第6話 すかばら荘の歌垣
朧気ながら、俺はノーパソの前に突っ伏してることに気付いた。身体が泥のように重い。関節を曲げようとしても嗤うだけ。
(……それにしても)
お隣さんはいつにも増して、お盛んだ。給料入ったからってはしゃぎすぎ。次、顔合わせるのえぐいて――
(……いや。そもそも俺、隣人見たことなくね?)
急に胸がつかえる。どエロかった嬢のドカ啼きがいまや、ドカ哭きに聴こえる。ドンッと下から突き上げる音――微睡みから一瞬で叩き起こされる。地震だ。震度三以上はある。それなのにやまない、ドカ哭き。
(……怪奇現象ってやつ?)
俺はいつから、オカルト脳になったんだ。思わず、ちゃぶ台に頭を打ち付ける。痛みに気を取られてるうちに、すべて静まり返ってた。
息を整えようとする俺を、近所の三毛猫みたいな音が遮る。ドアの音だった。地震で鍵が開いたのか。再び静まり返るなか、半開きのドアの誘いに乗って畳を這う。布の擦れる音がやけに高音質だ――いや、俺のじゃない。ドアの外側にもなんか這い寄ってきてる奴がいる。
(ヤバい……急げ)
ドカ哭き女との遭遇を想像して、チキった足に気合い入れる。
(はやく……っ)
気力を振り絞って立ち上がると、そのまま倒れ込むようにドアノブへ手を伸ばす。静電気が俺を拒絶する。わかっているのに手を離してしまう。そんな些細な生存本能すらいまは愛おしい。間髪入れずにもう一度――
「さ、沙漠……?」
何が起こったかわからない。気付いたときには全方位、砂だった。吹きすさぶ砂嵐で、星も見えない。後ろを振り返っても、ズタボロ荘の梁ひとつない。
(ここはどこだ……?)
重かった身体は、嘘のように軽い。でも、歩く気にはなれない。その場で仰向けになった。
いつまで経っても、砂の流れと風の音――鼻歌でも刻んでやろうかってくらい単調だ。
「……同じこと考える奴がいるな」
耳が慣れてきたのか、逆に麻痺ったのか。明らかに人為的な音が混ざり込んでる。耳を澄ませた方角に、ぼんやりと灯りが浮かんだ。俺は夜をかき分けるように、光を目指す――
砂の山に何度も足を取られながら、やっと近づく。
何かを探す青年の影が光に沿って伸びてる。その隣には、大破した大型バイク。俺が目指した光は、そのハイビームだった。
「大丈夫ですか?」
絶対大丈夫じゃない。けど、俺はそれ以外の言葉が思いつかない。キレられてもおかしくない。
「ありがとう。僕は大丈夫」
優しい声――でも、砂を探る手は止めない。
「……あ、あったあった」
あどけなさの残る抑揚。俺より少し、若い感じがする。
「はやく拾って、行かないと……」
大破したバイクの部品を集めてるみたいだ。急ぐ理由があるのか。ひとつ見つけた喜びも束の間、手を砂へ潜らせてく。
「……まだ、泣いてるはずだから」
「誰が?」
返事がない。なんかまずいこと聞いたかと、俺も黙ってしまう。砂を掻く音が三回続いたあと、青年がぽつりと言った。
「また走りだせば、道も思い出せるから」
まさかバイクを直す気でいるのか。ぜんぶ集めたところで、とても直せるレベルじゃないが……。それに積み重なる砂のせいでせっかく見つけた部品をもすぐ、砂へ還ってく。一生、拾い続ける気かよ――三拍子の低い旋律が、風に混じって聴こえてくる。
「手伝ってくれるの?」
その音を振り払うようにしゃがむと、青年は嬉しそうに言った。
「ダイヤモンドの雨が降るから困ってたんだ。……目がチカチカ、痛くてさ」
ダイヤモンドの雨って? 天王星の話でもしてる?
「助かるよ」
ここで初めて青年と目が合う――はずだった。青年の目元から、無数の硝子片が飛び出してる。チカチカってそういう……。
俺はのけ反り、派手にコケる。起き上がろうにも、地面に着いた部分から砂に呑まれてく。踏ん張りがきかない。起き上がれない。声も出ない――
そんな俺を、青年は初めからいなかったように、部品探しに戻ってる。
「今日は、何曜日だったかなあ……」
そのつぶやきだけが、俺の心に浸み込んだ。
◆◆◆
つき、ひ、ほし、ほいほいほい――不思議なさえずりで目を覚ます。
目を開けると、薄桃色の空が広がってる。さっきの沙漠が嘘みたいに、チルい空気が流れてる。見覚えのない山の根、そこに位置する泉の岸で女の子がひとり、黙々と洗濯してた。
(彼女だ……)
ネットが当たり前になった世界で、はじめて心を砕いた女性。なのに、呼びかけることができない。俺は、彼女の名前を知らない。親しく想ってるのに、生身で出会ったことすらない。
ただただ、遠巻きに彼女を眺めることしかできない。彼女は俺に――気付かない。赤と黒のセーターを一心不乱に洗い続けてる。
月、日、星、ほいほいほい――ずっと変わらない空。月も星も、太陽すらない。ここはきっと、雨すら降らない。
「今日は、何曜日だ?」
別に本気で知りたかったわけじゃない。何気なくつぶやいた、遊びのような問い。
それを皮切りに、思考が目まぐるしく廻りだす。……いまは、昼なのか夜なのか。寒いのか暑いのか。俺は、何してる? 何しようとしてたんだ? そもそも、俺は、私は――
「誰だ……?」
すべてがこの薄桃色に溶けて、曖昧になる。いままで当然だったことが、欠落してく。
月、日、星、本意本意本意――三光鳥と言ったか。空を探るように、失くした光を願うように鳴く。
「月……沙漠……」
不意に浮かんだ像をぼんやり口にした時だった。耳の奥で、それは唐突に鳴り響く。物悲しいオルゴールの音色に、似つかわしくない爆音。音が割れて、不協和音にすら聴こえる。
今日は、今年最後の灯油巡回の日なんだろう――
「……金曜、か」
そうだ。女のドカ哭きだって、週末だけだった。今日は、金曜日。理由なんてなくたって、心躍る金曜の朝――私は、俺は。
「生きてる……」
逆再生を体験してるみたいだった。全身が巻き戻ってく。瞼に温を感じる。夢に驚いて目が覚める感覚によく似てる。
(いや、このまま目醒めちゃまずい。彼女が――)
彼女はまだそこにいる。距離は変わってないのに、遠くに感じる。世界がほどけてく。瞼の裏に必死にしがみついてみたりもした。無駄だった。
「いっしょに、行こう!」
思わず、声を張り上げた。でも、彼女にはまるで届かない。手を止めない。それで、わかってしまう。
彼女は、そのセーターを白く元通りにするまで、どこにも行けないんだ、と――
耳の奥に押し込めてた鼻歌がいよいよ滲む。穏やかな曲調の割に実現不可な難題ふっかけてくる、三拍子のバラッド。
「……そんなの無理だ。無理だよな」
白く元通りなんて、できるはずがない。だって――
その泉は涸れきってるんだから。
両手を広げてみる。俺の指が、凶器に見えて仕方ない。こうなったのは、俺のせいなんじゃないか。俺が引っ張ったばかりに、彼女はより傷付いた――震える手から金属音が響く気がしてならない。それでも、諦めることができない。彼女を見捨てる事実に耐えられそうにない。手を伸ばし続けることが正しいのか、手放すことが優しさなのか。正解が、わからない。
(……恐いんだ)
――その時だった。
不変だと思い込んでいた世界。奇跡って風のことだったんだ――そう思わせる吐息のような変化が頬をなでる。
“死んだら、終わり”
曇りひとつない表情で言い放った彼女が思い浮かぶ。――俺は、手を……。
死んだら無――生きてる者の記憶だけが、死者を天国か地獄へ導く。
これが最後だった。彼女と会うことはない。もう二度と。これっきり――
「……俺は」
俺は覚えてるから。君を憶えて生きてくから。事故物件の地縛霊じゃなくて、健気で、生きることを諦めなかった女の子として……。
視界がふいに開ける。
蒼い月の下、凪いだ沙漠。らくだの影が伸びてる。それぞれの背に、男女がひとりずつ乗ってる。静かに、ゆっくり歩んでる。目的地はわからない。ただ、できるだけ遠くへ行きたいんだろう。寂しいけど、幸せそうだった。俺は、そのうちのひとりが彼女であることを願った――




