第4話「清流の素顔と名もなき熱」
木々の梢が薄墨色から白藍へと色を変え、冷たい朝露が葉先から土へと落ちる頃、二人は再び山道を歩き始めていた。
山の稜線を越え、斜面は少しずつ下りへと転じている。
晴信の足は限界を超え、一歩踏み出すごとに膝が笑い、足裏の傷口からにじむ血が足袋を赤黒く染めていた。
それでも昨夜のように倒れ込むことはなく、甚四郎の背中をしっかりと見据えて歩みを進めている。
夜明けの光の中を歩く甚四郎の姿は、昨夜の暗闇で見た時よりもさらに野性味を帯びて見えた。
結い損ねたように乱れた髪が肩にかかり、破れた着流しの隙間から覗く肌は、長年の鍛錬を物語るように引き締まっている。
「水の音がする」
前を歩いていた甚四郎が立ち止まり、顎で斜面の下をしゃくった。
耳を澄ませば、確かに木立の向こうから水が岩を打つ清涼な音が聞こえてくる。
「そこで顔を洗い、泥を落とすぞ。明るくなれば、お前のその姿は目立ちすぎる」
甚四郎の言葉に従い、斜面を滑り降りると、木々に囲まれた小さな川が現れた。
澄み切った水が朝日を反射してきらきらと輝いている。
甚四郎は周囲の気配を探るように鋭い視線を巡らせた後、腰の刀を岸辺の岩の上に置いた。
「さっさと洗え。冷える前に上がるんだぞ」
甚四郎はそう言うと、自らの着流しを帯から解き、ためらいもなく上半身をさらけ出した。
晴信は川の水をすくおうとして前かがみになっていたが、甚四郎の裸体を視界に捉え、思わず動きを止めた。
朝の光に照らされたその背中には、数え切れないほどの傷跡が網の目のように刻み込まれていた。
古い刀傷、刃の切先でえぐられたような深い痕、斜めに走る長い傷。
どれも彼がくぐり抜けてきた死線の数を示す、生々しい勲章だった。
その痛々しくも美しい肉体に、晴信は息を呑んだ。
甚四郎は晴信の視線に気づいたのか、肩越しに振り返った。
「見世物じゃないぞ。早くその泥を落とせ」
「あ、ああ。すまない」
晴信は慌てて目をそらし、冷たい川の水に両手を浸した。
氷のように冷たい水が、火照った顔と熱を持ったうなじを冷やしていく。
昨夜甚四郎に塗りたくられた泥と草の汁を丁寧に洗い流すと、元の白い肌が露わになった。
だが、肌の奥から湧き上がるΩ特有の甘い匂いは、完全に消え去ったわけではなかった。
水に濡れたことで、むしろその香りが清涼な空気の中に際立って漂い始める。
晴信は自身の着物の襟元を強く握りしめ、匂いを閉じ込めようとした。
甚四郎は手ぬぐいを水で濡らし、自身の顔と首筋を乱暴に拭いている。
その動作のたびに、背中や腕の筋肉が滑らかに躍動した。
「甚四郎は、ずっと一人で旅をしていたのか」
静寂に耐えきれず、晴信はぽつりと問いかけた。
甚四郎は手ぬぐいを絞る手を止めず、視線だけを川面へ向けた。
「ああ。俺みたいな根無し草は、一人の方が都合がいい。誰かを背負い込むのは柄じゃないんでな」
「それなのに、どうして俺を助けた。金のためと言っていたが、それだけではないだろう」
晴信の問いに、甚四郎は短く鼻で笑った。
「買い被るな。お前のその必死な目を見たら、見捨てるのが面倒になっただけだ。どうせ俺の行く先なんて決まってねえしな」
甚四郎は絞った手ぬぐいを岩の上に放り投げ、再び着流しを羽織った。
帯を締める手つきは慣れたもので、傷だらけの背中が再び布の下へと隠れる。
晴信も濡れた足袋を脱ぎ捨て、泥だらけの着物の裾を水で洗った。
冷たい水に足を浸していると、赤黒く腫れ上がった傷口の痛みが少しだけ和らぐ気がした。
「このまま山を下りても、追手の網に引っかかるだけだ。お前の身柄を隠せる場所が必要だな」
甚四郎は岸辺にしゃがみ込み、川底の小石を指で弾いた。
「心当たりがあるのか」
晴信が問い返すと、甚四郎は少しだけ目を伏せ、遠い記憶を探るような表情をした。
「この山を越えた先に、人里離れた小さな村がある。そこには、俺の古い知己が住んでいる。関屋銀次という男だ」
「その男は、信用できるのか」
「ああ。口は悪いが、情には厚い。事情を話せば、しばらくの間はお前を匿ってくれるだろう」
甚四郎が立ち上がり、晴信の方へと歩み寄ってきた。
濡れた着物の裾から滴る水が、土の色を濃く変えていく。
甚四郎は晴信の前に立つと、片膝をつき、晴信の素足を見下ろした。
「ひどい傷だ。これではまともに歩けまい」
甚四郎は自分の着物の袖口をためらいもなく引き裂き、長い布の帯を作った。
「何をしている」
晴信が驚いて身を引こうとするのを、甚四郎の大きな手が制止する。
「動くな。傷口から泥が入って化膿したら、足ごと切り落とす羽目になるぞ」
甚四郎は晴信の足首をしっかりと掴み、裂いた布を足の裏に幾重にも巻きつけていく。
その手つきは驚くほど優しく、硬い指先が晴信の肌に触れるたびに、くすぐったいような熱が広がった。
晴信の細い足首が、甚四郎の大きな手の中に完全に収まっている。
αの男に足を触れられているという事実が、晴信のΩとしての本能をひどく揺さぶった。
心臓が肋骨を叩く音が、自分でもはっきりと聞こえる。
顔が熱くなり、晴信は己の膝をきつく抱き寄せて視線をそらした。
「これで少しは歩きやすくなるはずだ。だが、無理はするな」
布を結び終えた甚四郎が顔を上げ、晴信と視線が交差する。
その瞬間、甚四郎の瞳の奥に、獣のような鋭い光が一瞬だけ閃いた。
水で洗い流したはずの晴信の甘い匂いが、至近距離にいる甚四郎の理性を微かに刺激したのだ。
甚四郎の喉仏が大きく上下し、呼吸がわずかに深くなる。
二人の間に、言葉にはできない濃密な緊張感が走った。
晴信は金縛りに遭ったように動けず、甚四郎の瞳に吸い込まれるように見つめ返してしまう。
風の音さえも遠ざかり、互いの呼吸の音だけが耳元で響いていた。
だが、甚四郎は不意に立ち上がり、強引にその空気を断ち切った。
「行くぞ。あの村まではまだ距離がある。明るいうちに山を抜ける」
背を向けた甚四郎の足取りは、先ほどよりも少しだけ速かった。
晴信は胸の奥で暴れる熱を必死に押さえ込み、布を巻かれた足で立ち上がる。
地面を踏みしめると、確かな布の厚みが痛みを和らげてくれた。
甚四郎の不器用な優しさが、布越しに晴信の足元を支えている。
その事実がたまらなく嬉しくて、晴信の唇に微かな笑みがこぼれた。
「待ってくれ、甚四郎」
急いで後を追う晴信の足取りは、昨夜よりもはるかに軽くなっていた。
身分も素性も違う二人だが、互いの体温と匂いを共有しながら、同じ目的地へと歩みを進めていく。




