第63話 「LOVE」
♪月なきみ空に きらめく光
嗚呼その星影 希望のすがた
人智は果て無し 無窮の遠に
いざその星影 きわめも行かん
[星の界 杉谷代水・作詞]
凛音が小梅に問いかける。
「撫子。あなたは『あの子の歌はただのモノマネだ』って言ったけど、この歌はどう?」
「…あーしに歌ってくれてる、本物のゆきの声よ。あの子にしか歌えない歌だ」
スマホがあれば録音しただろうか?いや。きっと今と同じように、心の中だけに留めておくだろう。
(まるで僕は蛾のようだな)
灯りに吸い寄せられた。音楽に。にぎわう空気に。気づけば、白いワイシャツは泥だらけ。開いた傷口から噴き出した血の跡。身なりもまた蛾。
二週間彷徨い、高輪に着いたのは昨夜だ。だがその頃には、カフェ清流の面々はどこかに移動した後だった。完全にすれ違いだった。
(疲れた)
丘の上で腰を下ろす。眼下には、演芸場とそこに集うひとびと。
(ここは天国なのか?だとしたら、死ぬのも悪くないのかもな)
この雰囲気に浸かろう。まぶたが重くなってきた。
(あの子の声、本当に星のよう)
凛音の琴線に触れたゆきの歌声は、夜空を流れ星のように舞っていく。その星を目で追いかける。星はある一点に集まっていく。丘の上。星の先に見えたものは、疲労困憊の天童星児の姿だった。
「星児さん!」
「え?どこ?」
小梅と馬が、凛音の視線の先をあらためる。
凛音が立ち上がり、走り出す。
「ああ!まずい。また発作が」
追いかけようとする小梅の前に、スカイキッドが立ちはだかった。
〈行くな。ふたりきりにさせてやれ〉
「や。でも、凛音は心臓が…」
〈大丈夫だ。あの子はこの数日修羅場をくぐり抜けた。もう心臓発作なんて起きないよ。それに「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ」って言葉もある〉
馬が後ろ足で砂を蹴る。
「ホントに蹴りそうだから怖いわ!ドS刑事」
恋する少女が駆けていくのを見送る。その姿は尊い。
(そうだよね。今度こそ、本当の再会なんだもんね。がんばれ、凛音!)
舞台では、ゆきの独唱に引っ張られるような美しい間奏が続いている。
「に、に、二番は、あーしを助けてくれた花ちゃんのために歌うの」
間奏のMCに、客席で佇んでいた花が顔を上げる。
「は、花ちゃんが、ゆきをかばってくれたから、ゆきは好きなお歌が歌えるの。は、花ちゃん、ありがとう!」
ゆきが二番を歌い始めると、花は拳を握った。
(…うちは思ったことがある。こんなことなら、ゆきなんか助けなきゃよかった、って。うちはバカだ。うちは最低だ)
何もかもがネガティブに感じられる。もう、限界だ。
「花ちゃん!」
恋人・大久保賢治の声だ。すぐにわかる。きっと、今一番会いたくて一番会いたくないひとの声だからだ。逃げ出した。
「待って!」
賢治が花の手首を掴む。花がその手を振りほどいて、また逃げる。
「来ないで。見られたくないの。こんな醜い顔」
「花ちゃんがどんな風になっても、きみと一緒にいたいという思いは変わらん!」
花の足が止まった。
前日。賢治は学友たちと、崩壊した大学寮の修繕に汗を流していた。そこにひとりの少女が訪ねてきた。
「あ。は…いや、蝶子ちゃんやね?どうしたと?」
蝶子がポニーテールを下ろして、悪戯っぽく笑う。
「安心した。やっぱり、わかるんですね?」
「あ、うん。それより、花ちゃんは?来とらんと?」
蝶子は帯に差した筆箱を取り出し、中のものを賢治に見せた。
「こ、これは…おいの字。いや、これはふたりだけの秘密で…」
賢治が顔を真っ赤にして、筆箱ごと伝票のラヴレターを取り返そうとする。蝶子はうしろ手に隠して言った。
「これは花の、お姉ちゃんの宝物なんです」
「……」
「賢治さん。花を助けて下さい!」
いま賢治の手には、伝票が握りしめられている。
「聞いたばい。ゆきちゃんを助けようとして、火傷したとやろ?ひとを助けようとしてできた痕を…醜い、とはおいは思わん!」
「……」
「ああ。やっぱり花ちゃんは優しいひとやち。火傷痕はその証明たい。勲章みたいなもんや、とおいは思う。やから…」
「…」
「この傷も含めて、花ちゃんを包みたかと!」
有無を言わさぬ抱擁。痛いほどの。なのに、抱いている賢治の方が泣いていた。
「どうしたの?なんで…なんで、泣いてるの?」
「グス…わからん。でも、止まらんと。何やろか、こん気持ちは…何て呼ぶとやろか?」
「…たぶん…LOVE」
「…LOVEか。確か夏目漱石が『月が綺麗ですね』って翻訳したばいね‥‥はは。初めて聞いたときは、何のことかわからんやった」
「…今は?」
「実は今も、ようわからんと。はは」
花が、ようやく笑った。
夢を見ていた。清流院家で生まれたばかりの赤ちゃんを抱っこする夢。
あの子は、あのとき確かに自分に向けて「あなた」と語りかけたのだ。それは人生最初の奇跡だった。
「あなた!」
目を開くと、17歳になった彼女がいた。清楚な浴衣姿を見て、血だらけのわが身なりを思い出す。
「…凛音。血は、大丈夫かい?」
「あの地震の最中、多くの人が血を流しているのを見ました。そして知りました。血は不吉な死の兆しではない。生きていることの証なのだ、と。だからもう、わたくしを怯えさせ縮こまらせるものはありません」
「そう。きみは強くなったんだね。僕はまた少し弱くなったんだよ。きみを失うことが怖くて、いつもびくびくと怯えているんだ」
「それは、弱さではありません。あなたの愛の深さです」
「……」
この子はいつもそうだ。こんな情けない男を、買いかぶりだと思えるほどに支持してくれる。寄り添ってくれる。
話したいことがたくさんあったはずなのに、もう何も出てこない。言葉なんて必要ない。ここにふたりがいる。その奇跡。
(きっと生きるということは、奇跡の連続なんだろうな)
いまはこの奇跡に身をゆだねよう。
「星児さん。いえ。わたくしの旦那さま」
見つめ合う。
「一緒に」
「生きよう」
星児が凛音の肩を両手で抱き寄せた。
(ん?何だ、あれは?)
調整エリアで小山内が首をひねる。丘の上に男女の影があるのだ。
(ただの連れ合いではないな。ふたりともスタアのような雰囲気をまとっているぞ)
舞台上ではまだ「星の界」の間奏が続いている。
「照明。上だ。丘の上を照らせ!」
小山内が叫ぶ。あわてて照明係が、調光器を振り上げる。そこには神々しいヒーローとヒロインがいた。
光が当たる。だが、ふたりの眼には入らない。いまこの世界にあるのはお互いだけ。見えるのは、お互いの唇だけ。
ふたりに向けられたスポットライトは、まるで空に浮かんだ月のように見えた。分厚い雲を突き破って、顔を出した月のように見えた。
その中で繰り広げられていたものは、LOVEだった。
賢治がつぶやく。
「月が」
花がつづける。
「綺麗」
つづく




