第1話「甘い毒と月夜の謀略」
登場人物紹介
◇浅葱晴信
現代の記憶を持ったまま、大名家の嫡男として転生した青年。十八歳でΩとして覚醒し、過酷なお家騒動に巻き込まれる。
世間知らずだが、前世の価値観による柔軟な思考と、決して運命に屈しない真っ直ぐな瞳を持つ。
◇黒駒甚四郎
世をすねて生きる凄腕のα浪人。かつては名のある剣客だったが、ある理由から刀を捨てて放浪の旅を続けている。
ぶっきらぼうで口が悪いが、他者の痛みに寄り添う不器用な優しさを隠し持っている。
◇榊原市之進
浅葱家のお家乗っ取りを企む野心家の叔父。特権階級のαであることを笠に着ており、Ωとして覚醒した晴信を排除すべく冷酷な刺客を放つ。
◇八雲廉之助
晴信に幼い頃から仕える忠実な家臣。β。実直な性格で、晴信を実の弟のように大切に想っている。主君を逃がすため、自ら囮となる道を選ぶ。
◇関屋銀次
人里離れた田舎村で自給自足の生活を送るβの青年。甚四郎の古い知己であり、事情を抱えて逃げてきた二人を快く村に迎え入れる。大らかで面倒見が良い。
深い闇が降りた寝所で、浅葱晴信は自らの喉をかきむしるようにして細く息を吸い込んだ。
肺を満たすのは、ひどく甘く、ねっとりとした花の匂いだ。
それは外の庭から漂ってくるものではない。
晴信自身の肌の奥底から、止めどなくあふれ出ているものだ。
全身の血が沸き立つような熱に浮かされ、重たい掛け布団を足で蹴り飛ばす。
畳の冷たさを求めて身をよじらせると、上等な絹の寝巻きが肌に張り付いて不快な重さを伴った。
視界がぐらぐらと揺れ、天井の木目が歪んで見える。
脳裏に一瞬、冷たい光を放つ四角い画面と、深夜の殺風景な部屋の光景が鮮明に蘇った。
『また、こんな風に理不尽に終わるのか』
前世の記憶だ。
終わりのない労働の果てに心臓が止まり、気がつけばこの時代の、大名家の嫡男として生まれ変わっていた。
何不自由ない武家の若君として十八の春を迎えるまで、平穏な日々が続くと思っていた。
だが、今の晴信の体を支配しているのは、ただの熱病ではない。
武家の社会において、ましてや大名家の跡取りとしては絶対に許されない、Ωとしての性の覚醒だった。
自身の首筋、うなじのあたりが焼け焦げるように熱い。
そこから立ち昇る特有の甘い香りが、部屋の空気を濃密に染め上げている。
誰かがこの匂いに気づけば、すべてが終わる。
浅葱家を継ぐ者は、強い力を持つαか、あるいは堅実なβでなければならない。
本能に振り回され、子を成す器とされるΩが当主の座に就くことなど、この閉鎖的な世界ではあり得ないのだ。
晴信は震える指先で畳を掻きむしり、どうにか上体を起こそうとした。
しかし、腰から下の感覚が麻痺したように重く、力が入らない。
吐き出す息は熱を帯び、唇は乾ききっている。
その時、部屋を仕切る襖が、音もなく横へ滑った。
廊下の冷たい夜気が、部屋に満ちていた甘い匂いを無残に切り裂く。
晴信は目を眇め、入り口に立つ人影を見上げた。
薄明かりの中に浮かび上がったのは、仕立ての良い羽織をまとった長身の男だった。
晴信の叔父であり、次期当主の座を虎視眈々と狙い続けてきた野心家、榊原市之進だ。
市之進の足元から、肌を粟立たせるほどの冷たく鋭い気配が流れ込んでくる。
それは、彼がまぎれもないαであることを示していた。
格上の者が放つ威圧感が、覚醒したばかりの晴信の体を容赦なく打ち据える。
呼吸が浅くなり、胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
市之進はゆっくりと部屋に足を踏み入れ、畳の上に這いつくばる甥を冷ややかに見下ろした。
手にした扇子で己の肩を軽く叩きながら、彼の口角が弧を描く。
「やはりな。数日前からの微熱といい、このむせ返るような匂いといい、よもやとは思ったが。名門浅葱の血筋から、まさかΩの出来損ないが生まれ落ちるとはな」
低い声が、静寂の部屋に響き渡る。
晴信は奥歯を強く噛み締め、市之進の顔を睨み返した。
視線をそらせば、そのまま押し潰されてしまいそうなほどの威圧感がのしかかっている。
「叔父上。夜更けに何用ですか」
かすれた声で絞り出すように問うと、市之進は扇子を閉じ、その先端で晴信の顎を乱暴に持ち上げた。
顎の骨が軋むほどの強い力が込められている。
「白々しい真似はやめろ、晴信。お前がその体で当主の座に座り続けることなど、天地がひっくり返ってもあり得ないのだ。浅葱の家名を汚す前に、私が直々に処分してやろうという慈悲だ」
市之進の瞳には、微塵の温情もなかった。
あるのは、長年待ち望んだ好機を手に入れた歓喜と、弱者を見下す冷酷な優越感だけだ。
扇子の先端が喉元へと滑り降り、晴信の皮膚をなぞる。
今すぐここで息の根を止めることもできるという、無言の脅しだった。
前世で過労の果てに命を落とした時も、誰も助けてはくれなかった。
そして今度もまた、抗うことのできない身分の壁と理不尽な運命によって、暗い底へと引きずり込まれようとしている。
『冗談じゃない。二度も、他人の都合で殺されてたまるか』
晴信は残された力を振り絞り、顎に添えられた扇子を力任せに払い除けた。
その拍子に体勢を崩し、再び畳に肩を打ちつける。
市之進は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに嘲るような笑みを深めた。
「虫けらのように這いずり回る姿こそ、お前にふさわしい。さあ、大人しく冥土へ旅立て」
市之進が右手を高く上げ、袖口に隠し持っていた短刀を引き抜こうとした瞬間だった。
背後の廊下から、空気を切り裂くような鋭い刃の閃きが飛び込んできた。
銀色の軌跡が市之進の腕を掠め、羽織の袖がふわりと床に舞い落ちる。
「若君から離れろ、下品な奪い取る者め」
静かで、しかし鋼のような意志を孕んだ声が響いた。
そこに立っていたのは、晴信に幼い頃から影のように仕えてきた忠実な家臣、八雲廉之助だった。
普段の温和な面影は消え失せ、手にした刀の切先を真っ直ぐに市之進の喉元へと向けている。
八雲はβであり、αの威圧感に影響されることなく、冷静に主君を守る盾として機能していた。
「八雲。お前もこの出来損ないと道連れになるつもりか」
市之進は一歩後退し、忌々しげに舌を打つ。
八雲は市之進の言葉を完全に無視し、素早い身のこなしで晴信の脇に滑り込んだ。
「若君、立てますか。すぐに屋敷を出ます」
八雲の腕が晴信の背中を支え、強引に立ち上がらせる。
立ち眩みで視界が暗転しかけるが、八雲の体温がわずかに理性を繋ぎ止めてくれた。
「どこへ逃げようと同じことだ。すでに屋敷の周囲は私の手の者で固めてある」
市之進が後方に合図を送ると、庭の暗がりから複数の黒い影が音もなく立ち上がった。
冷たい刃の輝きが月光を反射し、無数の殺気が晴信たちを包み込む。
八雲は舌打ちをし、晴信の腕を強く引いた。
「走ってください、若君。振り返ってはいけません」
八雲に背中を押されるようにして、晴信は夜の廊下へと転がり出た。
板の間を踏む足裏の冷たさが、鈍っていた感覚を少しずつ呼び覚ましていく。
背後で鋭い金属の交差する音が響き、八雲が刺客たちの刃を一人で受け止めているのがわかった。
晴信は乱れる呼吸を必死に抑え込みながら、暗い廊下を無我夢中で駆け抜ける。
庭の木々が風に揺れ、不気味な影を落としている。
自分の体から発せられる甘い匂いが、追手にとって格好の道標になってしまうことは痛いほど理解していた。
屋敷の裏手にある通用門を目指し、転がるようにして石段を駆け下りる。
足袋の底が土に触れ、冷たい夜露が足先を濡らした。
「若君。こちらへ」
追いついてきた八雲が、晴信の肩を抱き寄せるようにして庭の奥へと導く。
八雲の肩口の着物が裂け、黒々とした血の染みが広がっているのが見えた。
「八雲、お前、怪我を」
「かすり傷です。それより、このままでは匂いで追いつかれます」
八雲は周囲を見回し、裏山の斜面へと続く獣道を指差した。
「あの道を登り、森を抜けてください。私はここで奴らを引きつけます」
「馬鹿なことを言うな。お前を置いていけるはずがないだろう」
晴信は八雲の袖を強く掴んだが、八雲はその手を優しく、しかし決定的な力で引き剥がした。
「若君。あなたは生き延びねばなりません。たとえどのような運命が待っていようと、浅葱の血をここで絶やすわけにはいかないのです」
八雲の瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
主君を逃がすための囮になる。
それが彼にとっての最後の忠義なのだ。
「行け。振り返るな」
八雲は晴信の背中を強く押し出し、自らは再び屋敷の方向へと向き直った。
手にした刀を構え、闇の奥から迫り来る無数の気配を迎え撃つ体勢をとる。
晴信は奥歯を噛み締め、血の味が口の中に広がるのを感じながら、険しい獣道へと足を踏み入れた。
夜風が木々の葉を揺らし、晴信の熱を持った体を冷たく撫でていく。
木立の隙間から差し込む青白い月光だけが、逃げ延びるための頼りない道標だった。




