第三章 金曜日の夜市と、コーヒーゼリー(2)
七月十七日、木曜日。
「……いち。……に」
階段を下りきったところで、店のほうから細い声がした。
テーブル席に、翠がひとりで座っていた。きのう買った白いスプーンを袋から出して、テーブルの上に一本ずつ寝かせている。柄の向きを、きっちりそろえて。
「……さん。……し」
一本置くたびに、頭の双葉がこくりと前に傾いた。スプーンといっしょに、数をひとつずつ置いているようだった。
店の空気は、いつもより重たかった。焙煎の匂いが厨房の奥から流れてきて、カウンターの上にまで溜まっている。カラカラ、と豆の転がる音は、まだ続いていた。
厨房の入口に、焔が出てきた。額の汗を手の甲でぐいと拭うと、煤が頬のほうへひと筋のびた。
「明日のぶん、次で焼き終わる」
「いつもより長いな」
「三十も固めんだろ。途中で足んなくなったら、アタシが嫌なんだよ」
焔は、カウンターの内側のキャニスターを顎で指した。
「試しには、そっち使え。今朝のは、まだ寝かせてねえ」
「わかってる」
「わかってんなら、いい」
焔が奥へ戻ると、カラカラの音がまた近くなった。
黒板の前に立って、祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に書いた。
『本日の担当は、翠です。』
振り返ると、翠はまだスプーンを並べていた。
「……じゅういち。……じゅうに」
「スイ! 朝から何をしておるのだ!」
厨房の入口から、陽華の声が飛んできた。
翠の手が止まった。双葉も、途中で止まった。
翠はテーブルの上のスプーンを見下ろしたまま、しばらく動かなかった。それから、並べたものを手のひらで寄せ集めて、袋の口へ戻した。
「……いち」
「な、なぜ戻すのだ!」
「……わかんなく、なった」
陽華は両手で口を押さえて、つま先立ちでカウンターの裏へ下がっていった。
*
十時の鐘で、戸の鍵を回した。
木曜の昼は、坂を上ってくる人がまばらだった。ガラス戸の向こうで、蝉の声だけが途切れずに続いている。
客のいないあいだ、翠はテーブル席でスプーンを数えた。誰かが戸を開けると、袋に戻した。声をかけられても、戻した。そのたびに「……いち」からやり直す。
昼すぎ、帳簿をつけていた黄金が、万年筆を置いた。
「スイちゃん。十ずつ、山にしたらええ」
「……やま」
「十で一山や。三つできたら、三十。途中で止まっても、山は崩れへん」
翠は、黄金の顔とスプーンとを見比べた。それから十本を横に並べ、指一本ぶんあけて、また次の十本を並べはじめた。
そろばんの珠と、同じ並べ方だった。
「……にじゅうはち。……にじゅうく」
三つめの山の、最後の一本を置く。
「……さんじゅう」
カラン、とドアベルが鳴った。
入ってきたのは、作業帽をかぶった年配の男の人だった。初めて見る顔だ。首にかけたタオルで汗を拭きながら、戸口で店の中を見回している。
翠が顔を上げた。
数えていた指が、そのまま男の人のほうを向いた。
「……さんじゅう、いち」
男の人は、うしろを振り返った。誰もいない。もう一度、翠を見た。
「……俺か?」
「すんません。今、数の稽古中ですねん」
黄金がレジの前から頭を下げた。男の人は帽子のつばを持ち上げて、翠とテーブルの上の三つの山とを見比べた。それから、声を出して笑った。
「三十一番か。じゃあ、三十一番は、コーヒーをひとつ」
翠は椅子からするりと下りて、俺のうしろへ回りこんだ。エプロンの紐が、くいと引かれる。
「……ひとも、かぞえちゃった」
「明日は、スプーンだけでいいからな」
「……うん」
男の人はブレンドを一杯、時間をかけて飲んだ。帰りぎわ、テーブルの上の山へ目をやって、帽子をかぶり直した。
「お嬢ちゃん。数、合ってたよ」
戸が閉まってから、翠は三つの山を、ひとつずつ指でさわった。どれも崩れていなかった。
*
六時の鐘のあと、カウンターの内側に、きのう買ったものを並べた。粉ゼラチンの箱、ガムシロップの袋、生クリームの紙パック。透明なカップと白いスプーンは、袋に入れたまま棚の上に置いた。あれは、明日のぶんだ。試しには、お冷のグラスを使う。
それから、きのうの朝に焼いた豆。
ミルの目盛りを、いつもより細かく合わせた。ハンドルを回すと、ごり、ごり、という音が、途中からしゃりしゃりと軽くなる。挽き上がった粉は、指でつまむと、さらさらとこぼれていきそうなほど細かかった。
「粉、もっと入れろ」
首の手ぬぐいで汗を拭きながら、焔がカウンターの内側に入ってきた。ドリッパーを、上からのぞきこむ。
「いつもの量じゃ、冷やしたら水だ」
言われるままに、秤の上で粉を足した。ドリッパーの中の山が、見たことのない高さになった。
「雫。湯は」
「いつもより、ほんのわずか熱くいたしましたわ。お粉が多うございますもの」
銅のポットを受け取って、細い湯を落とした。
細かい粉の山が、湯を吸って、むくりと持ち上がる。浮かんでくる泡は、いつもよりずっときめが細かかった。蒸らしのあいだに、苦みの強い匂いが立ちのぼって、カウンターの内側にこもった。鼻の奥が、少し痛いくらいだった。
湯を足していく。落ちてくるしずくは、褐色というより黒に近かった。とろりと重たくて、なかなか糸にならない。ガラスのサーバーの底に溜まった黒は、のぞきこんだ俺の顔を映すほどつやがあった。
焔が、サーバーの縁に鼻を寄せた。
「……それでいい」
「ボウル、取ってくる」
厨房から戻ると、焔がサーバーを菜箸でかき回していた。もう片方の手で、空になった小袋をひらひらさせている。
「入れといたぞ。熱いうちのほうが、溶けんだろ」
「……そうか。ありがとう」
黒い面は、さっきと同じに見えた。
グラスに注いで、カウンターに並べた。湯気が消えるまで、そのまま置いておく。陽華がカウンターの外から身を乗り出して、ひとつずつ顔を近づけていった。
「サク。これは、いつ固まるのだ」
「冷蔵庫に入れて、しばらくしたら」
「しばらく、とは」
「しばらくだ」
ぬるくなったところで、厨房の冷蔵庫に移した。
扉を閉めて、カウンターに戻る。
ばたん、と厨房のほうで扉の閉まる音がした。少しして、また開く音がした。
「ヒバ姉。開けるたびに、電気代やで」
「見ておらぬと、固まり方を忘れるかもしれぬのだ」
「ゼリーは忘れへん」
「では、余が見ておることを、忘れるかもしれぬのだ」
黄金は、そろばんの珠をひとつ弾いた。冷蔵庫の扉一回ぶんの、珠だった。
「せや。シズに冷やしてもろたら、早いやん」
黄金が言いかけたところで、雫が首を横に振った。
「……ゼリーは、待つものでございますわ」
「待つもん、て」
「急いで冷やしますと、まわりばかり先に固まって、真ん中が置いていかれてしまいますの。水は、そういうものでございますから」
雫は、両手を胸の前で重ねたまま、厨房のほうを見ていた。
*
ボーン、と振り子時計が七つ打った。
鐘の余韻が消えるころには、厨房の入口に朧さんが立っていた。銀の髪が、寝起きのまま肩の上でもつれている。ちょうど陽華が、冷蔵庫の扉を開けたところだった。
朧さんは、陽華の肩ごしに中をのぞいた。陽華が手前のグラスをそっと揺らすと、黒い面が、ふちまで波を打った。
「……ところてんは、もっと聞き分けがよかったわ」
それだけ言って、朧さんは店のほうへ歩いていった。カウンターの端の丸椅子に腰を下ろして、振り子時計を見上げる。
陽華は、扉を開けたまま固まっていた。
「サク。余は、言いつけを聞かぬ者を育ててしまったのか」
「まだ、わからない」
*
八時の鐘で、グラスをひとつ取り出した。
傾けると、表面にだけ、薄い膜のようなものが張っていた。スプーンの先で押すと、膜はあっけなく破れて、下から黒い水があふれた。
底に、何かが沈んでいる。
すくい上げると、透きとおった粒がいくつも、ぷるりと並んで出てきた。
「あらあら。お粒になっちゃったのねぇ」
まほろさんが、背中のほうからのぞきこんだ。
「焔。さっきのゼラチン、ふやかしたか」
「ふやかす?」
焔の眉が寄った。
「箱に書いてある。先に水でふやかしてから、溶かすって」
「……箱、読んでねえ」
冷蔵庫の前で、陽華が胸に手を当てた。
「余のせいでは、なかったのだな……!」
「開けすぎは、開けすぎや」
陽華の胸の手が、そっと下りた。
焔はしばらくグラスの底をにらんでいたが、やがて、ふいと横を向いた。
「……まどろっこしいんだよ、ああいうの」
それから、聞こえるか聞こえないかの声で付け足した。
「……悪かった」
*
二度めは、箱を台の真ん中に置いた。
雫が、小さな器に冷たい水を張ってくれた。小袋の口を切って、粉を水の上に散らす。白い粉が、水を吸いながら沈んでいき、やがて、くもりガラスのようなかたまりになった。
豆を挽き直して、もう一度淹れる。焔は、今度は何も言わなかった。高い粉の山を見て、一度うなずいただけだった。
淹れたてのコーヒーを、ボウルふたつに分けた。ふやかしたゼラチンを落として、ゴムべらで静かに混ぜる。かたまりがほどけて、黒の中に溶けて消えていった。
そのとき、横から手がのびた。
黄金が、片方のボウルの上で、小袋をもうひとつ切っていた。
「念のためや」
「多くないか」
「固まらんかったら、また一回ぶん無駄になるやろ。多いぶんには、固まる」
理屈は、合っている気がした。
「じゃあ、そっちはそっちで固めよう」
冷蔵庫の中に、グラスを二列に並べた。左が黄金の、右が箱のとおりのもの。黄金は帳簿を開いて、空になった小袋の数を、万年筆で書きつけた。
*
夕飯は、まほろさんが握った。
炊いておいたご飯を手のひらにのせて、塩をつけて、きゅっ、きゅっと三角に形を整えていく。まほろさんの手の中では、ふつうの大きさに見えた。皿に置かれると、どれも俺の拳より大きかった。
翠は両手でひとつを持って、てっぺんからかじった。いつまでたっても、なかなか小さくならなかった。
九時の鐘が鳴った。その音にまぎれて、厨房で冷蔵庫の扉が一度だけ開いた。
*
十時の鐘で、二列とも取り出して、カウンターに並べた。
左のグラスは、傾けても、表面がびくともしなかった。スプーンを真上から差すと、ぐっと手ごたえがあって、そこで止まった。手を離しても、スプーンはまっすぐ立ったままだった。
「……たってる」
「旗なのだ!」
陽華がスプーンを抜いて、ひと口ぶんを口に入れた。
噛む。まだ噛んでいる。
「サク。……これは、いつ飲みこめばよいのだ」
「噛むもんじゃねえだろ、コーヒーは」
焔が言った。
黄金は、黙って帳簿を開いていた。さっき書いた空き袋の数を、万年筆の先で、じっと見下ろしている。
チーン、とレジが鳴った。
「鳴ったな」
「鳴ってへん」
黄金は、レジのほうを見なかった。カウンターの端の丸椅子で、朧さんが、振り子時計からレジへと目を移した。
右のグラスに、スプーンを入れた。
ほんのわずかな手ごたえのあとで、スプーンの先がすっと沈んだ。ひとすくい持ち上げると、その上で、黒いかたまりがふるりと揺れた。
雫が、自分のグラスを両手で持って、そっと傾けた。中の黒が、身をすくめるように震えた。
「まあ。震えておりますわ」
「固まってる証拠だよ」
「冷蔵庫に、長くおりましたもの」
寒いわけではない、と思う。
袋から、ガムシロップの容器を取り出した。陽華が、そのラベルに顔を寄せる。
「ガム……。サク、シロップを噛むのか」
「噛まない。名前だけだ」
陽華は容器のふたをはがして、自分のグラスの上で逆さにした。透明な糸が、黒い面にとろとろと落ちていく。空になると、もうひとつに手をのばした。
「ヒバ姉。それ、ひとつで一杯ぶんや」
「余の一杯は、大きいのだ」
「グラスは、みんな同じ大きさや」
「甘くすんな。豆が泣く」
陽華の指が、袋の上でさまよって、それから引っこんだ。
自分のグラスには、ガムシロップを半分だけ垂らした。その上から、生クリームを細く落とす。白が黒の面に落ちて、ふちのほうへ広がり、すきまに沁みこんでいく。黒と白のさかいめが、ゆっくりと渦になった。
ひと口すくって、口に入れた。
冷たさが先に来た。そのあとで、苦みが舌の奥まで届く。噛むほどのこともなく、かたまりは舌の上でほどけて、そこからいつもの深煎りの香りが鼻へ抜けた。クリームが、苦みのふちを丸くしていく。最後に、遠くのほうで甘さがひと粒だけ残った。
焔は、シロップもクリームもかけずに食べていた。黙ってひと口、もうひと口。
「……負けてねえ」
焔の腰のうしろから、しっぽがのぞいた。その先で、小さな火がちらりと揺れた。焔はそれを横目で見て、舌打ちをひとつした。火が消えると、しっぽもすっと引っこんだ。
翠は、グラスを両手で包むように持って、スプーンを口に運んだ。もぐ、と一度だけ動かして、飲みこむ。
「……おみせ、はいってる」
陽華が、スプーンを持つ手を止めた。
「……入ったのだな。店が」
朧さんが、丸椅子から下りて、カウンターの前に来ていた。右の列からグラスをひとつ取って、ひと口食べた。何も言わずに、ふた口めをすくった。
*
残ったグラスを、冷蔵庫に戻した。
「そっちも戻すで。捨てたら損や」
黄金が、左の列を自分で運んできた。スプーンの立つものと、ふるりと揺れるもの。棚の上で、二列がまた並んだ。
扉を閉めて、灯りを消しに店へ出た。
厨房に戻ると、陽華が、冷蔵庫の前に立っていた。
取っ手に指をかけている。しばらく、そのまま動かなかった。
やがて陽華は、取っ手からそっと指を離した。




