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致死の音域

 甲板まで戻ってきた。ルイカは泣いて咽せてを繰り返していた。

ルカウトが出迎えてくれた。布にくるまったハリマンの亡骸を分身の人差し指がオロオロと心配した。


 太陽が沈み闇が迫ってくると、ヨシローとサクランは重い腰を立ち上げ、武器をとった。


 甲板のデッキにずっとそこにいましたよと、いわんばかりに初老の男が座っていた。

ようやくといった感じで、杖を片手に立ち上がった。

眼鏡をかけ直しまじまじとこちら側を観察していた。


「小僧どもが、儂の人魚に何をした?」

ヨシローもサクランも剣を構える。ルイカを守るためだ。

「みんなで守ったんです。そうやすやすと奪わせませんよ!」

サクランが威勢を張った。ヨシローは頷いた。


 このヒト知らない人です。とルイカは首を振った。

「あのイかれたイヌっころを殺ったのか?」

目を大きくして、アゴをさすりながら初老の男は言った。


「あなたは何が目的ですか?」

初老の男は質問にしばらく真意を見出すために沈黙した。視線の先に人魚を据えじっくりと見つめた。


「ふむ、話しをしよう。我々はあのイヌっころのように人魚の血肉を狙うモノではない。ここが重要な点だからな」

初老の男は再びデッキに腰を下ろした。

「僕たちはこの人魚の仲間です。あなたが危害を加えるモノではないという証は?」

ヨシローはあえてルイカの名を伏せた。


「おお。儂は丸腰じゃ。以前、下の階層で会ったときもお前たちは武装していたじゃないか。儂からしたら人魚狩りをしている輩に見えなくもなかったがな」

初老の男は首を振り、それはいいとして。と話しを切り出した。

「儂の名はユリシーズ。大昔は戦争に明け暮れた日々を送っていたが、今はただの彷徨える亡霊じゃ」


「貴方、もの凄いハキハキと見えるんですが何者ですか?」

サクランが言った。


「生前、儂は世界中を遠征して戦ってきたよ。その一つに船団を組んで海戦をしたときの話しじゃ。夜に岩礁の近くで停泊していた時のことじゃ。美しい人魚の歌声が聴こえるではないか。慌てたよ。人魚の歌は船乗りを誘惑し、海の底に引き摺り込むというじゃないか。儂は船乗り全員に蝋で耳を完全に栓をしろと伝令した。そして儂はメインマストにがんじがらめに身体を縛りつけ、人魚がうたを歌い終わるまで気が狂いながらも最後まで聞き届けたんだよ」


 ユリシーズは目を閉じ空を見上げて、あの時のことを鮮明に思い出すかのように語り出した。


「いいか、俺がどんなに気が触れようともこの拘束は解くな。むしろ解けようものなら、さらに締めてくれ。俺が合図を出す。必ずこの魔の海域を全員で脱けるぞ」

当時、若くして船団をまとめ上げていたユリシーズは魔の海域を脱ける作戦を命じられていた。

この海域を出ると戦況が一変する。敵国の背後を獲ったも同然。危険を伴う勝利への作戦に出ていた。


魔の海域は時化が酷く岩礁が多いため航海は不可能といわれ、敵国の最大の防壁ともなっていた。

幾多の国が敵国を攻めようと試みたが、魔の海域を脱けたものはいなかった。


 ユリシーズは海図すらないこの海域を進み、静かに敵の喉元に刃を向けていた。

ユリシーズは懸念していた。もっともこの海域で厄介なのは、先の見えぬ深い霧ではなく、航行に不可能なおびただしい岩礁の群れではなく、この辺一帯に住むセイレーンの歌声だった。


 セイレーンを見たという人がいた。しかしどうやって見たのか。どうやって帰ってこれたのか。この辻褄の合わない話しをどうやって信じろというのだろうか。セイレーンの歌を聴いた者は誰一人として戻ってこない。それが真実だった。


「お前はどうやって生き延びた?」

ユリシーズの目ヂカラある鋭い視線が問いかけた。

相手はモゴモゴと辻褄を合わせようと必死になった。

ユリシーズは首を刎ねた。


もう何人の首を刎ねただろうか。真実には辿り着かない。これが答えだとわかっていた。だが、魔の海域は渡らねばならない。勅命だからだ。勝つことへの執着心だけがユリシーズを突き動かしていた。


 時間は残酷なもので、なんの策もないまま船団は出航した。


「フェイタルレンジ」

致死の音域という曲目。

魔の海域で船団は壊滅するはずだった。

どこからともなく人魚の歌声が響き渡った。


ユリシーズは必死に舵をとり、歌を聴くな。耳を塞げ。と怒号に近い声で船乗りの正気を保とうとした。


船乗り全員の両耳に蝋を流し、耳を塞いだ。ユリシーズは自分を縄で鎖でメインマストに縛りつけ、この致死の音域の中で狂うほどの時間を過ごした。


 ユリシーズだけが人魚の歌を聴いていた。


やがて海域を脱けると敵国に戦争を仕掛けた。安堵の時間は一刻も無かった。


 ユリシーズはその後も、戦争のため各地へ遠征した。戦争に明け暮れた人生だった。


「こうして、いつ終わるかわからん戦争も歳をとって現役を退くと、ふと思い出すことがあるのじゃ。儂はもう一度あの歌を聴きたい。あの心を奪う声を、脳を焼き切るような歌を。退役して初めて観に行った演劇なんかで歌う、それなんかよりももっと光が射すような荘厳なあの歌を聴きたいんじゃ」


ユリシーズの魂はたった一つの思いに囚われ彷徨える亡霊となった。



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