第三章 金曜日の夜市と、コーヒーゼリー(3)
七月十八日、金曜日。
冷蔵庫の扉を開けると、きのうの二列が、まだそこにいた。
左はスプーンの立つほう、右はふるりと揺れるほう。お冷のグラスが肩を寄せ合って、いちばん広い棚を占めている。ひと晩たっても、二列は二列のままだった。
「その棚、空けなあかんな」
うしろで、黄金が言った。六時の鐘が鳴ったばかりなのに、エプロンの紐はもう結んである。
「三十、入れるんやから」
*
焔が、キャニスターを抱えて焙煎室から出てきた。きのうの朝、ゼリーのぶんとして焼いて、ひと晩寝かせた豆だ。あしたのぶんは、もう焼き終えたらしい。前髪が、汗で額に貼りついていた。
「挽くぞ。細かくな」
ミルの目盛りを、きのうと同じところまで回した。ごり、ごり、という音が、いつもより軽い。粉が、指の腹でつまめないほど細かくなっていく。
焔は、台の上の箱に手をのばした。粉ゼラチンの箱だ。横の小さな字に目を近づけて、しばらく黙って読んでいた。
それから、ボウルに冷たい水を張って、小袋の口を切った。白い粉を、水の面に散らす。混ぜずに、置いた。
雫が、やかんの前で振り返った。
「まあ。焔さん、お読みになりましたのね」
「……読んだ」
焔は、ボウルから目を離さずに答えた。
黄金が、箱の中の小袋を指先で数えていた。最後のひとつまで数えて、ふたを閉じる。
「足りる」
*
ドリッパーに、粉を高く盛った。
雫の差し出すポットから、細い湯を落とす。きのうと同じ、ほんのわずか熱い湯だ。黒に近いしずくが、とろりとサーバーへ落ちていく。三十には、一度ではとても足りない。落としきったら粉を捨て、また盛る。それを何度もくり返すうちに、厨房の空気が、深煎りの匂いで重たくなった。
ふやけたゼラチンを、淹れたての黒に落とす。木べらでひと回しすると、くもったかたまりは、すぐに見えなくなった。
湯気が細くなるのを待つあいだに、翠が、透明なカップを袋から出して、お盆の上に並べていった。十ずつ、三枚。並べる手は止まらなかったが、数える声は、今朝はしなかった。双葉だけが、一枚ぶん並べ終えるたびに、ちょこんと揺れた。
まほろさんが、サーバーを傾けた。大きな手の先から、黒い糸がカップの八分目までのびて、ぴたりと止まる。三十のカップが、同じ高さの黒で埋まった。
冷蔵庫の棚は、黄金がもう空けていた。二列のグラスは、いちばん下の段に詰め直されている。グラスどうしが触れて、かちりと鳴った。
お盆を三枚、すべりこませる。最後の一枚は、指一本ぶんの余裕もなかった。
扉を閉めると、うしろで紙の音がした。
陽華が、冷蔵庫の扉に紙を一枚、セロハンテープで貼りつけていた。大きな字で、『あけるな』。
「余が、自ら封じたのだ。これで、余の手も止まるであろう」
「自分で貼って、自分で止まるのか」
「王とは、そういうものなのだ」
止まるなら、それでいい。
*
黒板の前で、黄色のチョークを取った。
『本日の担当は、黄金です。』
その下にもう一行足そうとしたところで、黄金が横から口を出した。
「五時まで、だけやったら、もったいないで。どこ行ったか、書いとかな」
「どこ行ったか」
「お客さん、追いかけて来はるかもしれへんやろ」
言われたとおりに書いた。
『本日は五時まで。夜は、浜通りの夜市へ。』
板の端が足りなくて、最後の三文字だけ、少し詰まった。黄金は二行を見比べて、うん、とうなずいた。
*
昼すぎに、カラン、とドアベルが鳴った。
初めて見る顔の、若い男女の二人連れだった。テーブル席でブレンドを二つ頼んで、女の人のほうが黒板を振り返った。
「夜市、出るんですか」
「はい。コーヒーゼリーを」
「へえ。今年、配信する人も来るらしいですよ。SNSで見ました」
カウンターの内側で、黄金の指が、そろばんの珠の上で止まった。
俺も、一拍だけ、豆を挽く手が遅れた。五月の、ある日曜のことが、頭の端をかすめていった。
「……そうなんですね」
それだけ答えて、ハンドルを回した。黄金の珠も、また動きだした。二人連れは、もう別の話をしていた。
*
客が途切れたところで、冷蔵庫の前に竜たちが集まった。昼のまかないのかわりに、きのうの二列を分ける。
黄金が扉に手をかけると、陽華が両手を広げて立ちはだかった。
「ならぬ! 余が封じたのだ」
「ヒバ姉。それ、本番の棚の話やろ」
「……下の段は、封じておらぬのか」
「紙、一枚しか貼ってへんやん」
陽華は紙を見上げて、しばらく考えて、それから脇へよけた。
右の列は、すぐになくなった。翠は両手でグラスを包んで、雫はひと口ごとに目を伏せて。焔は、何もかけずに食べていた。まほろさんは、ひと口めで目をもっと細くした。
「やっぱり、こっちねぇ」
陽華が、左の列からグラスをひとつ取った。逆さにしてみる。
黒いかたまりは、落ちてこなかった。
「……出てこぬ」
陽華はグラスを振った。それでも出てこない。
「籠城しておるのだ」
「貸してみ」
黄金が、そのグラスを取り上げた。残った左の列を、自分の前に引き寄せる。
「ウチが入れたもんや」
スプーンを縁にぐっと差しこんで、ひとかけずつ、黙々と口へ運ぶ。顔色ひとつ、変えなかった。
「……それ、ゼリーじゃねえ。羊羹だろ」
焔が言った。黄金は返事をしないまま、二つめのグラスに手をのばしていた。
食べ終えると、黄金は空いたグラスを流しに置いて、店のお金の封筒を手にした。
「店長はん。レジ、頼むで。クリームとガムシロップ、買うてくる」
「ガムシロップも?」
「きのうの試しで、ひとつにどんだけ使うか、わかったやろ。ひと袋やと、三十に足りへん」
坂を下りていった黄金は、袋をひとつ提げて戻ってきた。レシートは、言われるまでもなく、がま口に入っていた。
クリームのパックは、冷蔵庫のいちばん下の段に収まった。二列がいた場所だった。
*
五時の鐘のあと、戸の鍵を回した。
昼のうちに、二階の押し入れの奥から、祖父の古いクーラーボックスを下ろしてあった。青い色が、角のところだけ白っぽく褪せている。
冷蔵庫の扉から、陽華が自分で紙をはがした。
「封印を、解くのだ」
お盆から、カップをひとつずつクーラーボックスへ移す。三十の黒は、どれもちゃんと固まっていた。カップを傾けると、中の面が、ほんの少しだけ遅れてついてくる。クリームのパックも、カップのわきに寝かせた。
まほろさんが、クーラーボックスを抱えあげた。重さを確かめるでもなく、赤ん坊を抱くように、両腕で胸の前に。雫は、空いたお盆を一枚だけ胸に抱えた。
屋根裏の朧さんは、七時の鐘まで下りてこない。ホールの灯りをひとつだけ残して、表の戸から出た。外から鍵をかけると、ガラスの向こうで、静かな店がこちらを見送っていた。
*
坂の下のスーパーで、氷を二袋買った。黄金が、封筒から払った。
クーラーボックスのふたを開けて、袋の口は開けないまま、カップの列のすきまに差しこむ。ふたを閉めると、中で、袋がかさりと鳴った。
浜通りに出ると、傾いた日が、テントの屋根を橙色に照らしていた。
白いテントが、通りの両側にずらりと並んでいる。鉄板の温まる匂い。どこかで、甘いソースの焦げる音。テントとテントのあいだの頭上には、まだ灯の入っていない提灯が、一列に渡してあった。
「サク!」
陽華が、通りの真ん中で、くるりと回った。
「この通り、まるごと店になるのか! どこまで行っても、店なのだ!」
橙のポニーテールの根元から、王冠のような角が、ぴょこんとのぞいていた。
法被を着たおじさんが、手にした紙と通りを見比べながら、こちらへ歩いてきた。
「喫茶店さん、ね。ここ。かき氷の二軒先」
それから、陽華の頭に目をとめた。
「お。それ、なに?」
「演出ですねん」
黄金が、間を置かずに答えた。
「へえ。凝ってるねえ」
おじさんは感心した顔で、次のテントのほうへ行ってしまった。
商店街から借りた長机は、白い天板だった。黄金と俺とで脚を起こし、通りに向けて据える。机の端に、ガムシロップの袋を置いた。
黄金は、百円玉の棒金を一本、店の封筒の上に置いた。七月の初めに、信金で崩してきたうちの一本だ。自分のがま口とは、指一本ぶん、離して置いた。
翠は、スプーンの袋を胸に抱いて、机のうしろの、いちばん奥に立った。通りを行き来する人を、目だけで追っている。
「……ひと、いっぱい、くる?」
「来るといいな」
翠は袋を抱き直した。双葉が、半分だけ持ち上がって、そこで止まった。
焔は、かき氷のテントのほうを、腕を組んで見ていた。削られた氷が、機械の下で白い山になっていく。
「……氷に色かけてるだけじゃねえか」
「あっちは、あっちの商売や」
「わかってるよ。……こっちは、豆だ」
雫は、机の前に立って、潮の匂いのするほうへ顔を向けていた。ソースの匂いのすきまから、ときどき、それが届く。
「夕方の海の匂いは、少し甘うございますのね」
それきり黙って、雫は匂いのくるほうを見ていた。
*
グレーのパンツスーツが、通りの向こうから歩いてきた。
黒髪のひとつ結び。胸に名札。左の腕に、紺の腕章が巻いてある。白く染め抜かれた『凪浜市』の文字が、傾いた日を受けていた。書類挟みを胸の前に抱えて、テントをひとつずつ確かめるように見ていく。
御影さんだった。
「シノ!」
陽華が、机の向こうから身を乗り出した。
「よいところに通ったのだ。黒くて、冷たくて、ふるふるするものが、もうすぐ並ぶのだ。ひとつ、どうだ!」
御影さんは、机の前で足を止めた。クーラーボックスに目をやって、それから陽華を見た。
「勤務中ですので」
「……むう」
「久遠さん。本日は、店の外で」
「はい。夜市のあいだだけ」
御影さんは書類挟みに目を落として、ペンの先を、紙の上で小さく六回動かした。
それから、その目が、陽華の頭の上で、ほんの一瞬だけ留まった。
「……演出、ということで、伺っておきます」
頭を下げて、次のテントへ歩いていく。紺の腕章が、人のあいだに見え隠れしながら、通りの奥へ小さくなっていった。
陽華は、両手で自分の頭に触れた。角は、いつのまにか引っこんでいた。
*
黄金が、クーラーボックスのふたを開けた。
氷の袋のあいだから、カップを十、取り出す。雫の抱えてきたお盆の上に、一列に並べた。残りの二十は、ふたの下で、まだ冷えている。
「全部は出さへん。ぬるなったら、値打ちが下がる」
まほろさんが、クリームのパックの口を切った。雫が、スプーンの袋を翠から受け取って、机の端にそろえた。
どこかのテントで、発電機がうなりはじめた。
通りのスピーカーから、間延びしたチャイムが流れた。
頭上の提灯に、いっせいに灯が入った。空はまだ明るくて、灯の色は、日の光に少し負けていた。
坂の上の店では、今ごろ振り子時計が、誰もいないホールで六つ打っている。
提灯の灯が、お盆の上にも落ちてきた。十のカップの縁だけが、細く光る。
中は、まだ、ただの黒だった。




