第二章 水曜日の、地図にない湖(4)
翠は、両手をお椀の形にして戻ってきた。
手のひらに、緑の葉が重なっている。どれも、茎のつけ根から一枚ずつ摘んであった。厨房に入ってくると、葉のふちのぎざぎざが、くっきりと見えた。
「……きいて、きた」
「なんて言ってた」
「……いま、いちばん、ひらいてる、って」
翠は、手のひらを俺のほうへそっと差し出した。
「……ゆうはんの、ぶん、だけ」
言われたとおりの数しか、摘んでこなかったのだろう。葉は、両手のくぼみにちょうど収まるだけだった。青くてすっとした匂いが、鼻の先まで届いた。
水を張ったボウルに、大葉を浮かべた。葉は沈まずに、水の面でくるりと向きを変えた。
*
ボーン、と振り子時計が六つ打った。
ガラス戸の鍵を回すと、背中のほうでチーン、とレジが鳴った。黄金が、今日のぶんを締めている。
「そうめんも、みょうがもないんだ。下で買ってくる」
「わたくしも、お供いたしますわ」
雫は、外したエプロンを、もうたたみ終えていた。
坂の下のスーパーで、そうめんとみょうが、昆布とかつお節をかごに入れた。最後に、冷凍のケースから袋の氷をひとつ取る。財布は、自分のを出した。
帰りの上り坂で、雫は氷の袋を両腕で抱えていた。
「冷とうございますわね」
坂を上りきるまで、その声はずっと嬉しそうだった。
*
鍋に水を張って、昆布を沈めた。
いつもなら、夕方まで浸けておくところだ。今日は、その時間がない。火をいちばん弱くして、昆布がふくらんでいくのを待った。
鍋の底から、泡がぽつ、ぽつと上ってくる。沸く手前で、菜箸で昆布を引き上げた。磯の匂いが、湯気といっしょに一度だけ顔に当たった。
そこへ、かつお節をひとつかみ。もうひとつかみ。今日は多めに入れる。
薄い削り節が、湯の上でちりちりと縮れて、すぐにしんなりした。火を止める。削り節がひとひらずつ底へ沈んでいくあいだに、香りが変わっていった。いぶしたようなとがった匂いが、だんだんまるく、甘くなっていく。
ざるに布巾を敷いて、こした。澄んだ金色のだしが、ボウルの中へ細い筋になって落ちた。
しょうゆとみりんを足して、もう一度ひと煮立ちさせる。それをボウルごと流しの水につけて、冷ました。
店のほうで、振り子時計が七つ鳴った。
大葉を重ねて、くるくると巻いた。端から細く刻んでいく。包丁が入るたびに、青い匂いがぱっと立った。
翠が、台のふちに顎をのせて、それを見ていた。
「……おおば、いいにおい、して、る」
みょうがは縦に割って、薄く切る。白い芯のまわりで、切り口の桃色が、にじむように濃くなっていた。
*
大きなボウルに水を張って、氷を半分落とした。
「朔さま。そのお水、わたくしにおまかせくださいまし」
雫が、ボウルの前に立った。両手を、水の面にかざす。
水が、すっと静まった。浮かんでいた氷が、こつん、と一度ぶつかって、それっきり動かなくなる。ボウルの外側が見る見る白く曇り、そばに立つ俺の腕にまで、冷たさが寄ってきた。
「もう少しでございますわ。もう少し……」
雫の腰のうしろから、しっぽがのぞいていた。
その先から、ぽた、ぽたと水が落ちている。床の上に、水たまりが広がっていく。ボウルのふちには、白い霜がつきはじめていた。
「雫。冷やしすぎだ」
「……まあ」
しっぽが、すっと引っこんだ。最後のひと滴が、床でぴちゃんと跳ねた。
厨房の入口で、焔が足を止めた。
「おい、床」
そのうしろから、黄金が顔を出した。水たまりを見下ろして、丸眼鏡を押し上げる。
「雑巾代、どこにつけたらええねん」
「あらあら」
まほろさんが、もう雑巾を手にしていた。大きな体をかがめて、水たまりを端から拭いていく。急いでいるようには見えないのに、拭き終わるのは早かった。
ずっと上のほうで、床板が鳴った。
続いて、階段が一段ずつきしむ。その音が廊下を渡ってきて、厨房の入口に、銀の長い髪が現れた。朧さんは、寝起きの目で、まほろさんの持つ雑巾を見た。
「……雨漏り?」
「雫だ」
焔が答えた。
「そう」
朧さんは、それで納得したようだった。
*
いちばん大きな鍋に水を張ると、まほろさんが横から片手で持ち上げて、ひょいとコンロにのせた。水の面は、ほとんど揺れなかった。
やがて、鍋の湯がごとごとと鳴りだした。
そうめんの帯をほどいて、湯の上でぱらりと放す。乾いた白い束は、湯に入ったとたんにさらりと散って、鍋の中で泳ぎはじめた。菜箸で底からひと混ぜすると、白い泡がふちまでせり上がってきた。火を弱める。泡は、すっと引いていった。
ゆでる時間は短い。ざるにあけると、白い湯気が流しの上に立ちこめた。
すぐに、水道の水をかける。熱が逃げたところで、両手で麺をすくって、もむ。もんでは、水を替える。指のあいだでぬめりが落ちて、麺がきゅっと締まっていくのがわかった。
それを、雫の冷やした水にくぐらせる。
指が、痛いほど冷たかった。麺は、もうひと回り細く、かたくなったように見えた。
ガラスの鉢に残りの氷を入れて、水を張る。その上に、麺をそっと落とした。
ガラスの器の氷に、白い麺がほどける。
細い白が、氷のすきまをぬうように広がって、鉢の底までうっすらと透けた。そのまわりに、刻んだ大葉の緑と、みょうがの桃色を盛る。
*
ホールのテーブルの真ん中に、ガラスの鉢を置いた。冷えたつゆを器に注いで、それぞれの前に並べる。
「いただきます」
陽華は、箸で一本だけつまみ上げて、目の高さまで持ち上げた。
「サク。これは……糸を食べるのか」
「麺だよ。細いけど」
「こんなに細いのに、ちぎれぬのか」
陽華はおそるおそる、つゆにくぐらせた。それから、思いきってすすった。
つるっ。
陽華は、箸を持ったまま動かなくなった。
「……のどを、すべっていったのだ!」
二度めは、もうおそるおそるではなかった。
焔は、自分の器に大葉とみょうがを入れていた。入れて、また入れる。つゆの面が、もう見えない。
「ホム。それ、つゆより薬味のほうが多いで」
「冷てえもんは、火の出番がねえんだよ。せめてこっちで効かせる」
焔は、緑と桃色の山ごと麺をすくった。ひと口すすると、何も言わずに、すぐ二口めをすくった。
まほろさんは、麺を箸に少しずつ取って、口に運んでいた。
「冷たいおそうめんはねぇ、夏が来たよって、おなかに教えてくれるのよぉ」
朧さんは、つゆだけをひと口、先に含んだ。
「……かつおが、多いのかしら」
「昆布、浸ける時間がなかったから」
「悪くないわ」
それだけ言って、箸を鉢へのばした。
翠は、大葉の多いところばかり選んですくっていた。もぐもぐと噛んで、飲みこんでから、隣の雫を見上げた。
「……しずねえ」
「はい」
「……きょう、おみず、いっぱい、あげた」
雫の箸が止まった。
昼の、汗をかいたグラス。注文を聞く前に置いた一杯と、何も言わずに注ぎ足した一杯。それから、さっきの、霜がつくほど冷やした水。
雫は箸を置いて、膝の上で手を重ねた。
「……水は、差し上げるものでございますもの」
カウンターの端で、銅のポットがシュウッと鳴った。火の気は、どこにもなかった。
食卓の上で、箸の音がしばらく止まっていた。陽華が、うむ、とひとつうなずいた。
ガラスの鉢の中で、氷が音もなく痩せていった。
*
鉢の底が見えるころには、外はすっかり暗くなっていた。
雫と俺とで、流しに並んだ。俺が洗って、雫が拭く。つゆの器が、ひとつずつ雫の布巾の中を通って、台の上に伏せられていく。食卓のほうから、陽華が「つるっ」とまねをする声と、焔がそれを止める声が聞こえてきた。
最後に、ガラスの鉢が残った。
底に、溶けきらなかった氷が、まだいくつか沈んでいる。角はみんな取れて、水の中でほとんど見えなくなっていた。
「とけてしまいますのね」
雫が、鉢をのぞきこんで言った。
「朝には、ただの水だな」
「ええ」
雫は、しばらく鉢の中を見ていた。
「水に、なりますの」
雫は布巾を置いて、カウンターへ歩いていった。端に置いてあった銅のポットを、両手で持ち上げる。今日いちばん多く湯を運んだのは、このポットだ。
「この子も、今日はよく働きましたわ」
棚のいつもの場所に、ポットを戻した。注ぎ口を、ほかの道具と同じ向きにそろえる。銅の胴に、店の灯りが映っていた。
黒板には、朝の字が残っている。
『本日の担当は、雫です。』
明日の朝、これを消して、翠の名前を書く。それまでは、この名前のままだ。
流しに戻って、ガラスの鉢を傾けた。水が、細い音を立てて排水口へ流れていく。
鉢の底で、溶け残った最後の氷が、からん、と鳴った。
(第二章・了)




