第6話「囲炉裏火の温度と隠れ家の夜」
ススキの野を抜け、村の入り口へと差し掛かる頃には、西の空は深い群青色へと染まり始めていた。
点在する家々の窓から漏れる赤みがかった明かりが、土にまみれた二人の影を長く引き伸ばす。
甚四郎は村外れにある、少し小高い丘に建つ質素な茅葺き屋根の家を目指して迷いなく歩を進めた。
土壁の一部は剥がれ落ちていたが、周囲には手入れの行き届いた小さな畑が広がり、そこに住む者の几帳面な性格がうかがえる。
甚四郎は家の前で晴信をゆっくりと地面に下ろし、固く閉ざされた木の戸を遠慮なく叩いた。
乾いた音が夕闇に響き渡り、しばらくして家の中から重い足音が近づいてくる。
戸が内側から引き開けられ、中から顔を出したのは、日に焼けた逞しい体躯を持つ青年だった。
手には使い込まれたカマが握られ、警戒心も露わに外を睨みつけている。
しかし、目の前に立つ甚四郎の顔を認めた瞬間、青年の目は大きく見開かれた。
「お前……甚四郎か。生きてたのか」
関屋銀次と呼ばれたその男は、β特有の穏やかで安定した空気をまとっていた。
甚四郎は短く息を吐き、口角をわずかに上げて笑みを作る。
「悪運だけは強いんでな。少しばかり厄介事を抱えちまった。匿ってくれるか」
銀次は甚四郎の背後に立つ晴信へと視線を移した。
泥と草の汁で汚れきっているものの、その下から覗く絹の着物や、手入れされた髪、そして隠しきれない気品は、この田舎村には到底そぐわないものだ。
銀次は何かを察したように短く頷き、カマを下ろして戸を大きく開け放った。
「事情は中で聞く。早く入れ。誰かに見られたら厄介だ」
二人は銀次に促されるまま、土間の暗がりへと足を踏み入れた。
家の中には、乾燥した土と燻された木材の匂いが充満している。
板の間の奥にある囲炉裏では、細く裂かれた薪が赤い炎を上げて燃え、乾燥した木肌が弾けるたびに火の粉が尾を引いて舞い上がっていた。
豪華絢爛な浅葱の屋敷にあるような豪勢な調度品は一切ないが、そこには確かな生活の温もりがあった。
銀次は二人に板の間へ上がるよう促すと、囲炉裏に掛けられていた鉄瓶からお湯を盥に注ぎ、古い布と一緒に差し出した。
「まずはその泥を落とせ。ひどい有様だな」
甚四郎は布を受け取ると、晴信の足元に跪き、巻かれていた布を丁寧に解き始めた。
固結びになった布の端を指先でほどき、土と血が混ざってこびりついた足裏を湯に浸した布で優しく拭い去る。
「自分でできる」
晴信が身を引こうとするが、甚四郎は足首をがっちりと掴んで離さない。
「暴れるな。傷口が開く」
硬い指先が赤く腫れ上がった皮膚をなぞるたび、晴信は息を詰めてその感覚に耐えた。
銀次は奥の棚から乾燥した葉の束を取り出し、すり鉢で細かく砕き始める。
青臭い薬草の匂いが、囲炉裏の煙の匂いと混ざり合って漂ってきた。
砕いた薬草を甚四郎が受け取り、晴信の足の傷へと隙間なく塗り込んでいく。
薬効による冷たい痛みが走ったが、甚四郎の手のひらから伝わる熱がそれを和らげてくれた。
「それで、そっちのお坊ちゃんは何者だ。見かけない顔だが」
銀次が囲炉裏の灰を火箸でいじりながら、視線を上げずに問う。
甚四郎は晴信の足から手を離し、手ぬぐいで自らの指を拭いながら短く答えた。
「訳あって追われている。名前も身分も、今のこいつには関係ねえ。ただの逃亡者だ」
甚四郎が晴信の素性を隠したことに、晴信は微かに目を伏せた。
大名家の嫡男という枷が外され、ただの人間として扱われることの気楽さと、己の帰る場所が完全に失われたという事実が胸の内で交錯する。
銀次はそれ以上深く追及することなく、立ち上がって台所へと向かった。
やがて、湯気を立てる木製の椀が二つ、板の間の上に置かれる。
粟やヒエが混ぜられた雑穀の飯と、大きく切られた大根や人参が入った素朴な汁物だった。
「食える時に食っておけ。明日からのことは、それから考えればいい」
銀次の言葉に背中を押され、晴信は震える手で箸を取った。
一口すすった汁の温かさが、冷え切っていた内臓の隅々にまで染み渡っていく。
前世で深夜に一人で流し込んでいた冷たい食事や、武家屋敷で毒見の済んだ冷めた膳とは違う、腹の底から命を繋ぎ止めるような確かな味だった。
晴信の瞳から、こらえきれずに一筋の涙がこぼれ落ち、木の椀へと波紋を作った。
甚四郎も銀次も何も言わず、ただ黙々と箸を動かしている。
その無言の優しさが、晴信の胸をいっそう熱くした。
夜も更け、囲炉裏の火が赤い炭火へと変わる頃、板の間には二組の布団が並べて敷かれた。
銀次は別の部屋へと引き下がり、静かな家の中には虫の鳴き声と、時折風が家屋を揺らす音だけが響いている。
晴信は仰向けになり、煤で黒く染まった太い天井の梁を見つめていた。
隣の布団からは、甚四郎の規則正しい寝息が聞こえてくる。
彼との距離はわずか腕一本分も離れていない。
甚四郎の体から漏れ出すαの香りが、夜の静寂の中で晴信の肺を満たしていく。
逃避行の緊迫感が解けたことで、抑え込んでいたΩとしての本能がゆっくりと頭をもたげ始めていた。
うなじの奥底から甘い熱が湧き上がり、下半身の感覚が鋭敏になっていく。
『俺は、この男に……』
身分も生きる世界も違う、荒々しい浪人。
だが、彼の不器用な優しさに触れるたび、晴信の胸の奥で、今まで知らなかった甘い痛みが静かに広がっていく。
晴信は隣で眠る甚四郎へとゆっくりと寝返りを打つ。
月明かりに照らされた甚四郎の横顔は、昼間の険しさが消え、どこか無防備で穏やかなものだった。
少しでも彼の体温に近づきたいという欲求に駆られ、晴信は布団の中で手を伸ばし、甚四郎の着物の袖口をそっと指先で摘んだ。
わずかに布が引かれる感覚に、甚四郎の寝息が一瞬だけ止まる。
「眠れないのか」
閉じた瞼のまま、甚四郎が低くかすれた声でささやいた。
晴信は息を呑み、慌てて指を離そうとしたが、甚四郎の大きな手が布団の中から伸びてきて、晴信の手をしっかりと包み込んだ。
厚みのある手のひらの熱が、晴信の指先から全身へと伝播していく。
「……少しだけ、不安になっただけだ」
晴信の震える声に、甚四郎は何も答えず、ただ繋いだ手の力をわずかに強めた。
その無言の肯定が、晴信の心を静かな安堵で満たしていく。
囲炉裏の残り香と、甚四郎の体温に包まれながら、晴信はこれまでにない深い眠りへとゆっくりと落ちていった。




