第5話「陽だまりの境界と甘い痺れ」
天頂へと昇りつめた太陽が、木々の隙間から鋭い光の槍を突き降ろしていた。
風の通り道が途絶えた森の中は、緑の息吹と湿った土の匂いが重く滞留し、肌をねっとりと包み込んでいる。
晴信の額から滲み出た汗が、こめかみを伝って顎の先からとめどなくこぼれ落ちた。
呼吸のたびに乾いた喉がひりつき、肺の奥から熱い塊を吐き出しているような感覚に陥る。
足裏に巻かれた布は、すでに土と草の汁で黒く変色し、結び目が緩みかけていた。
それでも、鋭い石の角や木の根から皮膚を守るという役割は十分に果たしており、歩みを止めるほどの激痛は免れている。
前を歩く甚四郎の背中は、朝日の中を出発した時と変わらぬ速度で険しい斜面を切り裂いていた。
破れた着流しの下で、引き締まった背中の筋肉が滑らかに躍動している。
布地に染みた汗が陽光を反射し、彼が放つ野生の獣のような香りをいっそう濃く周囲に振り撒いていた。
それは雨上がりの大地を思わせる鋭く力強いαの匂いであり、晴信のΩとしての本能を根底からかき乱す。
鼻腔をその匂いがかすめるたび、下腹部の奥底から甘い痺れが這い上がり、足腰の力を容赦なく奪い去ろうとする。
武家の跡取りとして刷り込まれてきた理性と、前世から持ち越した個人の尊厳が、本能の波に飲み込まれまいと必死に抗っていた。
『ここで気を抜けば、俺はただ発情するだけの獣に成り下がってしまう』
晴信は奥歯を強く噛み合わせ、唇から血が滲むほどの力で自身の顔を叩いて意識を繋ぎ止めた。
行く手の斜面が急激に角度を増し、風雨に削られた赤土の段差が目の前に立ちはだかる。
甚四郎は身軽にその段差を跳び下り、振り返って晴信を見上げた。
彼と視線が交差した瞬間、晴信の胸の奥で心拍が早鐘を打つ。
「手を出せ」
低く響く声とともに、甚四郎が太い腕を差し伸べてくる。
晴信はためらいながらも、段差の縁に手をつき、彼の大きな手のひらへと自身の指先を重ねた。
剣だこに覆われたざらつく皮膚の感触が、晴信の柔らかな手のひらを刺激する。
甚四郎が軽く腕を引いた次の瞬間、晴信の体は空中に浮き上がり、支えを失って前へと崩れ落ちた。
着地の衝撃に備えて瞼を閉じたが、予想した硬い地面の感触は訪れない。
代わりに、熱を帯びた固い胸板と、力強い腕が晴信の体をしっかりと受け止めていた。
甚四郎の腕の中にすっぽりと収まる形になり、晴信の鼻先が彼のむき出しの鎖骨に触れそうになる。
至近距離で浴びる圧倒的なαの気配に、晴信の頭は一瞬にして真っ白になった。
耳の奥で自分の血液が逆流する音が響き、全身の産毛が逆立つ。
「おい。立てるか」
頭上から降ってきた声には、わずかな焦りが混じっていた。
晴信は我に返り、弾かれたように甚四郎の胸から身を離した。
「すまない。足元が、少し」
顔から火が出るほどの熱を感じながら、晴信は視線を足元の赤土へと落とす。
甚四郎は晴信の手首を握ったまま、その熱を帯びた顔を覗き込んできた。
彼の鋭い目が、晴信の乱れた呼吸と微かに震える肩を観察している。
甚四郎の空いた手が伸びてきて、晴信の額にそっと触れた。
火照った肌に、甚四郎の指先の冷たさが心地よく響く。
「ひどい熱だ。限界なら無理をして歩く必要はねえ。ここからは俺が背負ってやる」
甚四郎は手を離すと、晴信に背を向けて片膝をつき、背中に乗るよう促した。
その申し出は、追手から逃れるための合理的な判断に過ぎないのだろう。
だが、晴信にとってそれは、これ以上己の本能を刺激されるという危険な誘いでもあった。
「いや、歩ける。お前にこれ以上の負担はかけられない」
晴信は強がって一歩を踏み出そうとしたが、膝の関節が完全に力を失い、その場に崩れ落ちそうになる。
甚四郎は素早く立ち上がり、晴信の腰を抱き寄せて転倒を防いだ。
「意地を張るな。お前がここで倒れれば、俺が面倒を見る手間が増えるだけだ」
有無を言わさぬ力で、甚四郎は晴信の体を持ち上げ、自らの背中へと背負い上げた。
晴信の細い腕が甚四郎の広い肩に回り、胸が彼の背中の筋肉に密着する。
着流し越しに伝わってくる体温は高く、心臓の規則正しい鼓動が直接肌へと伝わってくるようだった。
「しっかり掴まっていけ。振り落とされても知らねえぞ」
甚四郎はそう言い残すと、二人分の体重をものともせずに険しい山道を歩き始めた。
晴信は甚四郎の首筋に顔を埋めるのを避けるため、必死に顔を背けて視線を遠くへと泳がせる。
揺れるたびにこすれ合う布の摩擦と、下から突き上げるような男の熱が、晴信の理性を少しずつ溶かしていく。
自分のうなじから漏れ出そうになる甘い匂いを抑え込むため、晴信は浅く短い呼吸を繰り返した。
どれほどの時間が過ぎたのか、鬱蒼と茂っていた木々の隙間から、眩いほどの西日が差し込んできた。
斜面を覆っていた木立が唐突に途切れ、視界が大きく開ける。
甚四郎の歩みが止まり、晴信は彼の肩越しに前方の景色を見下ろした。
眼下に広がっていたのは、夕日に照らされて黄金色に輝くススキの野と、そのさらに奥に寄り添うように建ち並ぶ小さな家々の屋根だった。
すり鉢状の盆地に隠されるように存在するその集落は、外の世界の喧騒から完全に切り離された静寂を保っている。
谷底から吹き上げてくる冷涼な風が、晴信の火照った顔を優しく撫でた。
「着いたぞ。あれが目的の村だ」
甚四郎の声には、長い旅路の終わりを告げる安堵の響きが含まれていた。
晴信は甚四郎の背中の上で、夕闇に沈みゆく村の光景をただ黙って見つめ続ける。
ここから先、あの閉鎖的な武家社会に戻る道は完全に絶たれたのだという事実が、初めて現実の重みを持って胸に迫ってきた。
だが、不思議と恐怖や後悔は湧き上がってこなかった。
甚四郎の背中から伝わる確かな熱が、晴信の心に根を下ろそうとしている不安を静かに焼き尽くしてくれていた。




