エピローグ
35
翌日からは、この事件が発端となって、大騒動となっていった。
まずは、警視庁。千葉県の茂原で逮捕されていたハングレグループが葛飾区の女性を殺害したらしい、ということはわかっていた。静岡で死体処理屋の八木も逮捕されたことにより、立証が可能となった。遺体が沈められている海域も、すでに判明している。ドラム缶に詰められているはずなので、それを上げてしまえば、絶対的な証拠となる。
神奈川県警──。諸橋家に巣くっていた木島蓮美と江原丈治を、公務執行妨害で逮捕。もちろん、この罪状は建前上のものだ。生き証人もいることだし、殺人未遂での立件はできる。
もう一つ、神奈川は世間を騒がせることになった。県警内部の汚職だ。刑事部長および、その命令をうけていた数名の警察官が糾弾されることになった。木島蓮美と立候補を予定していた城崎達郎のスキャンダルも、すでに明るみとなっている。これまでに隠蔽した犯罪の数々も、これから判明していくことだろう。そこからさらに、宮根大悟まで行き着くのかはわからない。
次に、静岡県警。八木の身柄は、静岡にある。全国の仕事を請け負い、そのすべてを一箇所に投棄していた。周辺の海域は、連日、海上保安庁の協力をうけて、引き上げ作業がおこなわれている。当然、すでに述べている警視庁と、これからふれる広島県警もからんでくることになる。なお、八木に仕事を依頼していたなかには、暴力団やハングレグループのような裏社会の住人だけでなく、「先生」と呼ばれる人種も多くいたようだ。今後、日本がひっくり返るような事態も危惧されている。
最後に広島県警。数年前に行方不明となっている人物の遺体が静岡の海域から上がれば、木島蓮美と江原丈治は、その罪にも問われることになる──。
以上のように、全国規模の事件となった。小さな魚を食らうフィッシュイーターは、予想外の大物だったらしい。
ただ一つ、健介には気がかりなことがあった。あの人物がいなくなっていたのだ。
港にもどったときには、確かにいた。クルーザーにくくりつけられていたのだから、それはまちがいない。が、そこからさきの消息がわからなかった。
健介をはじめとして、深海も奈々子も詩織も、すぐに諸橋家へ直行したために、その人物の動向をさぐっている余裕などなかった。船上に残った勇太にしても、港にもどったのはずいぶん経ってからだろうから、そのときにはすでにいなかったものと思われる。のちに静岡県警に問い合わせてみたが、事情を知る者はいなかった。そもそも、クルーザーにくくりつけられていたドラム缶自体を眼にしていないという。
まるで、狐につままれたようだった。
当初は、深海がドラム缶に詰められているのではと勘違いした。深海は、死体処理屋の八木と被害者を乗せる運転手役として潜入していたのだ。
どうやって、八木や木島蓮美と渡りをつけたのだろう?
さらなる疑問も浮かぶ。
特殊Mケース犯罪研究室の同僚たちに質問しても、要領の良い答えはなかった。とくに当の深海と奈々子は、なにかを隠しているようだ。
川名奈々子……彼女は、いったい何者なのだろう?
リーダー格である深海よりも、なにか得体の知れない大きさを感じるのは、自分だけだろうか。
とりとめのない考えは続いていく。どうにも、スッキリしないのだ。
(ぼくの知らないなにかが、ある……)
はたして、それを知るべきなのだろうか。それとも、知らないまま……。
どちらなのか考えても、正解は出ないのではないか……すくなくとも、いまは──。
健介は、雑念を振り払った。
ちょうど、深海の朝の儀式が終わったところだった。
どうやらルアーの手入れに意味はないようが、この部署とルアーには切っても切れない縁がある。
われわれが追うものは、フィッシュイーターなのだから。
「じゃあ、今日も張り切っていきましょう」
奈々子の声が、部屋中に響いた。
そうだ。考えていても、はじまらない。
まだこの国のどこかで、食べられようとしている小魚がたくさんいるはずだ。被害をできるだけ減らすこと──それが、自分たちにできる唯一のことなのだ。
「はい!」
健介は、元気に返事した。
となりの湖内勇太が、驚いたような顔になった。
奈々子は微笑み、深海も渋面に口許だけがほころんでいた。
奥を見れば、いつも邪悪なピーポくんまで、さわやかに笑っていた。
36
おれが、だれだかわからないって?
おれはもちろん、《高松の義雄》だよ。
え? それが、だれだかわからない?
しょうがねえな。わからないというおたくらに、今回の事件に、おれがどういう関わりをもったのか、特別に教えてやろう。
おれが、この事件に首を突っ込むことになったのは、小田原城下での《ドクカマス》との再会だよ。あの女は、いつもおれを厄介事に巻き込んでくれる。まあ、むかしの上司だから、直接こんなことは言えねえんだけどな。
え? そもそも、おれの職業がわからないって? そんなもん、警察官にきまってるじゃねえか。勘のいい諸君なら、すでに部署も察しがついてるだろう?
そうだよ。公安部だよ。
といっても『公安部』という名称は、警視庁だけのものだから、正確には警備部公安課というところになる。が、うちらも普通に公安部と呼んでるがね。
公安というところは、刑事部などとはちがって、くだらない縄張り意識というものをもっていない。いや、ちがうか。他部署との軋轢はしょっちゅうだな。いまおれの言った意味は、領地の縄張りということだ。都道府県の境界は、無いに等しい。公安警察官は、全国に数千人。いわば、統制のとれたそれだけの人員が一枚岩となっている堅牢な組織なんだ。
だから、公安ネットワークを使って、調べたさ。調べて調べて調べたおした。
やっとかねえと、《ドクカマス》になにをされるかわからない。
忠告しといてやる。あの女を怒らせると、この日本では生きていけなくなるぞ。古巣の神奈川だけじゃないんだ。全国の公安セクションに顔がきく。いや、日本の組織にとどまらない。CIAの諜報員が日本にうじゃうじゃいるのは知ってるだろ。アメリカ大使館の職員のなかに相当数まぎれているらしい。だれがCIAなのか、当の職員たちも知らないんだってよ。もちろん、日本支部だって存在する。そういうところとも太いパイプがあるんだ。噂では、元恋人がMI6だか、モサドに所属してるとか……。さらにいまの夫との結婚も、スパイ活動のためのカムフラージュといわれている。まあ、噂なんて尾ひれがつくもんだろうが。
だからおれは、必死に調べあげた。
木島蓮美という女は、数年前から公安がマークしていた。広島、福岡、大阪。なにかと手広く活動していたようだ。城崎達郎との関係は、大学時代からのようだった。卒業後、いったん途切れたようだが、城崎が大物政治家Mの令嬢と交際をはじめたころに、どう嗅ぎつけたのか、木島蓮美は城崎の前に再び姿を現した。公安が興味をもったのも、そのときからだ。
木島蓮美は、まず政治家Mの名前を使い詐欺をはたらくようになった。その段階では、城崎は木島蓮美の本性をまだ知らない。むかしの女というだけであり、男女の関係が復活していたわけでもない。城崎達郎が地方議員として立候補を決めたときから、木島蓮美は城崎の名前も使うようになっていった。
そのころになると、城崎にも木島蓮美の本性がわかるようになっていた。が、時すでに遅しだ。木島蓮美とその下僕ともいえる江原丈治は、広島で殺人を犯してしまったからだ。そのときにも、城崎や政治家Mの名を使っていたのだろう。木島蓮美は、城崎を脅した。あなたも共犯だ、とでも囁いたのかもしれない。
バカな城崎は、いろいろと便宜をはかったはずだ。政治家Mにも泣きついたのだろう。
Mは、詳しいことまでは関知していないであろうよ。秘書がうまいこと処理したんだろうから。ここからはおれの推測になるが、八木とかいう死体処理人を紹介したのも、そのルートからだろう。
八木は、地元である伊豆の海にのみ、死体を投棄するという処理人のようだ。公安の踏み込むべき案件ではないから、もちろんこちらがちょっかいをかけることはない。殺人や損壊・遺棄などは、どうでもいいことなのだ。
本来なら、Mに影響がおよぶ段階で、やつらを排除することも考える。だがMという人物は、なにかといわくつきなのだ。
親中派であり、反米思想が強い。与党政治家としては、失格だ。
公安としても、そういう判断があったために放っておいた。
もしものときの切り札に取っておいたともいえる。
Mが決定的に邪魔となれば、それをネタに失脚させる。だからこそ、公安は木島蓮美を泳がせていたのだ。
《ドクカマス》の一声で、その方針が変わった。
おれは、死体処理人・八木の情報をドクカマスのパトロンにくれてやった。パトロンではなく、逆にヒモか?
パトロン、ヒモ──そんな表現をドクカマスの耳にでも入れてしまったら、おれは次の日には、東京湾の底に……いや、八木の仕事場にでも沈められてしまうだろう。
くわばら、くわばら。
パトロンが、運転手役、または運び屋として八木に近づけるように細工をしてやった。パトロンとは、何度か顔を合わせている。だから、おれの正体にうすうすは気づいているはずだ。なにも言わないところをみると、パトロンも折り込みずみなのだろう。ということは、ドクカマスの正体にも察しがついているはずだ。
あの特殊なんとかという部署に、公安の血を入れたかったのかもしれない。
知っている。あのパトロンの熊本時代の話を。
大物政治家がからんでくると、なにかと捜査に歪みが生じる。
それを防ぐために、公安を引き入れたのだ。
油断のならない男だ。ドクカマスといい勝負だな。
しかし、彼らだけにまかせておくわけにはいかない。ドクカマスは例外としても、素人どもに場を荒されて、せっかくの情報を無駄にさせるのもしのびない。
パトロン。
ドクカマス。
処女女医。
格闘バカ。
新人くん。
彼らは五人で、一つのチームだ。
まったくもって、バランスの悪い出来損ないの集まりだ。
──だから、おれはおれで潜入することにした。
そこでようやく、《高松の義雄》が出てくることになる。
当然のこと、架空の人物だ。モデルに該当するような人間もいない。
なぜ『高松』なのか? それが、一番の疑問になるだろう。
結論からいえば、それに関しては、なんの「オチ」も用意していない。こういう場合、その理由を聞けば、なるほど、と感嘆する「なにかが」隠されているものだ。そんなものはない。ただのフィーリングでつけてしまったのだ。高松など行ったこともないし、そんな姓の知り合いもいない。
義雄、のほうにも意味はない。
本名でもなければ、なんのゆかりもない名前だ。
高松の義雄は、こうして(?)誕生したんだ。
あの諸橋一家とも、当然のごとく面識はない。
だがね、確信はあったんだよ。
一家は必ず、おれを受け入れる──とね。
上げられるだけ、テンションを高くした。
人というものは、得体の知れないものに圧倒されると、それを否定できなくなる習性があるんだ。
おれは、《高松の義雄》として木島蓮美の眼に留まった。
彼ら流に表現すれば、疑似餌になったということだ。
そして、やつらは食らいついた。
命の懸かった潜入だったが、おれには常に勝機しかない。
おれが殺されないことは、おれ自身が一番よくわかっていた。
あとは、あのポンコツチームがどう転ぶか……。
彼らは、よくやった。
ドクカマスは別格として、パトロンも相当な実力者だ。それだけではない。処女女医も必要で重要なパーツの一つだし、格闘バカも人間離れした手練だ。褒めるしかない。ポンコツと呼んだことを訂正しよう。
残る一人……。
ある意味、なんの取り柄もないと思われていた《新人くん》が、実は最高にエキサイティングだったのかもしれない。
ぼくちゃんは、竿一本で、コンクリ詰めにされたおれを釣り上げたのだ。
ただものではない。
あのロッドさばきも、大物相手に折れない心も、一級品だ。
竿が折れなかったのは、奇跡でもなんでもない。彼の折れない心がロッドにも伝わったのだ。悔しいが……新人くんの──あのチームのことを認めざるをえない。
さすがは、ドクカマスが身を寄せるチームだ。
次に会うときは、もっと彼らの成長した姿を拝めるだろう。
そのときまで、おれは姿を消したままにしておくぜ。
じゃあな。
……え? まだ解決してないことがある?
ああ、あのことか。
《高松の義雄》がおれだと、おかしな表現が多々あることだな。つまり、ところどころ出てきた釣りの表現に見立てた描写のことだろ? あれがパトロンの独白だと、おたくらは思ったんだな。だがよく考えてくれ。パトロンは、ルアーの手入れはするが、釣りのことには詳しくない。釣り用語とかは、よくわかんないはずだろ。
そうだよ。おれの趣味は、新人くんと同じで釣りなんだよ。だからおれは、彼らのフィッシュイーターという例えにのってあげたんだ。これで、スッキリしたろ。
じゃあな、今度こそ。
エピローグ
深海はその朝、ついに謎の監視者とあいまみえていた。
いつもは逃げるのに、今日は、むこうのほうから近づいてきたのだ。
「おまえは、だれだ?」
深海は、尋問した。鼓動が高鳴っていた。
「おれだよ、深海」
監視者が、深くかぶったキャップを取った。
それは、最悪の予想とはちがい、熊本の《M》ではなかった。
だが、知っている人物だ。
「篠木……」
熊本県警時代の知り合い。所轄署で地域課にいた男だった。
そう。あの家族のことを相談してきた友人だった。
「なぜ、おまえがここに……」
「きまってるだろ。おれには責任がある。おまえなんかに頼ったばかりに、あの子は……あの子の家族は……」
ここに来る目的は、自分と同じだということか。
「このあいだは、彼女のほうから声をかけられた」
篠木は言った。やはりあのとき、二人は会話を交わしていたのだ。
「彼女は、おれのことはもちろん、おまえがつきまとってることも知ってるぞ」
「なんて言われたんだ?」
「……わたしは大丈夫です」
おたがいが、押し黙ってしまった。
「いらぬお節介なのかもしれんな」
深海は、ようやくそれだけを絞り出した。
「だがな、深海。おれには予感があるんだ。あの男が、いつか彼女のもとにやって来るんじゃないかと」
「……」
「あのときも言ったろ。フィッシュイーターの習性は変わらないと……小魚を食べ尽くすと」
その比喩を最初に使ったのは、ほかでもない。この篠木なのだ。
深海は、ガラシャツの胸ポケットから、あるものを取り出した。
「それ……まだ持ってたのか」
ルアーだった。篠木からもらったものだ。
いつか、釣りを教えてやる──。
その約束は、果たされていない。
「そうか。あの噂は本当だったのか。おまえが、フィッシュイーターたちを釣り上げようとしてるって」
「釣りのことはよく知らない。だがおれは、それでもあきらめない。必ず釣り上げる!」
そのことを、まだ若い純真な警察官に教えられた。
いまでは頼もしい仲間であり、自分が導くべき生徒でもある。
「そのぶんだと、おれが教えてやる必要もないな。釣りの先生は、もうみつかっているようだ」
深海は、うなずいた。
篠木の視線がそれた。
見れば、そこには家からできた彼女の姿が。
こちらをみつめ、たたずんでいた。
彼女が会釈をした。
深海は、踵を返した。
もうここに来ることはないだろう。そう思った。彼女はすでに、守られるべき小魚ではなかった。
他人の力など必要としていなかったのだ。
恐怖を断ち切り、前を向いている。
闘っている。
ならば、自分のやるべきことは……。
深海は歩き出した。振り返らない。とっくに腹はくくっていた。
フィッシュイーターを、根こそぎ釣り上げる。
ただそれだけだ。
最強の仲間たちとともに──。
すべての悪夢を終わらせる。




