第32話 お父さんが仕事で、良かったわね。
夏祭りの朝。
わたしはお母さんに浴衣を着付けてもらって、迷ったあげくのポニーテールに紺色のシュシュを付けて、8時過ぎの電車に乗るために、駅へ急いだ。
暑いな……。
7月最後の土曜日。
気持ちよく晴れたのはいいけど、朝7時代ですでに目眩がしそうなぐらい暑かった。
浴衣って、暑いんだよね。
……って、あれ?
なんか、ほんとに目眩する?
何これ。無理かも。
――わたしは、駅まで辿り着くことができなかった。
「ひさめ、どうしたの?熱あるよ、これ!」
家へ取って返したわたしの額を触って、お母さんが顔色を変えた。
そんな……。
「お母さん、今日、大事な日なんだよ。絶対、行かないといけないの」
「取りあえず、熱、測ってみな。すごい熱いよ」
体温計が表示した数字は、39.2℃。
最悪だ……。
寄りによって今日、体調を崩すなんて。
「あんたには珍しく、ここのところ根詰めて頑張ってたもんね」
たしかに、慣れないことはたくさんしたけど……。
こんなので熱出すって、自分、弱すぎでしょ。
「知恵熱ってやつかしら……?なんか、最近、悩んでるでしょ。急にお洒落もしちゃったりして」
う……母は鋭い。
たしかに、昨日はめちゃくちゃ悩んだかも。
いろいろ。
橘くんのこととか。
橘くんのこととか。
橘くんのこととか。
せっかく着せてもらった浴衣を抜いでいたら、涙が出てきそうだった。
橘くんに、見せたかったのに。
白地に紫陽花柄のお母さんのレトロな浴衣。
一緒に、花火も見たかったのに。
橘くんにわたしの気持ち、伝えようと思ってたのに。
わたしはベッドに横になって、LIMEを開いた。
部活のトークに、何時の電車に乗ったとか、何時に現地に着きそうとか、いくつかそんなメッセージが入っている。
わたしは、泣きながら、メッセージを打った。
――こんな大事な日に、熱を出してしまいました。39.2℃です。今日は行けそうにありません。本当に、みなさんにご迷惑お掛けして、申し訳ないです。
スマホの画面が、涙で滲む。
――西嶋さん、大丈夫!?
――39.2℃はヤバいね!
――こっちは心配しないで、ゆっくり休んでね。
既読がいくつかついたと思ったら、みんなから一気にメッセージが送られてきた。
みんな、優しい。
少ない部員で頑張ってるから、迷惑かけてしまうのに。
――まじかー。ひーさん、いろいろ頑張ってくれてたもんね。お大事にしてください。
桜田くんからのメッセージ。
橘くんからは……。
しばらく経っても、メッセージは送られてこなかった。
橘くん、怒ってるのかな……。
がっかりさせちゃったかな……。
取りあえず、寝よう。
しっかり寝たら、もしかしたら、夜までに熱、下がるかもしれないし。
そんな、薄い望みを掛けて、わたしは目をつぶった。
頭がくらくらする。
夏風邪ってやつかな。
神様……ひどいよ。
***
「ひさめ、お昼ご飯は、食べられそう?」
気付いたら、お昼過ぎだった。
「いらない……」
気分的にも、体調的にも、何も食べられそうになかった。
「そう?水分は、採っといた方がいいよ。スポーツドリンク買ってきたから、飲んでね」
身体を少し起こして、お母さんが渡してくれたスポーツドリンクを一口飲む。
もう一度体温を測ってみたけど、まだ38.5℃だった。
みんな、頑張ってるかな。
そろそろお祭り、始まった頃かな。
窓の外から聴こえてくるセミの声が、鬱陶しかった。
「ひさめー」
お母さんが再び階段を上がってくる音がした。
ノックして入ってきたお母さんは、変な顔をしていた。
「ひさめ、なんか今、ちょっと物騒な感じの男の人が来てね、これ、ひさめに渡してくれって置いて行ったんだけど、知ってる人……?」
お母さんに手渡されたのは、紙袋に入ったタッパーと、保冷ボトルだった。
これって……。
物騒な感じの人って……。
わたしは飛び起きた。
「な、なに、ひさめ、どうしたの?なんかすごく、恐そうな人だったよ」
「その人……わたしの、好きな人」
わたしの、好きな人。
「……大好きな人!」
怪訝そうな顔をするお母さん。
わたしは部屋の窓を開けてベランダに出た。
部屋着だけど、仕方ない。
幸いベランダの壁は高めになってるから、身体は見えないかも。
「たちばなくん……!たちばな かんじくん……!!!」
わたしは限界まで声を張って、遠ざかる背中に声を掛けた。
間に合った……!
「だからなんでフルネーム呼びなの」
橘くんが、振り返る。
無造作黒髪マッシュヘアに、両耳はピアスだらけ。
渋いグレーの浴衣を着た、とても物騒な感じの男の子。
大好きな、橘くんが、そこに居た。
「身体、大丈夫なの……?」
橘くんに聞かれて、わたしは首を横に振った。
「大丈夫じゃない」
「え……っ?」
「大丈夫じゃない。橘くん……来て」
わたし、風邪引いてるし、橘くんは、お祭りがあるのに。
これは、完全にわたしの、我が儘。
「来て。お願い」
我ながら最低。
だけど、止められなかった。
いま、橘くんに、会いたかった。
そんなわたしを、お母さんは困った顔で見ていた。
「お父さんが仕事で、良かったわね」




