第二章 水曜日の、地図にない湖(3)
テーブル席の椅子が二脚、こちらを向いていた。
カウンターのほうへ、座面をきちんとそろえて。誰が向けたのかは、聞くまでもなかった。
「さあ、座るのだ。シズ、スイ。サクもだ」
陽華が、椅子の背を両手でぽんと叩いた。布巾は、もうテーブルの端にたたんで置いてある。拭きながら、ずっと戸口のほうへ耳を向けていたのだろう。
「コガネには、先に話したそうではないか。余は、まだなのだ」
「話したっていうか、ひと言だけだよ」
「ひと言でも、先は先なのだ」
王さまにも、順番というものがあるらしい。
雫は、エプロンの紐を結びかけていた手を止めて、言われたとおりに腰を下ろした。その隣に、翠がちょこんと座る。俺は椅子の背に手をかけて、立ったままでいた。
ボーン、と振り子時計が九つ打った。開店まで、あと一時間ある。
「して、湖はどうであった」
陽華が身を乗り出した。金の瞳が、まっすぐ雫に向いている。
雫は、膝の上で両手をそろえた。言葉を選ぶような間があった。
「……小そうございました」
「小さいのか」
「はい。とても」
それきり、雫は口を閉じた。
陽華は続きを待った。待って、待って、それから首をかしげて俺を見た。
「サク。どのくらい小さいのだ」
「家の庭を、いくつか寄せたくらいかな。向こう岸の草まで見えたよ」
「ふむ。……それでは、余が泳いだら、三かきで向こうに着いてしまうな」
「泳げないよ。柵があって、札が立ってた。『遊泳禁止』って」
「ゆうえいきんし」
陽華は、その言葉を口の中で転がした。眉が、きりりと寄っていく。
「何者だ、それは」
「何者でもない。泳いじゃだめ、って意味」
「名乗りではないのか。池の番をしておる者の」
「札だよ」
「札が、池の番をしておるのか」
それは、ちょっと合っている。
翠が、陽華の袖をちょいと引いた。
「……げんさん、いた」
「ゲン?」
「畑の人。源さん。春から、何度か来てくれてるだろ」
「おお、あの者か!」
陽華の顔が、ぱっと明るくなった。
「池のそばに、畑があるんだって。子どものころは、あそこで泳いでたって言ってた」
「泳いだのか! ゆうえいきんしの前にか」
「前に。ずっと前」
「ならば、ゲンは、あの池の古い友なのだな」
陽華は、ひとりで深くうなずいた。雫は、黙ってそれを聞いていた。
「余も、いつか行ってみたいのだ。その、ゆうえいきんしに挨拶をせねば」
「ヒバ姉」
レジの前から、黄金の声が飛んできた。
「開店前やで。椅子、向けたまんまや」
「む」
陽華は椅子を二脚、くるりと元に戻した。戻しながら、もう一度だけ「ゆうえいきんし」とつぶやいた。
*
十時の鐘で、戸の鍵を回した。
薄曇りは、昼が近づいてもそのままだった。日は差さないのに、空気だけがじわじわと重たくなっていく。坂を上ってきたお客さんは、戸口で一度立ち止まって、首すじを手のひらで拭った。それから焙煎の匂いを胸に入れて、ようやく中へ入ってくる。
雫はやかんの湯をポットに移しては、湯気の向こうで温度を見ていた。まほろさんは厨房で、朝に使ったボウルを片づけている。
屋根を叩く雨の音がないぶん、七月の店は、六月の店より静かだった。
*
一時の鐘が鳴って、しばらくしたころ、カラン、とドアベルが鳴った。
戸口に立っていたのは、白いシャツの男の人だった。紺の上着を腕に掛けて、首から社員証を下げている。額に、汗の粒が並んでいた。前髪の先が湿って、細い束になっている。
野々村さんだった。
「ノノムラ!」
陽華が、戸口までひと息に迎えに出た。
「水曜であるな! 水曜に来る者は、余の、水曜の友である!」
「……水曜の、友」
野々村さんは、口の端だけで笑った。笑ったはずみに、汗がひと筋、こめかみを伝った。
「こんにちは。……今日も、蒸しますね」
厨房の入口から、焔が顔を出した。野々村さんの腕の上着を見て、それから額を見て、眉をしかめる。
「そんなもん抱えて、この坂上がってきたのかよ」
「あ、はい。先方では、着てたので」
「脱いだんなら、もう着ねえだろ。……いいから座れ。突っ立ってっと、ひっくり返んぞ」
焔は、それだけ言って引っこんだ。
野々村さんは、カウンターの真ん中の丸椅子に腰を下ろした。上着を膝の上でたたもうとして、迷ってから、隣の丸椅子の背にそっと掛けた。
*
注文を聞く前だった。
雫が、何も言わずにグラスへ水を満たした。
とく、とく、と細い音がした。雫はそれを両手で持って、野々村さんの前に置いた。グラスの底が、カウンターに触れるか触れないかのところで、いったん止まってから。
「どうぞ」
「あ……すみません。いただきます」
野々村さんはグラスを持つと、ひと息に半分飲んだ。喉が、二度、三度と動く。それから、残りの半分も飲んだ。空になったグラスを置いて、はあ、と肩で息をついた。
雫は、もう注いでいた。
空いたグラスに、さっきと同じだけ。今度も、何も言わなかった。
野々村さんは、驚いた顔で雫を見た。それから、二杯めはゆっくりと、ひと口ずつ飲んだ。
「ブレンドを、お願いします」
「はい」
ミルを回すと、ごり、ごり、と豆の割れる音がした。きのうの朝に焔が焼いて、ひと晩寝かせた豆だ。挽いたばかりの粉から立つ香りが、蒸した店の空気の中で、低いところにとどまった。
紙フィルターを折って、湯通しをする。
雫が、ポットを差し出した。今日は、温度を口にしなかった。受け取って温度計を差すと、針は八十八度で止まった。
粉の真ん中に、湯をひと筋落とす。焦げ茶の面がゆっくりと盛り上がって、表面に細かなひびが走った。ここで三十秒。
野々村さんは、その三十秒を黙って見ていた。グラスを持った指が、いつのまにか止まっていた。
「の」の字で一投め。粉が沈むのを待って、二投め、三投め。八分目で、ドリッパーを外す。
雫が、カップを受け皿ごと運んだ。カウンターの内側から、野々村さんの前へ。受け皿が、かすかに鳴った。
野々村さんは、取っ手に指をかけて、しばらくそのままでいた。湯気が、汗の引ききらない額のほうへ、ゆっくり上っていく。
蒸し暑い日に、熱い一杯を出す。この店では、それしか出せない。出しながら、どう受け取られるのかと、このところ毎日思う。
野々村さんは、ひと口飲んだ。
目を閉じて、その熱を喉の奥にしばらく留めていた。それから、シャツの肩の線が、ひと目でわかるほど低くなった。
「……熱いのに、涼しくなりますね」
「そうですか」
「汗が出て、そのあとで、すっと引くんです。外の暑さとは、別の汗なんですよ。たぶん」
野々村さんは、もうひと口飲んで、カップを受け皿に戻した。
「この前、先方の人に言われたんです。来るの、水曜じゃなくてもいいですよ、って。向こうにも、そのほうが都合のいい週があるみたいで」
指先で、受け皿の縁をなぞる。
「でも、水曜にしてもらってます」
振り子のコチ、コチが、しばらくのあいだ、会話のかわりをした。
「水曜はここで一杯飲んで、それから坂を下りる。そうすると、週の残りが、なんとかなる気がするので。……すみません。変な話で」
「変じゃないです」
それしか言えなかった。それで足りる気がした。
カウンターの縁に置いた雫の指先が、木目の上を、ほんのわずかにすべった。
雫は何も言わなかった。野々村さんのグラスに、水がまだ半分残っているのを、目だけで確かめていた。
*
カップが空になると、野々村さんは丸椅子から立って、上着を腕に掛け直した。
会計は、黄金がレジで受けた。チーン、と引き出しが開く。
「野々村はん、おおきに。気ぃつけて下りてや」
「はい。また、水曜に」
雫の陰から、翠が半分だけ顔を出した。野々村さんの額を、じっと見上げている。
「……あせ、ひいた」
野々村さんは、自分の額に手を当てた。それから、困ったように笑った。
「……ひきました」
陽華が、戸口でガラス戸を押さえて待っていた。
「水曜の友よ、また来週なのだ!」
カラン、とドアベルを鳴らして、白いシャツの背中が坂を下りていった。上着は、最後まで腕に掛けたままだった。
戸が閉まると、黄金がそろばんを引き寄せた。
「店長はん」
「うん」
「さっきのお冷。二杯」
「出したな」
「水道代や。グラス一杯ぶん、なんぼになるか」
ぱち、と珠に指をかけて、黄金はそこで止まった。
指先が、珠の上で迷った。押し上げかけて、また下ろす。もう一度かけて、また下ろす。
「……あかん。小さすぎて、珠が上がらへん」
「じゃあ、なんで弾いたんだ」
「弾いてみな、小さいかどうか、わからへんやろ」
黄金はそろばんを脇へよけて、帳簿を開いた。万年筆の先が、いつもの速さで紙の上を走る。
『お冷 二杯 お代なし』
上がらない珠のぶんも、書くことは書く。それが黄金の帳簿だった。
*
午後になっても、空は薄く曇ったままだった。
五時の鐘が鳴ったあと、ホールの客が途切れた。雫は、野々村さんのグラスを洗って、布巾でていねいに拭いていた。
「朔さま」
「うん」
「今夜のお夕飯は、何でございますの」
朝から坂を上り下りして、昼からはずっと湯の前に立っていた日だ。
「冷たいものにしようかと思って。そうめん、とか」
「まあ」
雫は、拭き終えたグラスを、そっと伏せた。
テーブル席の椅子に座っていた翠が、ぴょんと床に下りた。
「……おおば、きいて、くる」
そう言って、厨房の入口へ駆けていく。流しの前のまほろさんの横をすり抜けて、暗い廊下の先へ。
夕方まで、降らない。今朝、草がそう言っていた。
廊下の奥で、勝手口の戸が、小さくきしんで開いた。




