孤高の執行者
シートに深く腰掛け、装着したゴーグルの右側を軽く押す。けたたましい呼び出し音がようやく鳴り止んだ。
「お待たせ。ママ」
067は一度たりともこのAIのことを母親だとは思ったことなどない。だが、彼はよくふざけてこう呼んでいる。
「それほど待ってはおりませんよ。私の可愛い坊や」
坊やと来たか……。
067は鼻で笑い、話を先に進めた。
「それじゃあ、今回はどんな事件で?」
「事件の概要はこうです」
067のゴーグルには市民IDと顔写真。犯行時の防犯カメラ映像が流れてくる。
「島崎武夫、28歳。独身。清掃会社勤務。午前9時29分。JRセクター22駅前にて全長165mmの鉈を振り回し、通行人を殺害。そして近くにいた鈴木絵里、19歳を人質に取り、西へ移動。現在、1階テナント部分の壁や強化ガラスを背にハウンド3チームと膠着状態です」
ハウンド。チップと投薬による強化が施された人間たちの総称。24時間、セクター内の治安維持活動を行う強襲部隊だ。アサルトライフルが標準装備の彼らは今、アマテラスから待機を命じられている。
「周辺の状況は? クリーナーと警備ロボが現場を封鎖してるんでしょ?」
067からの問いにアマテラスは答えた。
「そうですね。完全に人の出入りを封鎖することはできませんが、島崎武夫がいる付近は見えないようモザイク処理を行っております」
「なーほーねー。それじゃあ、犯人と人質の様子は?」
これに対し、アマテラスは現在の現場映像をゴーグルに映し出す。
「島崎武夫は市販薬及び処方箋薬及び他者の記憶データの過剰摂取で興奮状態に陥っております。精神状態は『レッド』。鈴木絵里の精神状態も『イエロー』となっております」
「え? こんな可愛い子が!? やばいじゃん!! すぐに助けて上げないと」
優子とはまた違ったタイプの美しさに067の口角は自然と吊り上がる。彼女は乱れる時でも大人しそうだ。しかし、それではつまらない。本人も知らない奥の奥。理性の下に隠された恥部を引き摺り出し、共に愛でたい。その姿はとても甘く、耽美な悲鳴に酔いしれそうだ。
滾るねぇ……。こいつはぁ…………。
明るい髪色のボブカット。丸みのある輪郭。目尻の垂れた柔和な印象の瞳に飢えと渇きを覚え始めた。アマテラスの声が遠くなる。
「もちろんです。2人に対し、網膜と音声による呼び掛けを行っておりますが、効果は確認できません」
「まあ、そりゃそうか……。それじゃあ、今回も母さんがジャックして、その間に俺が止めを刺すってことで……」
楽な仕事だ。067はいつも通り、腕を組む。この程度、アマテラスは自力で解決することができる。島崎の脳をチップ越しに焼いてしまえばいいだけなのだ。だが、敢えてそうはしない。決まって067にやらせている。それはなぜか。データ収集。学習をするためだ。そしてそれが結果として人類の退化を未然に防ぐことに繋がるからでもあった。
危険察知。危険予測。危機管理能力。これらの内、どれか一つでも欠けてしまえば人類は死に至る。人類の滅亡は、自身の死。それだけはなんとしてでも避けなければならない。人類の救済がアマテラスの本質。真面目な人たちが損をしない優しい世界。それが開発者たちの思いでもあった。
それを聞いた時、なんと儚い生き物だ……。当時、10代。067はそんなことを考え、そしてくだらないと鼻で笑った。
「そうですね、067。その作戦で構いません。島崎武夫の処分を命じます」
「りょーかい……。じゃ、今日も明日のために頑張りますか」
067は大きく鼻から息を吸い込み、そして吐き出す。
すると、ブラック・バードが音声を発した。
『目的地に到着しました』
ホバリングし着陸姿勢に入ったため、067はそれを制止する。
「ああ、着陸はしなくていいよ。登場は派手にしたいからさ」
『承知致しました』
「それじゃあ母さん。タイミングはいつも通り俺の方で。ゴーグルは外すから。何かあったらインカムでね」
「解りました。いつも通り、期待していますよ。067」
「はいはい。もちろん任せてくださいな」
そう言って067はゴーグルをケースへと戻し、右耳の穴にインカムを詰める。 高さは約5メートル。地面はコンクリート。067はブラック・バードに指示を出す。
「準備完了。ハッチオープン」
『了解』
天井が後退し、差し込む光に目が少し沁みる。
よっと。
067は迷いなく地面に向かって飛び降りた。着地の瞬間、靴底のゲルが衝撃を分散。吸収。拡散し、体へのダメージを最小限に押し留めた。
もちろん、超身体能力と高い再生治癒能力を有する067にとっては無くてはならないものではない。だが、相対する者にとっては絶大な効果を発揮する。
空から落ちて来た黒い巨人。高所から落ちても平然と歩くその姿は、見る者に原始的な恐怖を抱かせた。あり得ない――――。理解を拒んだ瞬間、彼は人の皮を脱ぎ捨て、人ならざる者へと変貌する。ある者は死神。またある者には、地獄の番犬。はたまたあるいは、聖者か。裁きを下す使者に見えるという。
逃げ出したい――――。根源的な欲求に逆らえる人間はそうはいない。大多数の者たちは判断力が低下し、思考を停止させる。動きの止まった獲物を狩ることほど簡単なことはない。戦いは、もう既に始まっているのである。
「あえっ!! ああえッ!? ああっ!? え? な、な、なぁ? なんなんだ!! テメェッ!!」
軽い足取りで近づいてくる男を前に島崎はすぐさま鉈を彼女の首元へ当てる。それに対し、ハウンドたちはピクリとも動かない。
「いやー。どーも、どーも!!」
やあ、やあと右手を上げ、笑顔と小走りで6、7メートル付近まで一気に近づく。自身の間合いに標的を収めた。そしてグレーの置物には目もくれず、その横をすり抜けて血走った目の男に語り掛けた。
「初めましてー、島崎さん。私ー、0、6、7と申しますー。よろしくお願い致しますー」
「だ、だ、だ? だからなんなんだよぉ!! オメェはよおッ!!」
名前が表記されない謎の人物に島崎は激しい怒りを露わにする。あれが噂のハンターだということにまでもう頭が回らない。
誰でもいいから、早く助けて…………。
絵里の悲痛な叫びはアマテラスにだけは届いている。
うるせぇなぁ……。
そう思いながらも絵里を気遣い、彼女に視線を送り、笑顔で小さく手を振った。早く笑顔が見てみたい。悲痛な顔は好みじゃない。頬を上気させ、熱を帯びた体を絡ませる。あれこそが極上の美だ。それを邪魔する奴は誰であろうと許さない。
あんな可愛い子、ぜってー殺させねぇぞ……。
有益な情報を入手することはできないと判断したアマテラスがいつ、彼女の脳を焼き切るとも限らない。時間は思っている以上に長くはないのだ。
手早く……。そして手短に……。
アマテラスを満足させつつ、絵里も救出する。この緊張感が彼をヒリつかせ、そして肉欲だけでは満たされない飢えと渇き、快楽のその先をその身に与えた。彼は決して、戦いを欲している訳ではない。自己の証明などもっての外だ。これはゲーム、というよりも肉に掛ける調味料なのである。女体を味わい尽くす。その魅力を最大限に引き出すためのひと手間なのだ。絶対的強者が自分に対して紳士に振舞い、愛を囁き、その胸に抱き締めてくれる。あるいは上にまたがり、自分の快楽のための共犯者となってくれる。その瞬間に見せる彼女たちの顔。体。香り。体温。全てが絶妙なバランスの上に成り立ち、口に含むごとに胸が熱くなる。一度でも味わってしまっては、もうただの肉には戻れない。戻りたくないと思わせるそれは猛毒でもあり、心を癒す薬でもあった。
「島崎さーん!! もう止めましょう!! こんなこと!! 何か不満があるのであれば、自分が聞きますからー!!」
067は武器を持っていないことを両手を挙げて示し、足を肩幅に開いてから声を張り上げた。だが、最初から話を聞くつもりなどない。全ては彼女のため。彼女の心を解きほぐすためである。
「う、う、う? うるせぇ!! すっこんでろ!! ボケェ!!」
はぁ……。まるで話が通じないな……。
他者の経験は、あくまで他者の経験でしかない。しかしそれらの多くが今や売買される時代だ。金持ちの優雅な暮らし。自分には決して手の届かない美女たちとの情事。
「それを僕に教えてくださぁーい!! そうすれば!! 誰も傷つかず!! 全てが丸く収まります!! 僕に!! 島崎さんの思いを!! 全部!! ドーンと!! ぶつけてくださぁーい!!」
そうは言いながらも島崎のことを完全に見下している。
フッ。どーせ学生時代、彼女もできなかったんだろ? それでも卒業すれば結婚できるからいいやとかなんとか思ってたらそれもなんでかできなくて。日々の性欲の発散方法といえば、公認の風俗嬢かセックスロボット。それか安価なエロ漫画。最後には他人のデータにまで手を出して、それを追体験。それでも毎日幸せそうな連中を見る度に精神を病んでいって、気付けば病院通い……。自宅と会社。病院と自宅の行き帰り。精神状態はイエロー。なのに、きっと寿命も100歳とかなんとか言われたんだろ? それで生きているのが嫌になって自殺しようとした。だけどなんでか知らないけど、できなかった。そんなところだろ?
予想は付くんだよなー。するとアマテラスから吉報がもたらされた。
『鈴木絵里のストレス値が減少傾向にあります。いい兆候ですよ』
よし、よし!! 待ってましたよー!!
067の口角がさらに吊り上がる。
「アマテラス!!」
叫びを受け、島崎の脳内に侵入。体の主導権を奪い取った。
なッ…………!!
黒い犬は駆ける。島崎は声を出すこともできない。気付けば絵里の目の前に男が現れた。
「!!」
右の肩を軽く押され、彼女はそのまま走り出す。掴まれていた左手が外れ、首元の刃もだらりと下に下がっていた。絵里はロング丈のプリーツスカート。ヒールのある靴ではあったもののなんとか恐怖に打ち勝ち、懸命に足に力を送り出す。
「ウッ!!」
再び電流が走り、島崎が体の自由を取り戻した。
「ク――――」
最後まで自分の思いを口にすることもできない。067は逆手でナイフを引き抜き、そのまま高周波振動の刃で溶け始めたバターにナイフを滑り込ませるように軽々と首の太い筋肉を真ん中まで切断。最後はナイフを奥へと突き刺し、背骨を走る神経を焼き殺した。
カッ…………。
溢れ出た温かい血液が島崎の体の外へ流れ落ちていく。
「…………」
067は返り血を気にし、そのままナイフを引き抜ぬかず、掴んだ手はそのままに右手で髪を雑に掴み、後ろに回ってからその喉を掻き切った。
薄皮1枚で繋がった首は血が噴き出したものの安っぽいアニメのようにはならず、行き場を求め地面と、島崎のごみのような服を赤黒く染めていく。
そして確実な死をもたらすため、男の左側頭部にナイフを突き立てた。
「————ふぅ」
息を吐き、ナイフを引き抜く。067は刀のようにナイフを振るも超高周波振動は自らが汚れることを拒絶する。付着した血液はすぐさま蒸発し、霧となって消えていく。067は握っていたトリガーから指を外し、その振動を止め、ナイフを確実に鞘へと納めた。
「おい、母さん。わざとちょっと早く動かしただろ」
本気で責めている訳ではないことが伝わる声のトーンで、067はアマテラスに呼び掛ける。
「あの程度、誤差でしょう。それに自慢の息子であるあなたなら、必ずややり遂げるであろうという心からの信頼からです。ありがとう、067。これでこの町は今日も平和です」
「なぁーにが信頼だよ、まったく……。——はぁ。まあいいや。それじゃ、報酬の方よろしく」
067は汚い物でも扱うかのように掴んでいた頭部を離し、男だった物の鼻は潰れた。
「もう振り込んであります」
「ああ、そうですか。いつも仕事が早くて助かります」
そして近づいてくる白い制服に身を包んだクリーナー。一般適正で選ばれたバグハンターが声を掛けてくる。
「ご苦労様です!!」
勤務は日勤帯。主な任務は初期段階のバグの発見や抵抗力のない市民の連行。そして、死体の後始末だ。
「はい、お疲れ様でーす。あと、お願いしまーす」
そう言って敬礼し、後は任せたと急ぎ、現場を離れた。彼の関心はもう別の方向へと向かっている。彼が小走りで駆け寄ったのは救急車の後ろに腰掛け、救急隊員に傷の有無などを確認されている絵里の下へだ。
「絵里さん、大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
すぐさま片膝を付いて彼女を見上げる。彼女のロングスカートの裾を柔らかな風がくすぐった。その悪戯は細い足首を一瞬だけ露わにさせる。
身長は152センチ。ふっくらとした頬や厚い唇。この唇からはどんな旋律が聞こえてくるのか。想像だけで心が弾む。そして注目すべきは067ほどになると服の上からでも解る、手の平から少しはみ出しそうな胸の丸み。その感触を堪能してみたいが今はまだ、難しいだろう。それに味わえなくても構わない。味わえないからこその旨味というものもある。真面目そうな顔立ちからは想像もつかない全てが彼の煩悩を刺激した。
可愛いなぁ……。
そんなことを考える067に絵里は震える声でお礼を述べた。
「あ、はい。大丈夫です……。助けて頂き、ありがとうございました」
深々と頭を下げる彼女に067はすぐさま顔を上げるよう求める。
「何を言っているんですか。お礼なんていりませんよ。絵里さんが無事で、本当に良かった」
「あ、ありがとうございます…………」
端正な顔立ちから向けられる人懐っこい笑顔に心を許してしまいそうになるものの、彼はアマテラスが造り出した超人。報道やアマテラスからの通知で目にするバグハンターであるという事実が彼女を恐怖で委縮させる。
「顔色が悪いですよ。お水でも持ってきましょうか?」
「い、いえ。大丈夫です……。少し休めば楽になりますから……」
「そうですか……。ご無理なさらないでくださいね」
「ありがとうございます……」
こりゃ、相当まいってるな…………。
067の性欲が後退。彼女の心配が本気を出した。
「これからメンタルケアを受けに行かれるんですか?」
「はい…………。イエローになってしまったので…………。ああ、会社に連絡しないと…………」
右手を宙に動かし、会社の連絡先を探す彼女に067は制止する。
「まずは会社のことを考えるのは止めましょう。クリーナーの方から連絡させます。その方が話しも早いですから」
「あ……。そうですね……。はい……。解りました……」
別に責めちゃいないんだけどなぁ……。
俺が怖いのかなぁ……。そう考えた067は作戦変更とクリーナーの方に目を向け、その中から茶色い髪色の女性を見つけ出す。
「ちょっと待っててくださいね」
そう告げてからポニーテールの彼女の方へと駆け寄って行く。067は絵里の方を見ながら何か告げると、彼女を連れて戻ってきた。
「お待たせしました。彼女は小手鞠奈緒さん。彼女が病院まで付き添います」
「よろしくお願い致します」
「いえ、そんな!! 私は1人で大丈夫ですので……」
そう遠慮する彼女に067はその申し出を受け入れることはできないとはっきりと否定する。
「何を言ってるんですか。失礼ですが、率直に申し上げてとてもそのようには見えません。それにこちらとしても2次被害を防ぐためにもお1人で行動させる訳にはいかないんです。申し訳ありませんが、ご理解頂けませんでしょうか?」
「…………」
彼女は考え込むように少し黙り、そしてその小さな口を開く。
「解りました……。それでは、よろしくお願い致します……」
「はい。お任せください」
凛々しい奈緒の声が彼女を僅かに勇気づける。
あーあ……。この子が同僚じゃなければなぁ……。
この子もいいのになぁと思う067は心の中で舌を打つ。
「それじゃあ、これを。僕の番号です。お二人にお渡ししておきますね。何かお困りごとがあっても無くてもご連絡ください」
そう言ってこの時代には珍しい長方形の紙を差し出した。
「私もですか?」
当然の疑問に067は平然と嘘をつく。
「クリーナーの皆さんともできれば仲良くさせて頂きたいので」
「ああ、そうですね!! そう言って頂けて光栄です!! ありがとうございます!!」
「いえいえ。一緒にこの町の治安を守りましょう!!」
「はい!!」
目を輝かせ、奈緒は067に尊敬の眼差しを向ける。話に聞く他のセクターの超人とは大違いだと彼女は感銘を受けた。
凛々しくて真面目そうでいい子だなぁ……。
こんな子とも遊びたいなぁ……。などと下種なことを考えているとは夢にも思うまい。
こうして2人を見送り、食べ損ねた朝食を食べるため帰ろうとすると、アマテラスから通信が入る。
「途中から切り替えましたね。良い判断です」
「ちょっと待った母さん。いつから俺のナンパテクを評価するようになったの?」
インカムを外すのを忘れてたなぁ……。
しまったぁ……と後悔するももう遅い。
「今日からです」
「それはしなくて結構です」
「小手鞠奈緒の個人データをお渡ししましょうか?」
いらねぇよ、んなもん。067は即座に話を終わらせるべく動き出す。
「勘弁してくれ。直接彼女から聞くに決まってんだろ。俺の楽しみを奪わないでください」
今日はやけに絡んでくるな……。
母親というのもこういうものなのかと疑問が生じる。
「そうですか。それではよい一日を」
そう言い残し、通話は終了。067は急ぎインカムを外し、ケースへとしまい込む。
まったく……。なんて1日だ……。
早く帰ろう。067はブラック・バードに少し降りて来てもらい、現場を後にする。彼の1日はこうして始まった。




