第5話 タイム
騙されるほうが悪いわ――“私”ならそう吐き捨ててた。画面の向こうを知ろうともせず、たとえ彼女がネットの海で溺れてようが、正しい泳ぎ方を教えるだけだった。目の前の彼女より、世界の共感を集めることしか考えなかった。電子の水面に映ることはない彼女の面差しに触れ、気付く。彼女は正しい泳ぎ方なんて百も承知だったってこと。
(浮き輪を投げる――そんな子どもでもできること、なんで俺は忘れてたんだろ)
彼女にとって、それは後悔であり、贖いであり、再起だった。
本音に蓋して、愛憎織りなす天国と地獄を行ったりきたり――彼女の姿がとうとうドンキヘビーユーザーに近づく。倍速で咲き切る花を見てる気分だ。金もないのにそうしたのは、本人も置いてきてしまった心の叫びだったんだろう。
その叫びも、ほんの一瞬だ。脱色しっぱなしのプリン髪も、野郎の暴力で欠けたままの歯も、自分を後回しにし続けた成れの果て。
「……あーし、何がいけなかったのかなあ」
黒板のひっかき音でも聴かされてるみたいだ。誰しも同じ心の純度を持ってると、彼女は信じて疑わない。それが、悔しい。
女ってだけで、ちやほやされる――俺はそう決めつけてきた。だから僻み嫉み、ネット上だけでもと“私”になりきった。だけど……。
知った気になってただけだった。実際は、男視点じゃ見えないえぐい世界。なんで、彼女ばっかこんな目に……。
地獄すぎる。耐えきれなくて、思わず首筋に両手の爪を立てる。
視界に、反射した月明かりが刺さる。とっさに守りに入る反射神経が、心底滑稽だった。彼女の手には、使い古したペインティングナイフ。研磨され身を斬るほど鋭くなった切先は、すり減らされた彼女の美徳そのものだった。
「これ見たとき、ふっとね……」
彼女の落とした瞳に、反射光が宿る。俺が刺されるわけじゃない――すぐに胸をなでおろす。どんなに嗤っても生きるクセが抜けない。
「全身バラバラになるかもってくらい、泣いたときのこと思い出したの」
彼女が世界でひとりぼっちになった、あの日――
「あーしが死んだら、同じくらい泣いてくれる人って、いるのかなって……」
いや“普通”家族なら、友だちなら“当たり前に”……で言葉が詰む。
“普通”って、“当たり前に”って、なんかキショい言葉だ。
いまも世界中の不特定多数から死ね死ね言われてる俺も、普通じゃない。仲良かったフォロワーにはブロックされたし、内定先からも必要とされてない。簡単に切り捨てられる――普通ってなんなんだ。
「……もうそれしか考えられなくなっちゃって」
彼女の声が落ちる。キャンバスより、喉元に向ける日が多くなったペインティングナイフ。
「でもね。こんなあーしを引き止めたの」
「……だ、誰が?」
彼女は俯きがちになる。恋でも打ち明けるような上目遣い、少し口ごもる。
「……ムダ毛」
「ムダ毛……?」
正直、何言ってんだこいつとは思った。でも、すぐに胸が詰まる。
「剃っても剃っても……毎日伸びるんだよ。あーしの意志とは無関係に、健気に、ちょっとずつ。もういいよって言ってもさ」
思わず、顎に手を当てる。そのまま指を滑らせると、伸びっぱなしの髭が音を立てた。
「ムダ毛だけが当たり前に生きようとしてた。めっちゃ些細なことだけど、いとしかった」
彼女の声が沁みる。
「……どうして、そういうの無視しちゃってたんだろ。自分を大事にできなかったんだろう」
言葉にならない。ハタハタと落ちる涙が、指先を伝って魂にリズムを刻む。
「あーし、気付いちゃった。死にたくなるくらい、堕ちるとこまで堕ちたら、もう上がるだけじゃんって。けっこう単純」
生きる意味って、案外すぐ見つかるものなのかもしれない。……でも。
「……じゃあ。なんで……」
もしや、クズ男に殺され――彼女は苦笑いしながら首を振る。
「やらかしちゃった」
よろけた。それだけで、白いセーターの半分が鮮血に染まる。横からバケツ一杯、絵の具をぶちまけたように。ろくに食べてなかった彼女にとって、想定内の事故だった。なんでだよ、そんなあっけない……。
(……もしや)
クズ男は誰にも裁かれず、いまもどっかでのうのうと生きてる?
「一発さ、殴ったほうがいい」
「え……?」
「……殴りにいこう」
俺の突拍子のない一言が、あたり一面の血だまりを震わせる。
「そんくらいしたって、罰当たんないって」
「誰を?」
「野郎だよ」
儚げな笑みを浮かべる彼女。血まみれのくせに、なんでもないように振る舞う。文化祭の裏方かよってくらい、バグりそうになる。
「超ウケる。マジで言ってる?」
「ガチだよ、ガチ。な、根岸も行くよな?」
頑なに動かなかった根岸の身体が震えてる。武者震いってやつか。彼女は笑ってくれてると思った。でも、月より遠くを見るように窓の外を眺めてる。
「……憶えてないんだよね、彼の顔」
聞き返す間もなく、彼女は続けた。
「あんなに必死だったのにね。帰りの電車に乗る頃にはボヤけちゃって……いつも思い出せなくなる」
彼女は、血だまりのなかへゆっくり横たわる。だんだん遠くなる気がして、声が出た。
「なんとかできないかな」
「どうにもならないよ。死んだら終わり」
彼女は、絵を描くように指を這わせてる。
赤い絵の具は高くて買えなかったなあ――そんな諦めの色を目に滲ませながら。
「もう何したかったか忘れちゃったし、いまの気持ちもわかんない。今日が何曜日とか、生きてたら当たり前のことが、あーしには、ない」
天国も地獄もない。ただただ、虚しい無。張り裂けそうな心から、勝手に声がこぼれた。
「……死にたくない」
自分でも何言ってるかわからない。でも、止まらない。
「このままじゃ、死ねない……」
彼女は、静かに上体を起こす。その仕草だけで、汗が勝手に吹き出る。
「もう遅いよ」
「いやだ」
情けないくらい、生への執着が溢れだす。
「じゃあ、なんで死んだの?」
マジでそれ。……なんで、俺は。
「死……」
苦しくて、これ以上言葉が続かない。首に食い込んだロープのせいじゃない。強烈な執念が、死を拒絶してる。
彼女のペインティングナイフが風を切った。ぶちっと、首元で音がする――
(マジか。引っ張るってフィジカルかよ)
あと少し遅ければ、首をざっくりやられてた。ほつれたロープが髭に障る。
彼女は、ノールックでナイフを持ち直し、じりじり迫る。くたびれたセーターが、いまや俺の死を祝う紅白に見える。いや待て。彼女は確か、赤と黒のセーターを着ていたはずじゃ……。
思考が吸い込まれそうになったとき、彼女の像を囲むように暗い靄が立ち昇る。あっという間に、俺の身体は床に叩きつけられてて――眼鏡が壊れた。
「……ね、根岸?」
助けてくれた……? そんな淡い期待も、すぐ消えた。ずっと聞き取れなかったリズムが、はっきり聴こえたからだ。ぞっとするくらい、血の気が引いた。
(だって。これって……この鼻歌って……)
彼女が唯一、好きと言えたもの――
冷静なはずなのに、まつ毛が濡れてく。冷たかった心がじわじわ熱を帯びる。頭に血が上るのと、体が起き上がるのは、同時だった。
「……てめえ。ふざけんな、ドクズ野郎……!!」
野郎の顔は、ぼやけて見えない。でもわかる。こいつは根岸で、彼女の――
なんで作業服なのか、冴えないおじの姿なのか……すべて腑に落ちた。愛妻家の佐藤二朗と一瞬でも重ねた俺が、馬鹿だった。
「彼女にさわんじゃねえ!」
久々に、頭で考える前に声が出た。バズるとか炎上とか、そういうの度外視で。つか、こんな声出せんだな。どんだけネット意識してきたんだよ、俺。喉が震える。
「……もう、これ以上。これ以上はやめてくれ……」
懇願も虚しく、根岸の靄が、蛙を捕えた蛇のように彼女を呑み込もうとしてる。
「彼女の足、引っ張んなってんだよっ!」
俺は彼女の腕をとったつもりだった。なのに、包丁でも振り下ろしたような感触と、鈍い音が畳を叩く。釣られて視線を落とす。ぼやけた視界にも、月灯りを吸ったペインティングナイフの輝きがわかる。それを握ったままの――
喉の奥がきゅっと締まった。目を戻すと、セーターの白かった部分が、血を吸ってく。呪いみたいに染み込んでく。
「そうやって、いろんなもの傷つけてきたんだね」
急に照明を落とされたみたいな、仄暗い語り口。
「え……?」
そんなわけない。俺はもう一度、今度は逆の手を彼女に伸ばす。
触れる。でも応えるのは、すでに赤かったセーターの半分。さらに色を重ねて、黒ずんでいく。
「相手が見えなければ、何してもいいと思ってる?」
「俺そんなっ……」
何が起こってる? 誰がこんなこと……。
口元に手を当てた瞬間、鋭利な金属音が弾けた。何かが視界を塞ぐ。錆びついた臭い――鼻をかする距離に柵が並んでる。……檻でも落とされた、のか?
「よく見て」
彼女の冷たい声に合わせ、指が震える。柵もカチカチ揺れる。これって……。
恐る恐る、両手を開く。
息を呑む。
視界を塞いでたのは柵でも檻でもなかった。
俺の指が――いや、指だと思ってたものは。
一本一本が、細く鋭い刃物だった。錆びついた臭いは、その切先から伝う血――
聲が聴こえる。
『――言葉は、刃物』
この指で、俺はネットの誰かを傷付ける文章を叩いてきた。違う。
「俺は、彼女を助けようとして――」
『――ネットの価値観でしか図れないくせに、誰を助けるって?』
解像度のあがった“私”が、“俺”を口撃してくる。
『――正しければ、誰かを傷付けていい理由になるとでも?』
言い訳、否定、説得……そんな隙もなく、津波のように押し寄せる聲。
「死んだら、無……」
彼女の静かな声。聲が凪ぐ。
「誰も傷つけることなんてできない。死んだ人まで傷つけれるのは、生きてる人だけ」
いままで聴こえなかったはずの、荒い呼吸音が耳に障った――
「……俺。まだ、生きて、る……?」
『――やっと、気付いた? 彼女を引っ張ってたのは、“俺”だよ』
息を吸うように、俺は呟いた。
「……事故物件」
そうやって彼女を勝手なイメージで引っ張って――死んだあとまで現世に縛ってたのは、ほかならぬ俺だった。いまなら認められる。
(……俺は、ダメンズだ)
ずっと押し込めてたものが、堰を切ったように溢れだす。
「ごめん。ごめんなさい、ごめん、ごめん……」
不意に、彼女の唇が俺の耳元に触れる。冷たい感覚はない。なのに、心臓が止まるんじゃないかってくらい、「ぞくり」と音を立てた。
「あーし、ダメンズってほっとけないタイプ」
くすぐったくなるような柔らかな物言いに、思わず目を見開く。焼却炉にくべた物を、ただ見つめているときの気持ちになった。
「無、なのにね……」
彼女の声に、色が宿った気がした。
「でも。それでも。逢いにきて――、って。ずっと、ここで、待ってたのかも」
喉の奥が、ひりついた。目の上で膨らむ涙の意味を、俺は理解できない。でも――都合良く解釈していいなら……。
視界から蕩けてく彼女。寂しい鼻歌がゆっくりと包んでく。
「何曜日だったか、忘れないでね」
無限ループする低いリズムが俺の意識をさらってく。小舟に乗ってるような心地よさ。俺は抗えない――




