめた。


 九時の鐘より少し前に、店へ戻った。


 ガラス戸を開けると、カラン、とドアベルが鳴った。テーブルを拭いていた陽華が顔を上げるより先に、黄金がレジの前から身を乗り出した。


「どやった」


「小さかったよ。地図より、ずっと」


 黄金は、レジの横に置いた地図を見下ろした。


 少しのあいだ、黙っていた。折り目の上に、指を一本だけそっとのせる。それから丸眼鏡を押し上げて、ひとつうなずいた。


「ほな、ええ地図や」


 黄金は、がま口を取り出して、満足そうにぱちんと鳴らした。


 何を出し入れするでもなく、ただ一度だけ。


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