第8話「夜風に紛れる境界線」
夕暮れが村を赤く染め上げ、遠くの山際へ太陽が沈むと、谷底から冷たい風が一気に吹き下ろしてきた。
日中の厳しい農作業を終えた三人は、銀次の家の縁側に腰を下ろし、手桶の水で汚れた手足を洗い流していた。
晴信の手のひらはいくつもの豆が潰れ、赤く腫れ上がっている。
布越しに土を踏み続けた足裏の傷も、じくじくと熱を持って痛んだ。
しかし、その痛みさえもが、自分が今確かに生きているという実感を伴って心地よく感じられた。
「初日にしてはずいぶんと頑張ったな。だが、明日には筋肉が固まって起き上がれなくなるぞ」
甚四郎が縁側の柱に背を預けながら、手ぬぐいで首筋の汗を拭っている。
その表情はどこか晴信の成長を認めているように見え、晴信の胸の奥をくすぐった。
「これしきのこと、どうということもない。お前たちの足を引っ張るつもりはないからな」
強がって見せる晴信の横顔を、甚四郎は目を細めて見つめた。
銀次は二人分の湯呑みに白湯を注いで差し出すと、自身も縁側の端に腰を下ろした。
「それにしても、お前さんから漂うその甘い匂いは、どうにかならないのか。村の連中が気づけば、色々と厄介なことになる」
銀次の真っ直ぐな指摘に、晴信の肩が硬直する。
発情の兆候を抑え込む薬も、匂いを誤魔化す強い香も、この村には存在しない。
晴信自身も、どうすればこの本能の暴走を止められるのか、まるでわかっていなかった。
俯いた晴信の代わりに、甚四郎が口を開いた。
「俺の匂いで上書きするしかないだろう。αのマーキングがあれば、他の人間は不用意には近づけなくなる」
その言葉の意味を理解した瞬間、晴信の心臓が激しく跳ねた。
αの匂い付けとは、一時的に自身の香りをΩの体に擦り込み、他者を牽制する行為だ。
それは番の契りほどの絶対的な縛りではないものの、極めて親密な身体的接触を伴う。
「だが、そんなことをすれば、甚四郎の体に負担が……」
晴信が言いかけるのを、甚四郎は手で制した。
「気にするな。お前の匂いが漏れて追手に見つかる方がよっぽど面倒だ。それに、銀次の言う通り、この村の連中を刺激するのも避けたい」
甚四郎の口調は淡々としており、あくまで追手から逃れるための冷静な判断に基づいているように聞こえた。
だが、その瞳の奥には、昼間に畑で密着した時と同じ、獣のような熱い光が揺らめいているのを晴信は見逃さなかった。
銀次も何か言いたげな顔をしたが、最終的には短くため息をついて立ち上がった。
「俺は少し裏の山へ罠の様子を見に行ってくる。戸締まりはしておけよ」
銀次が気を使って席を外したことは明らかだった。
彼の足音が遠ざかり、家の中には甚四郎と晴信の二人きりになる。
夜の帳が完全に下り、縁側には青白い月明かりだけが差し込んでいた。
虫の鳴き声が、張り詰めた静寂をさらに際立たせる。
「こっちへ来い」
甚四郎が縁側の板を軽く叩き、自分の隣を指し示した。
晴信は息を詰まらせながら、彼の隣へとゆっくりと腰を下ろす。
肩と肩が触れ合いそうな距離。
甚四郎の体温が、夜風に冷えた晴信の肌にじんわりと伝わってくる。
「襟を少し開けろ。首筋に俺の匂いをつける」
低くかすれた声に促され、晴信は震える指先で寝巻きの襟元をわずかに引き下げた。
白く細いうなじが月光に照らされ、夜の闇に浮かび上がる。
そこから漏れ出す甘い香りが、甚四郎の理性を激しく揺さぶっているのが、彼の不規則な呼吸音から伝わってきた。
甚四郎の大きな手が、晴信の肩を背後から包み込むように引き寄せる。
彼の熱い吐息が、露出したうなじの皮膚を直接撫でた。
「……んっ」
晴信の口から、こらえきれない甘い吐息が漏れる。
甚四郎の顔がうなじへと近づき、彼の鼻先が晴信の肌に直接触れた。
唇が触れるか触れないかの距離で、甚四郎は深く息を吸い込み、自身の持つαの香りを晴信の肌へと擦り込んでいく。
雨上がりの土と獣の匂いが、晴信の甘い香りを塗り潰し、強烈な所有欲となって全身を駆け巡る。
首筋に押し当てられた甚四郎の唇の感触が、晴信の理性を溶かし、腹の底から焼け付くような熱を引き起こした。
晴信の体が無意識に甚四郎の胸へと傾き、彼の着物の襟を強く握りしめる。
甚四郎の腕が晴信の腰に回り、逃げ道を塞ぐように強く抱き寄せた。
肌と肌が触れ合う境界線が曖昧になり、二つの異なる香りが夜の空気の中で一つに混ざり合っていく。
「甚四郎……」
熱に浮かされた声で名前を呼ぶと、うなじに顔を埋めていた甚四郎の動きがピタリと止まった。
彼の体が微かに震え、何かを必死に堪えているのがわかる。
やがて、甚四郎はゆっくりと顔を離し、晴信の肩を解放した。
「……これで、少しは誤魔化せるはずだ」
甚四郎の声はひどく掠れ、視線は晴信からそらされていた。
晴信は乱れた呼吸を整えながら、熱を帯びた首筋を手のひらで押さえる。
そこに残された男の体温と香りが、自分が誰の庇護下にあるのかを強烈に主張し続けていた。
身分も運命も違う二人の距離は、この夜を境に、決して後戻りできない場所へと踏み込んでいた。




