第三章 金曜日の夜市と、コーヒーゼリー(4)
通りの端から、提灯にひとつずつ灯が入った。
橙の点が、テントの屋根の上を、こちらへ向かって渡ってくる。最後のひとつが机の真上で灯ったとき、さっきまで飾りにしか見えなかった列が、急に夜の顔になった。空にはまだ明るさが残っているのに、行き交う人の頬を照らしているのは、もう頭上の灯のほうだった。
人が増えた。下駄の歯が、アスファルトの上でからころと鳴る。どこかのテントで、ヨーヨーの水がぽしゃんと揺れた。
最初に机の前で足を止めたのは、浴衣の親子だった。
紺の浴衣のお母さんと、金魚の柄の浴衣を着た、五つか六つくらいの女の子。女の子は机の縁に両手をかけて、つま先立ちになった。
「……これ、なに?」
「コーヒーゼリーです。コーヒーを冷やして、固めたものです」
「にがい?」
「ちょっと。上に白いのをかけると、甘くなります」
女の子はお母さんを見上げた。お母さんは笑って、巾着から五百円玉を出した。
「ひとつ、ください」
黄金が、五百円玉を両手で受け取った。百円玉の棒金を取り上げ、巻いてある紙の端を、爪の先でぴりりと破る。夜市でいちばん最初のおつりが、二枚、お母さんの手のひらに落ちた。
まほろさんが、お盆からカップをひとつ取った。クリームのパックを傾けると、白い糸が、黒の上に細く落ちた。糸はふちのほうへ流れていって、そこで白くにじんだ。
机の端で、かさ、と音がした。
翠だった。いちばん奥にいたはずの翠が、机の端にそろえてあったスプーンを一本抜いて、机の陰から出てきていた。女の子の前に立つ。背の高さが、ほとんど同じだった。
翠は口を開いた。声は、出てこなかった。
かわりに、スプーンを両手で差し出した。
女の子は、翠の顔とスプーンとを見比べて、それから自分も両手を出して、受け取った。翠の双葉が、ふるりと揺れた。
「毎度おおきに」
黄金の声が、通りのざわめきの上を、まっすぐ渡っていった。
雫が、クリームのかかったカップを底から支えて、お母さんに手渡した。
「冷えておりますうちに、どうぞ」
親子は、提灯の下を歩いていった。女の子は何度もこちらを振り返った。手の中のスプーンを、両手で握ったまま。
*
それからは、数えるひまがなかった。
黄金が受け取り、まほろさんがかけ、雫が渡す。翠は、机の陰と客の前とを、行ったり来たりした。声は一度も出なかったが、差し出す手が止まることもなかった。
お盆が空くと、黄金がクーラーボックスのふたを開けた。氷の袋のあいだから、次の十を取り出す。ふたを閉める前に、中を一度だけのぞいた。
「あと、十」
陽華は机の前に出て、通りへ向かって両手を広げていた。
「そこの者! 暑かろう! 冷たいものがあるのだ!」
呼ばれた人は、たいてい笑った。笑って、三人に一人くらいが、足を止めた。
しばらくして、さっきの金魚の浴衣が戻ってきた。うしろに、同じくらいの背の子どもを三人連れている。
「ともだち、つれてきた」
陽華が、両手を打った。
「おお! 友が、友を連れてきたのだ!」
子どもたちは、握っていた手を机の上で開いた。汗で湿った百円玉が、三枚ずつ。黄金はそれを、一人ぶんずつ指で寄せて数えた。
いちばん背の高い男の子が、ひと口食べて、顔をしかめた。
「にがっ」
それから、もうひと口食べた。
「……でも、うまい。これ、だれがつくったの」
「豆は、あの赤い姉ちゃんが焼いたんや」
黄金が、机のうしろで腕を組んでいる焔を指した。
男の子が、焔を見上げた。
「すげえ」
焔は、そっぽを向いた。
その腰のうしろで、赤いしっぽがのぞいた。先に、ぽっと火がついた。
「しっぽ! 火、ついてる!」
「演出なのだ!」
陽華が、男の子と焔のあいだに割って入った。胸を張って、もう一度言う。
「演出なのだ。よくできておろう!」
「すげえ……」
男の子は、陽華の顔と焔のしっぽとを、かわるがわる見ていた。焔は背中を向けたまま、低く言った。
「……見んな」
腕を組み直すころには、火は消えて、しっぽも、もう見えなかった。
*
空から、最後の明るさが抜けていった。
提灯の列の向こうが、藍から黒に変わる。通りの色は、もう頭上の灯がひとりで受け持っていた。
机の前で、甚平の男の人が、受け取ったばかりのカップを目の高さに持ち上げた。
スプーンの先を、黒の中へ入れる。ぷつ、と表面が割れて、かたまりが崩れた。崩れたところに、いくつも角が立った。
その角のひとつひとつに、提灯の灯が映っていた。
黒い面の上に、橙の点が浮かんでいる。男の人がカップを傾けると、点は角から角へと渡っていって、白いクリームのすじの手前で止まった。黒と、白と、橙の点が、男の人の指のあいだで、かすかに揺れていた。
崩れた口から、深煎りの匂いが、冷たいまま立ちのぼった。
男の人はひと口食べて、喉の奥で短く唸った。
「……苦えな。いいな、これ」
今朝の厨房を思い出した。細かく挽いた粉を高く盛って、ほんのわずか熱い湯を、何度も落とした。あの黒は、朝からずっと冷たい場所で、この灯を待っていたのかもしれない。
*
気がつくと、机の端に、銀の髪が立っていた。
提灯の灯を受けて、長い髪の先まで、うっすらと橙に染まっている。朧さんは何も言わずに、お盆の上のカップを見下ろしていた。
「……朧」
朧さんが、手のひらを開いた。鍵が一本、のっていた。
「郵便受けに、落ちてたわ」
「起きたら、来るかと思って」
「そう」
朧さんは、鍵を俺の手のひらに返した。指先が、夜の水みたいに冷たかった。
「朧お姉さま」
「おぼろ! 起きたのか!」
雫と陽華の声が重なった。朧さんは二柱のほうへ顎を引いてみせてから、お盆に目を戻した。
「ひとつ、もらえるかしら」
朧さんの手には、もう何ものっていなかった。
ポケットから、自分の財布を出した。三百円を、黄金の前に置く。
「店長はんの財布からやな」
「うん」
黄金はそれだけ確かめて、百円玉を店の封筒の上に重ねた。
まほろさんがパックを傾けかけたところで、朧さんが言った。
「白いのは、多めに」
「あらあら。朧ちゃん、白いのが好きねぇ」
まほろさんの細い目が、もっと細くなった。白い糸が、いつもより長く落ちた。黒の上が、半分ほど白くなった。
「……朧姉。それ、ほとんどクリームやで」
朧さんは答えずに、スプーンを入れた。机の端に立ったまま、ひと口食べて、提灯の列を見上げた。
「……夜のものね、これは」
朧さんは、そのまま机の端に残った。
*
グレーのパンツスーツが、人波の向こうから戻ってきた。
黒髪のひとつ結び。胸の名札は、そのままだった。けれど、左の腕に、もう紺の色はない。書類挟みは、脇に挟んであった。
「シノ!」
御影さんは、机の前で足を止めた。お盆の上には、カップが四つ残っていた。
「……勤務は、終了しました」
それから、百円玉を三枚、机の上に並べた。きっちり、三枚。
「ひとつ、いただけますか」
まほろさんが、クリームをかけた。今度は、いつもの長さだった。雫が両手で渡すと、御影さんは立ったまま、スプーンを入れた。
ひと口。
御影さんは、スプーンを持ったまま、しばらくカップの中を見ていた。
「……ブレンドの、味がします」
「店のと、おんなじ豆や」
黄金が言った。御影さんは、こくりとうなずいた。
「……はい。そう、だと思いました」
陽華が、机の向こうから身を乗り出した。
「シノ、食べたな! さっきは、食べぬと言うたのに!」
「さきほどは、勤務中でしたので」
御影さんは、ふた口めを口に運んだ。
「今は、勤務外ですので」
陽華は、しばらく考えてから、うむ、と大きくうなずいた。何が通ったのかは、たぶん陽華にもわかっていない。
*
三回めのお盆が空になったのは、それから間もなくだった。
クーラーボックスのふたを開けると、氷の袋のあいだに、もうカップは残っていなかった。どの手に渡ったのが終わりのひとつだったのか、あとから思い返しても、わからなかった。それくらい、続けざまだった。
「……売り切れや」
黄金は、ふたを静かに閉めた。
夜市は、まだ続いていた。机の向こうでは、下駄の音が途切れずに行き交っている。
長机の脚をたたんで、法被のおじさんに返した。おじさんは空のお盆を見て、「もう売り切れ? たいしたもんだ」と言った。
雫は、空になったお盆を胸に抱えて、人波のほうを見ていた。黒いカップを手にした人が、提灯の下を、あちらにも、こちらにも歩いている。
「……あの方も、あの方も。みなさま、冷たいうちに召し上がってくださいましたわね」
雫は、お盆を抱く腕に、少しだけ力をこめた。
*
帰りがけ、黄金の足が、ひとつのテントの前で止まった。
水を張ったたらいに、緑がかった瓶が何本も沈んでいる。ビー玉の入っていない、王冠で栓をした古い形の瓶だった。黄金はしばらくそれを見下ろしてから、テントのおばさんに聞いた。
「ひとつ、まからへん?」
「ラムネは、まからないよ」
「……せやろな」
黄金は、がま口を開けた。ぱちん。店の封筒には、指も触れなかった。
おばさんが、瓶の口に栓抜きをかけた。しゅぽっ、と短い音がして、王冠が台の上に跳ねた。細かな泡が、瓶の首までいっせいにのぼってくる。
黄金は瓶を傾けて、喉を三回鳴らした。それから、台の上の王冠を指でつまみ上げた。縁のぎざぎざが、提灯の灯を受けて鈍く光った。
黄金はそれを、指の腹でぬぐって、がま口にしまった。
「守銭奴。それ、ゴミだろ」
「ゴミちゃう」
黄金は、がま口の口金に指をかけたまま、ひと息ぶん黙った。
「……ウチ、なくならんもんが好きやねん」
焔は「……ふうん」とだけ言って、先に歩きだした。
まほろさんが、空のクーラーボックスを、今度は片手に提げた。中には、溶けた氷の水しか入っていない。三十のカップは、ひとつ残らず、誰かの手に渡っていった。
*
潮見坂の下まで来ると、夜市の音は、背中のほうで遠くなっていた。
坂の途中の街灯が、ぽつ、ぽつと上へ続いている。まほろさんがクーラーボックスを提げ、雫が空のお盆を胸に抱えて、ひと足ずつ上っていく。翠は、空いた手で、俺のシャツの裾を握っていた。朧さんは、いちばんうしろを歩いていた。
黄金は、がま口を胸の前で握って歩いていた。
坂を一歩上がるたびに、その手の中で、ちり、と音がした。
王冠と、黄金の小銭とが、触れ合う音だった。
最後の一歩でも、ちり、と鳴った。
(第三章・了)




