第7話「土と汗の匂いに溶ける朝」
障子の隙間から差し込む白い光が、囲炉裏の灰に淡い影を落としていた。
晴信が重い瞼を押し上げると、隣に敷かれていたはずの布団はすでに畳まれ、部屋の隅に整然と積まれていた。
板の間にはひんやりとした朝の空気が満ちており、甚四郎の体温も、昨夜感じたあの強烈なαの香りも、すでにどこかへ消え去っている。
晴信は体を起こし、乱れた寝巻きの胸元を引き合わせた。
自身の肌からは、Ωとして覚醒した証である甘い花の匂いが依然として微かに立ち昇り続けている。
追手から逃れるための泥も完全に洗い落とした今、この匂いを隠す術はない。
だが、この静かな家の中には、昨日までの刺すような殺気も、張り詰めた緊張感も存在しなかった。
外から、土を掘り返す鈍い音が一定の節を刻んで聞こえてくる。
晴信は敷かれたままの布団から立ち上がり、土間を抜けて表の戸を少しだけ引き開けた。
朝靄が晴れかけた畑の中で、二つの影が動いている。
一人は銀次で、使い込まれたクワを大きく振り被っては、黒々とした土の塊を鮮やかにひっくり返していた。
もう一人の影は、着流しを脱ぎ捨て、白い肌着だけになった甚四郎だった。
彼の手には銀次から借りたと思われるスキが握られており、不器用ながらも力任せに固い地面を掘り起こしている。
剣を握るために鍛え上げられた肩の筋肉が、スキの柄を押し込むたびに滑らかに躍動し、汗の粒が朝日に反射して白く光った。
剣士としての洗練された動きとは違う、泥にまみれた荒々しい労働の姿。
それでも、晴信の目には、その無骨な姿がたまらなく眩しく映った。
戸が開く音に気づいたのか、甚四郎が手を止めてこちらを振り返る。
乱れた前髪の隙間から覗く鋭い双眸が、晴信の姿を捉えてわずかに和らいだ。
「起きたか、坊ちゃん。こんな時間まで寝こけているとは、ずいぶんといい御身分だな」
甚四郎の口を突いて出た言葉は皮肉めいていたが、その声の響きには険がなかった。
銀次も手を止め、額の汗を手ぬぐいで拭いながら人の良い笑みを向けてくる。
「疲れていたんだろ。無理もない。朝飯の支度は台所にできている。適当に食ってくれ」
晴信は戸口に立ったまま、二人のやり取りをぼんやりと見つめた。
武家の屋敷では、日の出とともに起き出し、冷たい水で身を清め、無言のまま形式だけの食事をとるのが当たり前だった。
こんな風に土の匂いの中で言葉を交わし、誰かのために飯が用意されている朝など、前世の記憶を含めても初めての経験かもしれない。
胸の奥で、小さく温かい塊が膨らんでいくのを感じながら、晴信は短く頷いた。
台所には、昨夜と同じように木製の椀が伏せられ、鍋の中には雑穀の粥が湯気を立てていた。
一口すすると、塩だけの素朴な味が胃の腑にじんわりと染み渡る。
食事を終えた晴信が再び外へ出ると、甚四郎たちはすでに畝の半分を掘り終え、土の表面を平らにならしているところだった。
晴信は土間に置かれていた別のクワを手に取り、恐る恐る畑の畝へと足を踏み入れた。
足裏に巻かれた布の厚み越しにも、柔らかく掘り返された土の感触が伝わってくる。
「俺にも、手伝わせてくれ」
晴信の声に、甚四郎と銀次は揃って動きを止めた。
甚四郎は晴信の手にあるクワと、その細く白い指先を交互に見比べ、短く鼻を鳴らす。
「冗談はよせ。お前みたいな絹ごしの手で、土が掘れるわけがねえ。大人しく日陰で座っていろ」
頭ごなしの否定に、晴信は眉根を寄せて甚四郎を睨み返した。
「絹ごしだろうが何だろうが、俺もここで世話になる以上、ただ飯を食うつもりはない。やり方くらい覚えればできる」
晴信は言い返しながら、見よう見まねでクワを振り上げ、土に向かって振り下ろした。
しかし、土の抵抗を見誤り、刃先が浅く滑ってバランスを崩す。
前のめりに倒れそうになった瞬間、横から伸びてきた甚四郎の手が、晴信の手首をガッチリと掴んで静止させた。
「言ったそばからこれだ。力任せに振り下ろせばいいってもんじゃねえんだよ」
甚四郎は呆れたようにため息をつき、晴信の背後に回った。
彼の胸板が晴信の背中に触れるほど密着し、太い両腕が晴信の腕の外側から伸びて、クワの柄を一緒に握り込む。
突然の接触に、晴信の肩がビクンと跳ねた。
甚四郎の体から発せられる熱気と、汗と土が混じった男らしい香りが、背後から晴信の全身を包み込む。
「腰を落とせ。柄の先を見るな。土の重さをクワの刃に任せるんだ」
耳元で低く囁かれる声の振動が、晴信の背骨を伝わって下腹部へと響いた。
甚四郎の手のひらが、晴信の柔らかな手を上から覆い隠すように握りしめる。
その体温の高さに、晴信の呼吸は浅く乱れ、うなじの辺りが焼け焦げるように熱くなった。
『駄目だ。こんなに近くにいたら』
自身の体から、Ωとしての甘い香りが急速に濃くなっていくのがわかる。
甚四郎もその変化に気づいたのか、柄を握る手の力がわずかに強まり、彼の呼吸も不規則に乱れ始めた。
二人の間に、畑の土の匂いさえも押し退けるような、濃密で甘美な緊張感が立ち込める。
「……おい。二人とも、手が止まってるぞ」
少し離れた場所から、銀次の呆れたような声が飛んできた。
その声に弾かれたように、甚四郎はサッと晴信の背後から離れ、気まずそうに視線をそらした。
晴信も顔に集まった熱を隠すように、俯き加減でクワの柄を握り直す。
だが、手のひらに残った甚四郎の体温と、背中に触れた胸板の感触は、そう簡単に消え去ってはくれなかった。
その後も、晴信は不器用ながらに土と格闘し続けた。
手のひらにはすぐに水膨れができ、それが破れて柄が血で汚れもしたが、不思議と痛みよりも充実感が勝っていた。
泥だらけになりながら、自分の手で何かを作り出すという行為が、晴信の心を過去のしがらみから少しずつ解放していく。
太陽が高く昇り、日差しが容赦なく照りつける中、三人は並んで土の畝を作り上げていく。
身分も素性も、Ωとしての呪われた運命も、この狭い畑の中では何の意味も持たなかった。




