第2話「刃の煌めきと獣の匂い」
夜の森は、あらゆる音と気配を飲み込む底なしの沼のようだった。
晴信は息を荒らげながら、斜面を覆う草木をかき分けて前へと進む。
足元のぬかるみが容赦なく足袋を濡らし、一歩踏み出すごとに重い泥がまとわりついて歩みを遅らせた。
張り出した木の枝が頬を鋭く引っ掻き、生温かい血の筋が首筋へと流れ落ちる。
着物の裾はとうに裂け、泥と草の汁で汚れきっていた。
それでも足を止めることはできない。
背後からは、松明の赤い炎が木々の間を舐めるように動き、刺客たちの放つ冷酷な殺気がじわじわと距離を詰めてきている。
自身の体から絶え間なく湧き上がるΩ特有の甘い匂いが、夜の湿った空気に混じって追手へと居場所を知らせてしまっているのだ。
熱に浮かされた頭がぐらぐらと揺れ、視界の端が白くかすんでいく。
肺が焼け焦げるように痛む。
前世で命をすり減らしていた頃の、息が詰まるような閉塞感が脳裏に蘇る。
『ここで終わってたまるか。俺はまだ、自分の足で生きてさえいない』
晴信は泥に足を取られ、無様に斜面へ転がり落ちた。
枯れ葉の層に顔から突っ込み、口の中に土の苦い味が広がる。
両手をついて立ち上がろうとした時、頭上の枝が不自然に揺れる気配を感じた。
見上げると、木の上から黒装束の男が音もなく飛び降りてくる。
月明かりが、振り上げられた刀の冷たい刃を反射した。
晴信は身をすくめることしかできなかった。
抵抗する間もなく、死の刃が首筋へと迫る。
死を覚悟し、きつく瞼を閉じた。
だが、肉を断つ痛みはいつまで経っても訪れなかった。
代わりに空気を切り裂くような鋭い風切り音が響き、直後に重い物体が地面に崩れ落ちる気配がした。
ゆっくりと目を開けると、先ほどの刺客が泥の上に倒れ伏し、二度と動かなくなっている。
そして、その傍らには、一人の男が立っていた。
破れかけた着流しをまとい、腰には無骨な刀を一振りだけ下げている。
無精髭に覆われた顎の輪郭と、深い影を落とす鋭い双眸。
刀の切先からゆっくりと滴り落ちる血の雫が、枯れ葉の上で黒い斑点を作っている。
男がゆっくりと振り返り、晴信を真っ直ぐに見据えた。
その瞬間、晴信の全身の皮膚が粟立ち、心拍が狂ったように跳ね上がった。
男から発せられる気配は、先ほどの榊原市之進とはまるで異なっていた。
冷たく計算高い貴族のそれではなく、荒野を生き抜いてきた野生の獣のような、荒々しく圧倒的なαの匂いだ。
土と血の匂いが混じったようなその強烈な香りが、晴信のΩとしての本能を激しく揺さぶり、腹の底から痺れるような熱を引き起こす。
「おい。こんな夜更けに、ずいぶんと物騒な遊びをしているじゃないか」
男の口からこぼれた声は、地の底から響くように低く、ざらついていた。
晴信は後ずさりしようとしたが、足が震えて立ち上がることができない。
男は刀についた血を振って落とし、鞘へと収めた。
その所作は無駄が一切なく、かつて数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けてきたことを物語っている。
「お前は、誰だ」
かすれた声で問うと、男は面倒くさそうに頭を掻いた。
「俺か。俺はただの通りすがりの浪人だ。黒駒甚四郎って名乗っている。お前みたいなお坊ちゃんが、なんでこんな山ん中で追われているのかは知らねえがな」
甚四郎の視線が、晴信の泥だらけの着物から、赤く火照った顔、そして微かに乱れた襟元へと移動する。
甚四郎の鼻先が微かに動き、その眉間に深いしわが刻まれた。
「なるほどな。ひどく甘ったるい匂いを撒き散らしていると思ったら、覚醒したばかりのΩか。道理で追手が群がってくるわけだ」
甚四郎の言葉には、哀れみも軽蔑も含まれていない。
ただ事実を淡々と述べるだけの、乾いた響きだった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、晴信の中で何かが弾けた。
この男なら、自分をあの追手たちから逃がすことができるかもしれない。
理屈ではなく、生き延びるための本能がそう告げていた。
晴信は震える膝に力を込め、泥まみれになりながら立ち上がった。
そして、甚四郎の足元へとよろめきながら近づき、その着物の袖を強く握りしめる。
「俺を、助けてくれ」
真っ直ぐに見上げる晴信の瞳には、絶望に抗う強烈な光が宿っていた。
甚四郎は自分の袖を掴む白い指先を見下ろし、小さく息を吐いた。
「おいおい、冗談じゃねえぞ。俺は金にならない面倒事はご免だ。それに、発情期のΩを連れて歩くなんて、火薬樽を背負って火の中を歩くようなもんだ」
甚四郎は腕を振り払い、背を向けて歩き出そうとする。
しかし、晴信はその背中に向かって声を張り上げた。
「俺は浅葱晴信だ。浅葱の嫡男だ。俺を無事に逃がせば、必ず相応の礼はする。金でも何でも、望むものをくれてやる」
甚四郎の足がぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返った彼の目には、先ほどまでの無関心とは違う、鋭い光が宿っている。
「浅葱の嫡男だと。あの名門の跡取りが、Ωの出来損ないとして山を逃げ回っているのか。傑作だな」
甚四郎の口元に、微かな冷笑が浮かぶ。
「笑いたければ笑え。だが、俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ。お前のその剣の腕、俺に買わせろ」
晴信は一歩も引かず、甚四郎の目を正面から見据え続けた。
前世で何もできずに死んでいった己への怒りが、今の晴信に奇妙な度胸を与えていた。
甚四郎はしばらく晴信の瞳を黙って覗き込んでいたが、やがて大きくため息をついた。
「金で俺の剣を買う、か。威勢だけは一人前のお坊ちゃんだな」
甚四郎は晴信に近づき、その腕を乱暴に掴んで引き寄せた。
顔と顔が触れ合うほどの距離になり、甚四郎の体から放たれるαの香りが、晴信の肺の奥深くまで侵入してくる。
目の前が白く霞むほどの熱に襲われ、晴信は思わず息を呑んだ。
「いいだろう、若殿。お前のその命、俺が預かってやる。だが、道中は俺の指示に従え。足手まといになれば、その時は容赦なく見捨てるからな」
甚四郎の言葉は冷酷に聞こえたが、その手は晴信が倒れないようにしっかりと体を支えていた。
背後の森から、再び複数の足音と枯れ枝を踏み折る音が近づいてくる。
「追いついてきたな。行くぞ」
甚四郎は晴信の腕を引き、月明かりの届かない深い森の奥へと足を踏み出した。
晴信は甚四郎の広い背中を見つめながら、必死にその後を追う。
冷たい夜風が肌を刺すが、甚四郎から伝わるかすかな体温が、凍えそうな晴信の心を微かに温めていた。
交わるはずのなかった二人の運命が、血と泥にまみれた暗い森の中で、静かに結びつこうとしていた。




