幕間 光と思いっきりの愛
ルカ・モレッティがヴィットリオ・ロマーノに拾われたのは、十三歳の頃だった。
当時のルカは、その言い方をひどく嫌った。
「拾われてねぇ。俺がついてきただけだ」
そう言い張るたび、ヴィットリオは決まって鼻で笑った。
今では「拾われた」という言葉に文句を言うこともない。
むしろ問題があるとすれば。
拾った側が逮捕されても、まだついていこうとしていることくらいだった。
*
その日、ルカは人生で一番、喧嘩を売ってはいけない男に喧嘩を売った。
「……何見てんだよ」
通りを歩いていたヴィットリオ・ロマーノが足を止めた。
周囲にいた男たちも、一斉に動きを止める。
ルカは知らなかった。
目の前にいる男が誰なのか。
いや、知っていたとしても、たぶん結果はさほど変わらなかった。
頬には新しい傷があり、シャツは汚れている。拳には、ついさっき誰かを殴った痕が残っていた。
それでも、目だけは逸らさない。
ヴィットリオが少年を見下ろした。
「今、俺に言ったのか?」
「他に誰がいるんだよ」
周囲の空気が凍った。
一人の男が前へ出ようとしたが、ヴィットリオが片手で止める。
「お前、俺が誰か知ってるか」
「知らねぇ」
「そうか。じゃあ何で俺に喧嘩売った」
「ムカついたから」
「何が」
ルカはヴィットリオを上から下まで眺めた。
仕立てのいい服。
後ろに控えている男たち。
通行人が自然と避けていく道。
何より、どう見ても偉そうだった。
「……クソ野郎かと思った」
今度こそ、周囲の男たちは少年の命が終わったと思った。
ところがヴィットリオは数秒黙ったあと、口元を上げた。
「気に入った」
「……は?」
「俺に喧嘩売る馬鹿は久しぶりだ。その度胸、買った」
「いらねぇよ」
「飯は食ったか?」
あまりにも脈絡がなく、今度はルカが黙った。
「……何で」
「食ってねぇ顔してる」
「関係ねぇだろ」
「ある。腹減ってるガキと喧嘩して勝ってもつまらねぇ」
「勝つ気かよ」
「お前、俺に勝てると思ってんのか?」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ」
ヴィットリオはまた笑った。
「ますます気に入った」
こうしてルカ・モレッティは、ヴィットリオ・ロマーノについていった。
本人の認識では拾われたのではない。
飯を食いに行っただけだった。
そのまま寝床を与えられ、服を与えられ。
翌日には机へ座らされていたが。
*
「何だよ、これ」
ルカは机の上の紙を睨んだ。
「問題だ」
「見りゃ分かる」
「なら解け」
「…………」
ヴィットリオが腕を組む。
「どうした」
「今考えてる」
「五分前から同じところ見てるぞ」
「うるせぇ」
文字は読める。簡単な計算もできる。
だが、少し複雑になると途端に分からなくなった。
何を使えばいいのか。どこから考えればいいのか。
何より腹が立つのは、自分が何を分かっていないのかさえ分からないことだった。
「違う。もう一回」
ヴィットリオが紙を指で叩いた。
「分かんねぇよ!」
「だから考えろ」
「考えてる!」
「考えて答えが違うなら、どっかで間違えてる。戻れ」
「……どこに」
「それを探すんだよ」
ルカは鉛筆を机へ放った。
「もういい」
「よくねぇ」
「こんなの知らなくても生きていける」
「生きるだけならな」
ヴィットリオは即答した。
「でも、お前は一生、路地裏で殴り合って飯食うつもりか?」
「悪ぃかよ」
「悪ぃよ」
ルカは睨み返す。
「クソ野郎がいたらぶっ潰す。それでいいだろ」
「一人ずつ?」
「……何?」
ヴィットリオは机の端へ腰を預けた。
「お前の拳で殴れるのは、目の前にいる奴だけだ」
「それが何だよ」
「頭使えば、その後ろにいる奴までまとめて潰せる」
ルカの目が動いた。
ヴィットリオはそれを見逃さない。
「金の流れが読める。誰が誰に払ってるか分かる。帳簿が読めりゃ、偉そうに後ろでふんぞり返ってる奴まで引きずり出せる」
「…………」
「情報を集めりゃ、殴る前にどいつが本当にクソ野郎かも分かる」
ルカは少し考えた。
「……何人くらい」
「何が」
「まとめて潰せる」
ヴィットリオが黙った。
「そこに食いつくのかよ」
「答えろよ」
「場合による」
「十人?」
「もっとだ」
「百人?」
「やり方次第だ」
ルカはゆっくり鉛筆を拾った。
「……それ先に言えよ」
「言ったら勉強すんのか」
「する」
「動機が最悪だな」
それでも、その日からルカは少しだけ真面目に机へ向かうようになった。
少しだけ。
本当に、少しだけだった。
*
「分かんねぇ」
「考えろ」
「考えても分かんねぇ」
「じゃあ戻れ」
「どこにだよ!」
「だからそれを――」
「お父さん、教えるの下手なんじゃない?」
二人が同時に振り返った。
扉にもたれていたのは、二十歳のサーシャだった。
ヴィットリオの娘。
「余計なこと言うな」
「だって下まで聞こえてたもの」
サーシャが部屋へ入ってくる。
ルカは一度だけ彼女を見て、すぐに視線を机へ戻した。
初めて会った時から思っていた。
この家の人間なのに、ヴィットリオとはまるで違う。
声も。
歩き方も。
笑い方も。
サーシャが机の横まで来て、紙を覗き込む。
「これ?」
ルカが反射的に紙を伏せた。
「見るな」
「取らないわよ」
「触んな」
「分からないところ見ないと教えられないでしょう?」
「頼んでねぇ」
「あら、そう」
サーシャはあっさり引いた。
近くの椅子へ腰を下ろすと、自分の本を開く。
ルカが眉を寄せた。
「何してんだよ」
「本読んでる」
「他行けよ」
「私の家なんだけど」
「…………」
ヴィットリオが吹き出した。
「笑ってんじゃねぇ」
「笑ってねぇよ」
「笑ってるだろ」
ヴィットリオは肩を揺らしながら立ち上がった。
「俺、電話してくるわ」
「逃げんな!」
「逃げてねぇよ」
扉が閉まる。
残されたルカは問題へ視線を戻した。
サーシャは何も言わない。
覗き込まない。
急かさない。
ページをめくる小さな音だけが聞こえる。
それが逆に気になった。
五分。
十分。
鉛筆を動かしては止める。
消して、また書く。
どうしても同じところで詰まった。
とうとうルカは問題の一箇所を指した。
「……これ」
サーシャが本から顔を上げる。
「ん?」
「なんでここ、こうなんだよ」
サーシャは笑わなかった。
馬鹿にもしなかった。
「見せて」
椅子が床を擦る音がした。
サーシャが自分の椅子を寄せてくる。
近い。
思っていたよりずっと近かった。
ルカの肩がわずかに強張る。
サーシャはそんなことには気づかず、机へ身体を寄せて問題を覗き込んだ。
その瞬間。
ふわりと、清潔な香りがした。
ルカは一瞬だけ息を止めた。
何だ、これ。
風呂に入った後の匂いとも違う。
洗いたての服とも少し違う。
この家に来てから、自分だって同じ風呂を使っている。
洗面所には同じものが並んでいたはずだ。
なのに。
なんでこんなに違うんだ。
ルカにはまだ、香水なんてものを意識する知識がなかった。
だから結論は出ない。
ただ。
近い。
いい匂いがする。
それだけで、急に落ち着かなくなった。
「ルカ?」
「……何だよ」
「聞いてる?」
「聞いてる!」
思ったより声が大きくなった。
サーシャが目を丸くする。
「急にどうしたの」
「別に」
ルカは無意味に鉛筆を持ち直した。
「早く教えろよ」
「はいはい」
サーシャは問題へ指を置いた。
「ここまでは分かる?」
「……分かる」
「じゃあ、この次。これを一回こっちへ持ってきて考えてみて」
彼女の指先が紙の上を滑る。
ルカはそこを見ているつもりなのに、視界の端にサーシャの横顔が入る。
邪魔だ。
いや、サーシャが邪魔なのではない。
自分の頭が邪魔だった。
「ほら。ここ」
「あ?」
「だから、ここ」
「……近い」
「え?」
「何でもねぇ!」
「今日変よ?」
「元からだろ」
「それ自分で言う?」
サーシャが笑う。
また、あの匂いが近づく。
ルカは椅子をほんの少しだけ横へずらした。
サーシャも、その分だけ紙を見るために寄ってくる。
意味がない。
「ここまでは?」
「……分かる」
「じゃあ、次だけ一緒にやろう」
「子供扱いすんな」
「十三歳は子供よ」
「ガキじゃねぇ」
「じゃあ“大人のルカさん”お一人でどうぞ」
サーシャが椅子を戻そうとする。
「待て」
ぴたりと止まる。
「……教えろよ」
サーシャが吹き出した。
「はいはい」
一つずつ。
分からないところを分ける。
分かるところまで戻る。
そこから、もう一度進む。
今度はルカも真面目に紙だけを見た。
見ようとした。
やがて、鉛筆が止まる。
「あ」
「分かった?」
「……これか」
「そう」
最初から計算し直す。
答えが合った。
「できたじゃない」
サーシャが嬉しそうに笑った。
ただ、それだけだった。
大げさに褒めもしない。
できなかったことを笑いもしない。
できたことを、普通に喜んだ。
ルカは紙を見たまま呟く。
「……別に。これくらい」
「はいはい」
顔を上げると、また目が合った。
近い。
ルカはすぐに問題集へ視線を落とした。
さっきまで分からなかった問題より。
今の方が、よほど分からなかった。
*
もっとも、勉強を始めたからといって、喧嘩癖まで消えたわけではなかった。
数日後。
ルカは頬を腫らして帰ってきた。
玄関を開けると、サーシャと目が合う。
「…………」
「…………」
先に目を逸らしたのはルカだった。
「また喧嘩したの?」
「してねぇ」
「その頬で?」
「転んだ」
サーシャの視線が拳へ落ちる。
擦り傷と、乾きかけた血。
「拳も転んだの?」
「……壁」
「壁と喧嘩したのね」
「うるせぇな」
「座って」
「平気だ」
「座って」
「だから――」
サーシャが黙って見る。
ルカは舌打ちした。
「……分かったよ」
ソファへ座ると、サーシャは救急箱を持ってきた。
目の前へしゃがみ込み、傷を確認する。
また、あの匂いがした。
ルカの目が泳ぐ。
近い。
また近い。
「こっち向いて」
「見えてるだろ」
「頬を見せて」
「このままでいい」
「良くない」
サーシャがルカの顎へ軽く手を添えて顔を向ける。
ルカの身体が固まった。
「……何?」
「何でもねぇ」
「じゃあ動かないで」
消毒液が触れ、ルカの眉がわずかに動く。
「痛い?」
「痛くねぇ」
「そう」
「ほんとだぞ」
「聞いてないわよ」
「じゃあ言わせんな」
サーシャは笑いながらガーゼを当てた。
ルカは真正面を見られず、壁の一点を睨む。
何で。
同じ家にいるのに。
同じ風呂を使ってるのに。
こいつだけ、こんな匂いするんだ。
聞こうとして。
やめた。
どう聞けばいいのか分からない。
「次は勝ちなさい、とは言わないからね」
「負けてねぇ」
「そこじゃないの」
サーシャはルカの拳にも包帯を巻き始めた。
「次は怪我しないで帰ってきなさい」
ルカは視線を戻す。
「……怪我しなきゃいいのかよ」
「できれば喧嘩自体しないでほしいけど」
「向こうから来たら?」
「逃げれば?」
「嫌だ」
「じゃあ、お父さんに相談する」
「もっと嫌だ」
「面倒くさいわね、あなた」
「ほっとけ」
それでもサーシャは最後まで手当てをした。
包帯を巻き終える。
「はい、終わり」
ルカは白い包帯を見る。
「……いくら」
サーシャが瞬きをした。
「何が?」
「これ。金」
「いらないわよ」
「なんで」
あまりにも普通に、サーシャは答えた。
「怪我してたから」
それだけ。
ルカは返す言葉を失った。
「……変なの」
「失礼ね」
サーシャは救急箱を閉じる。
「それより宿題終わったの?」
「……まだ」
「後で見る?」
「一人でできる」
「そう。じゃあ頑張って」
立ち上がったサーシャを、ルカは呼び止めた。
「……サーシャ」
「何?」
「明日もいる?」
「明日?」
「……勉強」
なるべく、何でもないように言った。
サーシャは少し考える。
「ああ。明日は出かけるの」
「どこ」
「デート」
ルカの動きが止まった。
さっきまで気になっていた香りのことも、一瞬で頭から消えた。
「…………誰と」
「彼氏」
「…………」
「前に話さなかった?」
「聞いてねぇ」
「そうだった?」
妙に胸の奥がざわついた。
「……どんな奴」
「何その聞き方」
「別に」
「優しい人よ」
サーシャが少し照れたように笑った。
その顔を見た瞬間、胸の奥にあったものがずしりと重くなる。
気に入らない。
ものすごく。
気に入らない。
「……ふーん」
「何その反応」
「別に」
「帰ってきたら続きを見てあげるわよ」
「いらねぇ」
「さっき聞こうとしてたじゃない」
「一人でできる」
「そう?」
「できる」
「じゃあ、分からなかったところに印つけておいて」
「……うるせぇ」
サーシャは笑って部屋を出ていった。
一人になったルカは、しばらく問題集を睨んだ。
文字がまったく頭に入ってこない。
「…………彼氏」
ぼそりと呟く。
ムカつく。
理由はまだ、よく分からなかった。
なのに。
さっき近くにあった清潔な香りだけは、妙に頭に残っていた。
その日。
ルカ・モレッティは初めて、人の優しさがこんなにも眩しいものなのだと知った。
そして、その光を自分が追いかけ始めていることには、まだ気づいていなかった。
*
三年後。
十六歳になったルカは、随分と変わっていた。
何でも拳で片づけようとする癖は減った。口の悪さも、少なくとも人前では抑えられるようになった。
文字を読み、数字を追い、金の流れを考え、情報から人を見る。
ヴィットリオから教えられたことを、ルカは驚くほどの勢いで吸収した。
理由は単純だった。
頭を使えば、拳だけでは届かなかったクソ野郎をまとめて潰せる。
その事実を知ったからだ。
ヴィットリオからすれば、教育の成果としては少々不本意だったかもしれない。
サーシャからすれば、もっと単純だった。
昔は喧嘩ばかりしていたクソガキが、頑張っている。
それだけだった。
そして、その日。
サーシャは結婚した。
もうすぐ子供も生まれる。
先延ばしにすれば式を挙げる時期を逃しかねないということで、身内を中心にした小さな式が早めに開かれた。
ルカもスーツを着た。
昔なら首元が苦しいと文句を言っただろうが、今は何も言わない。
鏡の前で襟を整え、背筋を伸ばした。
ヴィットリオのように。
スマートに。
落ち着いて。
もう十三歳のガキではない。
そう思っていた。
扉が開くまでは。
花嫁姿のサーシャが現れた。
ルカは、息をするのを忘れた。
綺麗だった。
そんな言葉だけでは足りないくらいに。
「ルカ」
呼ばれて、ようやく我に返る。
「……はい」
「似合ってるじゃない、スーツ」
「ありがとうございます」
「ほんと、大人っぽくなったわね」
「もう十六ですよ」
「最初に会った時は十三だったもの」
「その話は忘れてください」
「何かあるたびにすぐ喧嘩して」
「忘れてください」
「勉強も嫌がってたのに」
「それも」
サーシャが笑った。
「でも、本当に頑張ったね」
ルカは言葉を失った。
その一言だけで、十三歳に戻りそうになる。
耳が熱い。
顔には出すな。
絶対に。
ヴィットリオなら、こんなことで動揺しない。
たぶん。
「……ありがとうございます」
どうにかそれだけ返す。
サーシャは満足そうに笑った。
少し離れた場所では、花婿がこちらを見ている。
目が合った。
「…………」
「…………」
ルカは平然とした顔で視線を戻した。
少なくとも。
自分ではそうしたつもりだった。
気づかれたかもしれない。
いや、十六歳の少年が好きな女を見て耳まで赤くしているのだ。
気づかれない方がおかしい。
やがて花婿が近づいてくる。
「サーシャ、そろそろ」
「あ、うん」
サーシャが振り返り、もう一度ルカへ笑った。
「またあとでね」
「……はい」
花婿と目が合う。
今度は逃げなかった。
ルカはちゃんと笑った。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
差し出された手を握る。
一瞬だけ、言葉を選んだ。
「……サーシャを、よろしくお願いします」
花婿はわずかにルカを見つめた。
少年の目が、言葉より多くを語っていたのかもしれない。
それでも何も茶化さず、短く答えた。
「もちろん」
ルカは手を離した。
二人が並んで歩いていく。
サーシャが笑っている。
その横には、自分ではない男がいる。
胸が痛くないと言えば、嘘になる。
本当は、あの隣に立ちたかった。
でも、それよりも強く思うことがあった。
ヴィットリオは、自分にいろいろなものを教えている。
読むこと。書くこと。計算すること。
人を見ること。金を見ること。情報を見ること。
いつか自分がいなくなっても街が回るように、そこで生きる人間たちが表で食っていけるように。
その一部を、いつかルカに任せるつもりなのだろう。
きっとそれは、街を守るためでもある。
サーシャたちが、自分たちの世界を知らずに生きていけるようにするためでもある。
なら、自分もその一部になりたい。
ボスが、こいつなら任せられると思える人間に。
サーシャが、誇れると思える人間に。
この街を。
この人たちを。
守れる男になりたい。
たとえ、その隣にいるのが自分じゃなくても。
*
式が終わったあと、ルカは人の少ない廊下でネクタイをほんの少し緩めていた。
胸の奥に残っているものを、どう扱えばいいのか分からない。
少しして、後ろから足音がした。
「こんなとこにいたのか」
ヴィットリオだった。
ルカは振り返らないまま、小さく息を吐いた。
「ボス」
「何だ」
少し間があった。
「……俺、笑えてましたか?」
ヴィットリオはすぐには答えなかった。
ルカがようやく振り返る。
「ちゃんと」
その一言が付け足される。
ヴィットリオは鼻から息を吐いた。
「ああ。少なくともサーシャにはバレてねぇ」
「……ならいいです」
「旦那にはバレてたけどな」
「…………」
ルカは片手で額を覆った。
「最悪だ」
「十六歳が好きな女見て耳まで赤くしてりゃ、そりゃ分かる」
「口に出さないでください」
「事実だろ」
「分かってます」
ヴィットリオは少し笑って、それからルカの肩を軽く叩いた。
「でも、よくやった」
ルカが顔を上げる。
「ちゃんと祝っただろ。それで十分だ」
「……はい」
ルカはしばらく黙り、式場の方へ視線を向けた。
「俺、ボスとサーシャが誇れるような人間になります」
ヴィットリオの表情が少し変わる。
「ボスにも、こいつなら任せられるって思ってもらえるように。街も、サーシャも守れるようにします」
ルカは少しだけ笑った。
「たとえ、隣が俺じゃなくても」
ヴィットリオは何も言わず、もう一度だけ肩を叩いた。
そこで終われば、綺麗な話だった。
「……でも」
「何だ」
ルカは式場の方を見る。
「あいつがサーシャ泣かせたら消します」
ヴィットリオの手が止まった。
「消すな。サーシャが泣くだろ」
「じゃあ行方不明に――」
「次の案を考えるな!!」
ルカが不満そうに黙る。
「つーか結婚式の日に殺害予告すんじゃねぇ!」
「本人には言ってません」
「そういう問題じゃねぇよ!」
ヴィットリオは深くため息をついた。
「それにな。あいつらにはもうすぐガキが生まれるんだぞ」
ルカの表情が少し変わる。
「……はい」
「サーシャのガキだ」
「分かってます」
「なら、その子も守れ」
今度は迷わず頷いた。
「はい」
「あの旦那もちょっとなよっちいからな」
「ボスが言うんですか、それ」
「俺は事実を言ってるだけだ」
ルカは少し考える。
「じゃあ、俺が守ります」
「旦那もな」
「…………」
「露骨に嫌そうな顔すんな」
「努力します」
「そこ即答しろよ!」
ルカは少しだけ笑った。
それから、何でもないことのように続けた。
「でも、なんかの拍子にあいつが先に死んだら、その時は俺が隣に立つんで」
ヴィットリオがゆっくり振り向く。
「…………」
「それまでは守ります」
「お前それ、守護宣言なのか順番待ち宣言なのかどっちだ」
「両方です」
「十六歳で何十年先の順番待ちしてんだよ!!」
ルカは笑った。
まだ十六歳。
大人になりかけているだけの少年だった。
それでも、十三歳の日に知った光は、三年経ってもまだ眩しかった。
そして、その光へ向けた思いは。
これから先、思いっきり育っていくことになる。
*
二十二年後。
警察署。
サーシャとの通話を終えたヴィットリオは、しばらく黙っていた。
少し離れたところでは、ルカが何事もなかったような顔をしている。
ただ、黒い革手袋の縫い目には、まだ乾ききっていない赤い跡が残っていた。
ヴィットリオが横目で見る。
「……お前」
「はい」
「未だに――」
ルカの表情が止まった。
「ボス」
「何だ」
「口に出さないで頂けますか?」
「まだ何も言ってねぇよ」
「言おうとしたでしょう」
「した」
「やめてください」
ヴィットリオは呆れたように息を吐いた。
「二十二年だぞ」
「だから?」
「そこ開き直んのかよ」
ルカは少しだけ視線を逸らす。
「別に、迷惑はかけてないでしょう」
「それはそうだが」
「ならいいじゃないですか」
ヴィットリオはしばらくルカを見る。
十三歳の頃は、傷だらけで口が悪く、何でも拳で片づけようとしていた。
それが今では会社を任され、人を使い、金と情報を見て、街の一部を支える男になった。
随分と変わった。
ただ、一つだけ。
「……ほんと、お前そこだけ変わらねぇな」
ルカは少し笑った。
「変える理由がないので」
「重てぇよ」
「知ってます」
少しの沈黙。
やがてルカが、ふっと息を吐いた。
「……今だから言えますけど」
「何だ」
「車が爆発したと聞いた時、少しだけ残念でした」
ヴィットリオの眉が上がった。
「お前」
「少しだけです」
「量の問題じゃねぇよ」
「分かってます」
ルカは革手袋に残った赤い跡へ目を落とした。
「でも、今回サーシャの隣にいたのはあいつでした」
ヴィットリオは何も言わない。
「爆発した時も、サーシャを庇おうとしてたって聞きました」
ルカの口元が、ほんの少しだけ苦く歪む。
「……今回は認めます」
「今回は?」
「はい」
「何をだ」
「サーシャの隣にいる資格です」
ヴィットリオは数秒黙った。
「お前が決めんのかよ」
「嫌ですけど」
「そこ付け足すな」
「でも、昔ボスが言ったでしょう。サーシャが大事にしてるものまで守れって」
「ああ」
「だから守りますよ。あいつも」
ヴィットリオが少し意外そうに見る。
ルカは肩をすくめた。
「……嫌ですけど」
「二回言うな」
「大事なので」
ヴィットリオは呆れながらも、ほんの少し笑った。
十三歳の日に知った光は、二十二年経ってもまだ消えていなかった。
むしろ。
あの日よりずっと。
重くなっていた。
情報収集、マーケティング、セキュリティの会社を経営する一途なルカですが、ナンパのテクニックはヴィットリオ譲り。実はかなりのナンパマスターでもあります。
しかし、彼の愛情の行き先は、昔からひとつだけです




