第3話「泥にまみれた月光と逃避行」
深い森の底を縫うように、二つの影が急斜面を登っていく。
木々の間から差し込む青白い月光だけが、辛うじて周囲の輪郭を闇から浮かび上がらせていた。
晴信の息は既に限界に達し、喉の奥から血の味がせり上がってくる。
高級な絹で仕立てられた着物は茨に引き裂かれ、泥と樹液にまみれて本来の鮮やかな色彩を失っていた。
足袋の底はとうに破れ、むき出しになった足の裏が鋭い石や木の根を踏むたびに、脳天を貫くような痛みが走る。
それでも足を止めることは許されない。
前を歩く甚四郎の背中は、振り向くことなく一定の速度で暗闇を切り裂いていく。
背の高い草を薙ぎ払い、行く手を阻む枝を折って道を作るその背中は、広い肩幅と無駄のない筋肉の動きを隠しきれていなかった。
甚四郎の体からは、雨上がりの土と野生の獣を思わせる鋭いαの香りが絶え間なく漂ってくる。
その匂いが鼻腔をかすめるたび、晴信の下腹部に重い熱が渦を巻き、足元の覚束なさをさらに加速させた。
覚醒したばかりのΩの体は、強いαの存在に当てられて本能的な従属を強いられようとしている。
肌の表面には粟が立ち、全身の血が不自然に脈打っていた。
己のうなじから漏れ出す甘くねっとりとした匂いが、夜の湿った空気に絡みついて離れない。
追手から逃れなければならないのに、自身の体が発する匂いが格好の標的になっているという事実に、晴信は焦燥感を募らせた。
視界が不意にぐらりと傾く。
浮き出た木の根に足先を引っかけ、晴信の体は前方の斜面へと投げ出された。
顔面から冷たい土に突っ込む寸前、強い力で腕を引かれ、空中で強引に体勢を立て直される。
甚四郎の節くれ立った手が、晴信の細い手首を握りしめていた。
「どこを見て歩いている」
低くざらついた声が、頭上から降ってくる。
晴信は荒い息を吐きながら、甚四郎の腕にすがりつくようにしてどうにか立ち上がった。
「すまない。足が、もう」
言い訳をしようとした唇はひどく乾き、声はかすれてまともに音にならなかった。
甚四郎は晴信の手首を握ったまま、顔を近づけて鼻先をかすかに動かした。
彼の鋭い瞳が、暗がりの中で爛々とした光を放つ。
「やはり駄目だ。お前の体から漏れるそのむせ返るような匂い、風下からでもたやすく追えるぞ。これでは山を越える前に見つかる」
甚四郎は晴信の手首を放すと、周囲の地面を見回し、沢から水が染み出しているぬかるみへと歩み寄った。
両手で湿った泥をすくい上げ、さらに近くに生えていた香りの強い野草をむしり取って泥の中に揉み込む。
「後ろを向け」
戻ってきた甚四郎の言葉に、晴信は息を呑んで後ずさった。
「何を、するつもりだ」
「匂いを消す。その甘ったるい香りを泥と草の汁でごまかすんだ」
甚四郎は有無を言わさず晴信の肩を掴み、強引に背中を向けさせた。
着物の襟元が荒々しく引き下げられ、熱を持ったうなじが冷たい夜気にさらされる。
次の瞬間、泥と潰れた草が混ざった冷たい塊が、晴信の首筋に押し当てられた。
「冷たっ」
口を突いて出そうになる悲鳴を、晴信は奥歯を強く噛み締めて喉の奥へと飲み込んだ。
甚四郎の指が、泥を塗りたくるために晴信の柔らかな肌を直接こする。
剣を握り続けて硬く分厚くなった手のひらの感触と、指先にできた剣だこのざらつきが、過敏になっているΩの肌を容赦なく刺激した。
冷たい泥の感触よりも、甚四郎の指が触れるたびに走る熱のほうが、晴信を激しく動揺させる。
うなじから肩口にかけて泥を擦り込まれ、甚四郎の顔がすぐ後ろにあるという気配だけで、晴信の呼吸は浅く不規則になった。
甚四郎の吐息がうなじにかかるたび、背筋を電流のような痺れが駆け抜ける。
「動くな。まだ匂いが残っている」
甚四郎の声は平坦だったが、その指の動きはどこか慎重さを帯びているように感じられた。
手首や耳の後ろにも泥を塗られ、晴信はひたすらその感覚に耐え続けた。
泥の冷たさとαの体温が入り混じり、晴信の脳を混乱させていく。
ようやく甚四郎の手が離れると、晴信は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えてよろめいた。
周囲の空気からは、先ほどまでの甘い花の香りは消え失せ、代わりに青臭い草と湿った土の匂いだけが漂っている。
「これで少しはマシになったはずだ。行くぞ」
甚四郎は手についた泥を自分の着物で乱暴に拭い、再び斜面を登り始めた。
晴信は震える手で乱れた襟をかき合わせ、彼から離れまいと必死に後を追う。
どれだけの時間が過ぎたのか、空の星が位置を変え、夜の冷気がいっそう深まった頃、二人はようやく風を遮る大きな岩の陰に辿り着いた。
「ここで少し休む。夜明けまでにはまだ時間がある」
甚四郎が岩肌に背を預けて座り込むのを見て、晴信も糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
土の上に投げ出した足は感覚を失い、全身の筋肉が小刻みに痙攣している。
甚四郎が腰から外した竹筒を差し出してきた。
晴信は震える両手でそれを受け取り、冷たい水を喉の奥へと流し込む。
乾ききった細胞に水が染み渡り、少しだけ視界が鮮明になった。
竹筒を返すと、甚四郎は何も言わずに同じ飲み口から水をあおった。
同じ飲み口に唇を触れることにすら、晴信は顔に熱が集まるのを感じて目をそらす。
静寂が訪れると、張り詰めていた気が緩み、押し殺していた感情が波のように押し寄せてきた。
『八雲は、どうなっただろうか』
己を逃がすため、あの冷酷な叔父の前に一人で立ちはだかった忠臣の姿が脳裏に蘇る。
血に染まった肩と、決して振り返るなと命じた力強い声。
前世でも、晴信はいつも理不尽な力に押し流され、誰かに助けを求めることすらできずに孤独に死んでいった。
そして今度もまた、自分一人が生き延びるために、大切な者を犠牲にしてしまったのだ。
膝を抱え、顔をうずめた晴信の肩が微かに震える。
涙は流れないが、胸の奥が刃物でえぐられるように痛んだ。
「泣いているのか、若殿」
静かな暗闇の中、甚四郎の声が響いた。
「泣いてなどいない」
晴信は顔を上げず、くぐもった声で短く返す。
「置いてきた家来のことが心配か。あの数の追手を相手にして、まともに生き残れるとは思えねえがな」
甚四郎の言葉は残酷なほど現実的で、晴信の胸に深く突き刺さる。
「わかっている。俺が生きて逃げることだけが、あいつの望みだということも」
晴信は顔を上げ、暗闇の奥で座る甚四郎を見つめた。
「だが、俺は自分の無力さが腹立たしい。誰かの犠牲の上にしか立てないこの身分も、己の意志を無視して発情するこの体も」
拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込む。
甚四郎はしばらく黙って晴信の言葉を聞いていたが、やがて短く息を吐いた。
「無力だと嘆く暇があるなら、息を整えろ。お前がここで力尽きれば、あの家来の死は本当に無駄になる」
冷たい言葉だったが、甚四郎は岩肌から背を離し、晴信の隣へと腰を下ろした。
肩と肩が触れ合いそうな距離。
甚四郎の体から発せられる熱が、夜風に凍えていた晴信の体をじんわりと温める。
「眠れるなら少しでも目を閉じておけ。追手の気配があれば俺が起こす」
ぶっきらぼうなその言葉の裏にある確かな配慮に、晴信は目頭が熱くなるのを感じた。
隣に座る甚四郎の存在が、張り詰めていた心の糸を少しずつ解きほぐしていく。
「恩に着る、甚四郎」
消え入りそうな声でつぶやき、晴信は重い瞼を閉じた。
泥と草の匂いの中に混じる、かすかなαの香りに包まれながら、泥のように深い眠りへと落ちていった。




