第9話「黒い刃と朱に染まる夕景」
穏やかな日々は、長くは続かなかった。
村の生活に馴染み始め、晴信の手のひらにできた豆が固い皮膚へと変わりつつあったある日の夕暮れ。
西の空が血のように赤く染まり、ススキの穂が風に揺れてざわめく中、銀次の家の周辺を異様な静寂が包み込んだ。
虫の鳴き声が唐突に途絶え、風の音すらも息を潜めたような重苦しい空気が漂う。
土間でクワの泥を落としていた晴信は、背筋を這い上がるような悪寒に思わず手を止めた。
板の間で刀の手入れをしていた甚四郎の動きが、ピタリと止まる。
彼は無言のまま刀を鞘に収め、その鋭い視線を閉ざされた戸の向こうへと向けた。
「晴信。奥の部屋に隠れろ。息を殺して絶対に外へ出るな」
甚四郎の声は低く、張り詰めた糸のような緊張感を孕んでいた。
晴信は手にしていた布を土間に落とし、彼に歩み寄ろうとする。
「何があった。まさか、追手が……」
「いいから行け」
甚四郎は立ち上がり、晴信の肩を掴んで強引に奥の部屋へと押し込んだ。
襖が閉められる寸前、甚四郎の瞳に宿った冷たい殺気が晴信の胸を刺す。
それは、夜の森で初めて出会った時の、野生の獣そのものの目だった。
晴信は襖の裏に身を潜め、震える両手で自身の口を覆った。
外の気配を探るように耳を澄ませるが、自分の早鐘を打つ心音ばかりがうるさく響く。
どれほどの時間が過ぎたのか。
突然、木の戸が内側へ向かって激しく弾け飛ぶ音が轟いた。
土間を踏み荒らす複数の足音と、金属が擦れ合う冷たい音が家の中に雪崩れ込んでくる。
「黒駒甚四郎。浅葱の嫡男を匿っていることはわかっている。大人しく引き渡せば、お前の命までは取らん」
聞き覚えのある、氷のように冷たく傲慢な声。
晴信の全身の血が逆流する。
榊原市之進だ。
あの夜、武家屋敷で晴信の命を狙った叔父が、自ら暗殺部隊を率いてこの山奥の村まで追ってきたのだ。
「あいにくだが、この家には俺以外誰もいねえよ。目明かし気取りで他人の家に押し入るとは、ずいぶんと行儀の悪いお武家様だな」
甚四郎の嘲るような声が響く。
「しらばっくれるな。この村の周辺には、あの出来損ないの甘い匂いが微かに残っていた。お前が自身の匂いで上書きしたようだが、完全に消し去ることはできなかったようだな」
市之進の言葉に、晴信は胸を強く締め付けられた。
自分のΩとしての匂いが、結局は甚四郎とこの村に災いを引き寄せてしまったのだ。
『俺のせいだ。俺がここから逃げ出さなければ』
襖の隙間から外の様子を覗き見ると、土間には黒装束に身を包んだ精鋭たちが五人、抜き身の刀を構えて甚四郎を取り囲んでいた。
その背後には、冷ややかな笑みを浮かべた市之進が立っている。
甚四郎は鞘から刀を抜き放ち、ゆったりとした構えで彼らと対峙していた。
「引き渡す気がないなら、ここで切り刻むまでだ。やれ」
市之進の号令とともに、黒装束の男たちが一斉に甚四郎へと襲いかかる。
狭い土間の中で、刃と刃が激突する鋭い金属音が連続して響き渡った。
甚四郎の動きは、農作業をしていた時の無骨さとはまるで違い、流れるような水のように滑らかで、かつ嵐のように荒々しかった。
迫り来る刃を最小限の動きで弾き返し、その反動を利用して敵の急所へと自らの刃を滑り込ませる。
一人、また一人と、黒装束の男たちが血を吹き出して土間へ倒れ伏していく。
しかし、敵の数は多く、連携は訓練し抜かれた精緻なものだった。
一人が甚四郎の視界を塞ぐように刃を振るい、その死角からもう一人が脚を狙って低い姿勢で踏み込んでくる。
甚四郎は脚を狙う刃を刀の腹で受け止めたが、その隙を突いて背後から回り込んだ別の男の刃が、甚四郎の左肩を深く切り裂いた。
肉を断つ嫌な音とともに、甚四郎の着流しが鮮血で赤く染まる。
「甚四郎」
晴信の口から、悲鳴にも似た声が漏れた。
襖を突き破って飛び出そうとした晴信の足が、板の間の上で止まる。
甚四郎が振り返り、血走った目で晴信を強く睨みつけたのだ。
『来るな。お前は隠れていろ』
言葉はなくとも、その視線が強烈に晴信の動きを縛り付ける。
甚四郎は左肩から流れる血を気にする様子もなく、右手一本で刀を振り抜き、背後から斬りつけた男の首筋を的確に薙ぎ払った。
残る敵は二人。
しかし、甚四郎の呼吸は荒く、足取りにもわずかな乱れが生じ始めている。
「ほう、ただの野良犬かと思っていたが、なかなかの腕前だな。だが、多勢に無勢だ」
市之進が扇子を広げ、口元を隠して冷ややかに笑う。
「晴信、そこから出てこい。お前が大人しく投降すれば、この男の命は助けてやらんこともないぞ」
その言葉は、明らかに晴信の心を揺さぶるための罠だった。
だが、血に染まる甚四郎をこれ以上見ていられるほど、晴信の心は強くない。
晴信が襖に手をかけた瞬間、甚四郎が吠えた。
「馬鹿野郎。出てくるんじゃねえ。こいつの言葉を信じる気か」
甚四郎は残る二人の刺客へと猛然と踏み込み、捨て身の攻撃を仕掛けた。
一人の刃を肩で受けながら、もう一人の胸元へ刀を深く突き立てる。
しかし、致命傷を避けた刺客の刃が、甚四郎の腹部を浅く切り裂き、さらに背中へと回った最後の一人が、甚四郎の脇腹へ深く刃を沈めた。
甚四郎の巨体が大きく揺らぎ、膝から土間へと崩れ落ちる。
刀を取り落とし、床に広がる血の海の中に両手をついて荒い息を吐き出した。
「……これで終わりだ。手間を取らせおって」
市之進がゆっくりと甚四郎に近づき、自身の腰から抜き放った白刃を、甚四郎の首筋へと振り上げる。
その刃が夕暮れの赤い光を反射し、冷酷な軌跡を描いて振り下ろされようとした。
「やめろ」
晴信の中で、張り詰めていた最後の理性の糸が音を立てて千切れた。
襖を蹴り開け、無防備な姿のまま土間へと飛び出す。
同時に、晴信の体の奥底で抑え込まれていたΩとしての本能が、限界を突破して爆発した。
これまでとは比較にならないほど強烈で、濃密な甘い香りが、瞬時にして家全体を満たしていく。
それはただの匂いではなく、αの理性を根底から狂わせる、致死量の毒のような香りの奔流だった。
市之進の腕が空中で不自然に止まり、彼の顔が驚愕に歪む。
呼吸が乱れ、剣を握る手が小刻みに震え始めた。
格上のαである彼でさえ、これほどまでに純度の高いΩの甘い香りを至近距離で浴びせられれば、本能の混乱に抗うことはできない。
残っていた刺客も同様に動きを止め、苦しげに膝をついた。
晴信はその隙を逃さず、血だまりの中に倒れ伏す甚四郎の元へと駆け寄り、その体を抱き起こした。
男の体は驚くほど重く、熱かった。
「甚四郎、しっかりしろ。目を開けろ」
晴信の白い着物が、甚四郎の血で赤く染まっていく。
甚四郎は重い瞼を少しだけ持ち上げ、晴信の顔を見上げた。
「馬鹿……出てくるなと、言っただろうが……」
掠れた声とともに、彼の口の端から血の線がこぼれ落ちる。
晴信は涙で視界を滲ませながら、首を横に振った。
「俺のために、お前が死ぬことなんて許さない。絶対にだ」
甚四郎の体温が急速に失われていくのがわかる。
このままでは、彼は確実に命を落とす。
晴信の脳裏に、一つの選択肢が浮かび上がった。
それは、Ωとして最も忌み嫌い、前世の価値観からも激しく拒絶してきた行為。
だが、彼を救うためには、もうこれしか残されていない。
晴信は覚悟を決め、甚四郎の血に染まった首筋へと自身の顔を近づけた。




