第三章 金曜日の夜市と、コーヒーゼリー(1)
七月十六日、水曜日。
カウンターの上に、紙が一枚、ぱしんと置かれた。
二時の鐘が鳴って、しばらくしたころだった。店にはちょうど、お客さんがいなかった。
置いた手の甲に、汗の粒が光っている。黄金は、店の売り上げを信金へ預けに出て、坂を上ってきたその足で、ここへ来ていた。店のお金の封筒は、まだ脇に挟んだままだ。
「店長はん。これ」
紙には、太い字で刷ってあった。
『浜通り商店街 金曜夜市 七月十八日(金)午後六時から』
その下に、マジックの手書きで一行。
『出店、まだ間に合います』
「商店街の掲示板に貼ってあってん。横に同じ紙が束で吊るしてあったから、一枚もろてきた」
「夜市か」
「せや」
「……出るのか」
「出る」
黄金は、迷わなかった。
「もう、名前書いてきた」
「聞く前に?」
「聞いたら、店長はん、考えるやろ。考えとるうちに、締め切られてまうやん」
言い返す言葉は、浮かばなかった。
*
「夜の市!」
テーブルを拭いていた陽華が、布巾を握ったまま飛んできた。張り紙をのぞきこんで、太い字を指でなぞる。
「夜にしか開かぬ市があるのか!」
「夜になったら、通りに店がずらっと並ぶねん。焼きそばとか、かき氷とか、ヨーヨー釣りとか」
焼きそば、かき氷、と並ぶたびに、橙のポニーテールが跳ねた。
「店が、夜になると外へ出てくるのか!」
「出てくる、っていうか……」
「では、この店も出るのだな。うむ……しかし、振り子時計は重いぞ。あれを担いで坂を下りるのは、マホでなければ無理なのだ」
「店は、ここに置いていくよ。向こうで、机をひとつ借りるだけだ」
「机ひとつに、店が入るのか?」
「入るぶんだけ、入れるんや」
黄金が言うと、陽華は腕を組んで、机ひとつぶんの店を頭の中に並べはじめたようだった。眉が寄って、ほどけて、また寄る。それから、ぱっと顔を上げた。
「ならば余は、夜市に来る者と、ひとり残らず友達になるのだ!」
入口のほうで、カラン、と真鍮が鳴った。
ガラス戸の向こうの坂には、誰も立っていない。蝉が一匹、思い出したように鳴きはじめた。
*
「で、何を売るんだ」
「それや」
黄金はレジの前に回って、そろばんを出した。弾く前に、指を珠の上で止める。
「最初はな、ブレンドを紙コップで、て思たんやけど」
「うん」
「夜でも、浜通りは蒸すねん。熱いもんを立ったまま飲む人は、おらん。……あかんな」
黄金は、自分で言って、自分で首を振った。
カウンターの内側でカップを拭いていた雫が、首をかしげた。今日の黒板には、雫の名前がある。
「では、冷たいものをお出しすれば、よろしいのでは」
黄金の目が、すうっとこちらへ動いた。
「ほな、アイスコー」
「出さないよ」
「まだ言うてへん」
「言いかけた」
「言いかけただけや。言いかけただけで、止められるんか」
止める。何度でも。
厨房の入口に、赤い頭がのぞいた。焔が、首にかけた手ぬぐいで額を押さえている。
「聞こえてんぞ。アタシの豆、氷で薄めんのかよ」
「薄めない。出さない」
「ならいい」
焔はそれだけ言って、入口の柱にもたれた。引っこむ気はないようだった。
その頭の上から、まほろさんの顔がのぞいた。赤い髪のてっぺんに、顎がのっている。手には、洗いかけの泡立て器を持っていた。
「冷たいのがだめなら、固めちゃえばいいんじゃないかしらぁ」
「固める?」
「コーヒーをねぇ、ゼリーにするのよぉ」
焔が、頭の上を見ずに言った。
「まほ姉。重てえ」
「あら、ごめんねぇ」
顎は、のったままだった。
コーヒーゼリー。
頭の中で、その言葉をひっくり返してみた。カップに注いで、湯気といっしょに出す一杯ではない。スプーンですくって、食べるものだ。
「……飲みものじゃないなら、いいか」
「ええのん?」
「夜市だけな。店では出さない」
「わかっとる。夜市だけ、や」
黄金がそう言ったときには、もう指が珠の上で動いていた。
焔が、柱から背中を離した。まほろさんの顎が、やっと宙に浮いた。
「固めんなら、濃く淹れろよ。冷やすと、味がぼける」
「深煎りで足りるか」
「この店の深煎りが、ゼラチンなんかに負けるかよ」
焔は鼻を鳴らした。しっぽの先に、ぽっと火がついた。
*
ぱちん、ぱちん。
「豆。ゼラチン。ガムシロップ。クリーム。カップ。スプーン」
ひとつ言うたびに、珠がひとつ上がる。黄金の指は、いつもより速い。売るものが決まったとたん、指のほうが先に走りだしたみたいだった。
「机はタダなのだな! さっき、借りると言っておった」
陽華が、嬉しそうに言った。
「タダほど高いもんはないで」
黄金は、顔も上げずに返した。
「机はタダでも、場所代は取られるねん。それにな、タダで借りたもんは、返すときに気ぃ遣うやろ。拭いて、きれいにして、おおきにて頭下げて。その手間かて、ちゃんと値打ちがあるんや」
「……むう。タダは、高いのだな」
陽華は、心の底から感心した顔で、その言葉を口の中で転がしていた。
最後の珠を上げて、黄金が息をついた。
「一つ、三百円や」
「まあ。シフォンと、同じでございますのね」
「覚えやすいやろ。覚えやすい値段のもんは、売れるねん」
黄金は帳簿を開いて、ページのあいだに張り紙を挟んだ。
「数は、三十」
「三十も?」
「夜市は、人が多いねん。八つやったら、あっという間や」
テーブル席のほうで、椅子を直していた翠の手が止まった。
「……ひと、いっぱい?」
頭の双葉が、立ちかけたところで動かなくなった。
黄金は、そろばんを置いて、翠のほうへ身をかがめた。
「スイちゃんは、机のうしろでスプーン数えとったらええ。三十本。一本でも足りんかったら、大ごとやで」
翠は、しばらく考えた。
「……かぞえる」
それで、翠の持ち場が決まった。
*
店を閉めて、黄金と俺とで坂を下りた。
昼の熱が、まだアスファルトの底に残っていた。下りるにつれて、潮の匂いが濃くなる。黄金は封筒を両手で持っていて、一歩ごとに、中で硬貨がちゃりと鳴った。
坂の下のスーパーは、冷房が強かった。自動ドアをくぐったとたん、汗ばんだ首すじが、ひやりとした。
製菓の棚の前で、黄金が立ち止まった。
粉ゼラチンは二種類あった。小袋に分けて箱に詰めたものと、大きな袋にまとめたもの。黄金は二つを両手に取って、裏の細かい字を交互に見比べはじめた。
「……グラムあたりやと、大きい袋のほうが安い」
「じゃあ、そっちで」
「けど、小袋のほうは量らんでええ。一袋でなんぼ固まるか、ここに書いてある」
「うん」
「試しでしくじったら、大きい袋は、中身が減ってくだけやろ。何べんしくじったか、あとから見てもわからへん。小袋やったら、空いた袋の数で、わかる」
「わかって、どうするんだ」
「帳簿に書くねん」
黄金は、箱のほうをかごに入れた。グラムあたりの安いほうを、黄金が選ばなかった。初めて見た気がする。
ガムシロップは、小さな容器が袋にいくつも入っているもの。生クリームは、試しのぶんだけにした。本番のぶんは金曜にもう一度買う、と黄金が言った。
使い捨ての棚の前で、黄金はまた足を止めた。
透明なカップを、パックごと天井の灯りにかざす。薄いプラスチックの底を、光がそのまま抜けていった。それから、隣に吊るしてあるスプーンの袋を手に取った。白くて、軽くて、指で押すとたわむ。
「……すぐ、なくなるもんやな」
「使い捨てだからな」
「せやな」
黄金はそれ以上何も言わずに、袋をかごに入れた。カップもスプーンも、本番のぶんまで。
レジで、店のお金の封筒から払った。受け取ったレシートを、黄金は端をそろえて二つに折り、がま口にしまった。ぱちん。
帰りの上り坂で、袋を二つとも持たされた。
「店長はんのほうが、背ぇ高いやろ」
背の高さと袋の重さがどうつながるのかは、聞かないことにした。
*
店に戻ると、カウンターの内側で、雫が袋を受け取った。
中身をひとつずつ、カウンターに並べていく。ゼラチンの箱。ガムシロップ。生クリーム。最後に、透明なカップのパックを開けて、一つだけ取り出した。
雫は、それを灯りのほうへ持ち上げた。
カップの向こうに、天井の灯りがにじんで見えた。雫の青い瞳も、薄いプラスチック越しに、わずかにゆがんで映っている。
「……向こうが、透けておりますわ」
「プラスチックだからな」
「器が、見えませんのね」
雫は、空っぽのカップを、そっと傾けた。
「中に入るものだけが、見えるのですね」
シュウッ、とうしろの棚で、銅のポットが鳴った。
厨房の入口で、焔が腕を組んでいた。
「試しのぶんは、今朝焼いたのから分けとく。本番のぶんは、明日の朝、多めに焼く」
「頼む」
「濃く淹れて、まずかったら、豆のせいにすんなよ」
「しないよ」
「言ったな」
焔は、厨房の奥へ戻っていった。
雫は、まだカップを持ったまま、灯りを見上げていた。何も入っていない透明な器の中に、店の灯りが、ひとつだけ浮かんでいた。
金曜の夜には、この中が黒くなる。




