第64話 「大団円」
熱い接吻。
誰もがそんな言葉を思い浮かべた。
その姿は根源的でありながら崇高、永遠のようで刹那さもあった。
ゆきも演奏家たちも演奏を止めて、丘を見上げている。
客席も同じだ。
誰なのかもわからない男女の口づけに、ただただ見入っている。
静謐の中、ゆっくりと時間だけが流れている。
(凛音さん。凛音さん。凛音さん。わ~~~ん)
舞台袖で、よしこはむせび泣いた。
客席からもすすり泣く音がする。
ふたりが、唇を離す。
(わたくしたちは、いったい何を?)
凛音がようやく状況に気づく。数千人の眼が自分たちに注がれている。
その中には、赤ちゃんを抱いた母親がいる。手を握り合う老夫婦がいる。
きらきらと目を輝かせる少年少女がいる。
生き残ったひとびとがいる。
伯爵令嬢が、毅然として客席に向き直った。
「みなさん!」
ひとびとが息を飲む。
「みなさん。わたくし清流院凛音と天童星児さんは、結婚します!」
どよめきと歓声が、自然と沸き上がった。
「わたくしたちは、しあわせになります!」
「おめでとう」という祝福。わが事のような笑顔。
「だから、どうか……」
ヒロインが声を詰まらせる。
再びの静寂。
「だからどうか…みなさんも、しあわせを、諦めないでください!」
顔を上げるひと。
涙をこぼすひと。
うなずくひと。
「一緒に、生きましょう!」
拍手と歓声が鳴りやまない。
「今度は観客だ。客席を照らせ!」
小山内の指示に従って、スポットライトが客席をまんべんなく照らし出す。
これまで人生を背負い、これからも歩み続けていく者たちの表情は晴れやかで美しかった。
(みんなが主役)
あの大きい少女の言った意味が身に染みた。
演出の初心を思い出した。
(今夜は、私にとってもいい舞台だったわけだ)
小山内薫は翌年築地小劇場を立ち上げ、引き続き大正文化を牽引することになる。
星児に手を引かれ、凛音が丘を降りていくシルエットが垣間見える。
もう一度あの子を見る。
外見だけでなく、純粋無垢ですべてが綺麗な女の子。
「小百合ちゃん。あーしは、あの子だったことがあるんだよ」
スカイキッドが「妙なことを言い出したな」という顔をする。
〈ああ、憑依のことか。だったら、俺もあのイケメンだったことがあるぜ〉
小梅の頬に、撫子の心に涙が伝う。
感動だ。
「ガチ優勝じゃん。誰かさ。時間止めちゃってくんない?あんた、サイコーだよ!」
時よ、止まれ。おまえは美しい―ゲーテの「ファウスト」だ。
これを口にすると悪魔に魂を奪われる、というファウスト博士のセリフ。
悪魔のような、やつが現れる。
―神、である。
今日はボサボサの白髪頭で、白衣を着ている。
―その言葉、しかと受け取った。もうよいのだな?
「うん。すべてわかった。全部納得した。神様、いろいろありがとう」
―うむ。ならば、お主もそっちのウマ娘も本来の場所に戻すとしよう。
〈よし。俺もだな?〉
スカイキッドがぶるぶると身震いする。
―ほんじゃ、憑依…終了。
スカイキッドから小百合の魂が離脱する。馬がごろりとその場に寝そべる。
つづいて撫子の魂も離脱し、小梅が馬の上に倒れ込んだ。
―それでは、宴もたけなわではございますが…。
「「一次会じゃねーわ!」」
―これより新郎新婦は、車に乗って退場、ハネムーンへと旅立ちます。
「「ハネムーンじゃねーわ!」」
でかい派手なアメ車が2台現れた。
―でろりおん1号と2号じゃ。乗って。
おもしろかろう?と言わんばかりのドヤ顔だ。腹が立つ。
「「チッ。白衣と白髪はこのためか」」
神のお遊びに付き合わざるを得ない。
ふたりがそれぞれに乗り込む。
メーターはすでに「2023」に合わせてあった。
―ほんじゃ行くよ。バック、トゥ、ザ…。
雷光が、2台の車に落ちる。
―令和!
パチモンのタイムトラベルカーが、轟音とともにジェット噴射で発進する。
あの有名な曲をバックにして、大和撫子と鬼束小百合の魂は天空へと飛んで行った。
その天空はいつの間にか晴れ渡り、本物の満月が輝き星々が瞬いていた。
「凛音。ほら。流れ星だ」
丘を降り切った頃、星児が月を横切る流星を指さす。
「まあ、綺麗。それもふたつですわ」
「連星なのかもしれないね。はくちょう座のような…いや。はくちょう座は流れ星にはならないか。あれはきっと…」
「ええ。たぶん…」
わかっていた。
あのふたりの別れの挨拶なのだと。
星児が両手を組んで黙とうする。
凛音もそれにならう。
(大和撫子。ほんとうにありがとう。でも、お別れは言いません。だって、また出会う日が来るかも。いえ。きっとまた……)
演芸会場から太鼓の音が聴こえてきた。
女性司会者の声も。
「さあ、みなさん。最後は盆踊りですわよ」
ふたりが顔を見合わせる。
「僕らも、踊りに行こう」
「はい。旦那さま」
新婚夫婦が手をつないで、笑顔で会場へと駆けて行った。
「ほら、みなさん。立って立って。よろしいかしら?まずはこの演目『東京音頭』からですわよ。さあ、踊り狂いあそべ。おーほっほっほ……げほげほ」
喉の弱いよしこに、アナウンサーの資質はない。
案の定、採用試験に落ちた。
山田花が大久保賢治と楽しそうに踊っている。
蝶子もまた、自分がふたりのキューピッドになれた達成感を感じながら一緒に手拍子を打つ。
姉妹はまたシンクロした。
主催者で凛音の叔母・雅は、会の運営に疲れ切って演目の途中から貴賓席で眠ってしまった。
肝心の凛音と星児の接吻シーンは、またしても見られなかった。
中村霧子と新聞記者の本城が並んで踊る。学生時代からのつき合いだったふたりは、今回の震災でお互いの大切さを発見して翌年結婚をする。
ふたりの間にはハイジのような元気な娘が生まれた。
厨房担当の鈴木みつえと佐藤栄子は、復興した東京で、和洋折衷の「レストラン清流」を開店させて大繁盛となった。
衣装・裁縫担当の高橋久美。
四菱財閥の支援を受けてパリに留学。
帰国してから女性デザイナーの草分けとしてファッション界をリードしていった。
田中小梅。
大正時代に発祥した女相撲の第三代横綱となる。
泉ゆきは、結局プロ歌手になることはなかった。
厩務員の山村六平と結婚して競走馬を育成する牧場主の奥さんとなった。
彼女の歌は馬のためだけに歌われた。
そして、清流院凛音と天童星児……ふたりの記録はどこにも残っていない。
ただひとびとの記憶には「一緒に生きよう」と宣言した彼女の声と、それを見守る優しい男の星のようなまなざしが残り続けた。
凛とした音が天星の下に響き渡ったあの夜のことを、誰も忘れることはなかった。
つづく




