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第6話 四十五年分の約束



「止まれ!」


怒鳴り声が上がった。


サーシャ・コスタが振り返ると、少し離れた場所で一人の男が警備員の腕を振りほどこうとしていた。そのすぐ後ろから、もう一人。さらに別の方向からも人影が動く。


「下がってください!」


警察官がサーシャ夫妻の前へ出た。


「家の中へ!」


何が起きたのか、サーシャにはすぐには分からなかった。ただ、さっきまで静かだった家の前が、一瞬で騒然となったことだけは分かった。


警備員と男がぶつかる。


「離せ!」


「動くな!」


男が身体を捻って腕を振りほどこうとし、そこへ別の警備員が加わった。その横では、もう一人の男が警察官ともみ合っている。


無線の声。靴音。怒鳴り声。


夫が反射的にサーシャの肩を抱き、後ろへ下げた。


「サーシャ、下がれ」


「でも――」


「いいから」


一人の男が警備員を押しのけ、サーシャたちの方へ数歩進んだ。


身体が固まる。


だが、横から警察官が割って入り、さらに警備員が加わった。男の動きが止まる。


「抵抗するな!」


「離せって言ってんだろ!!」


男が叫んだ。


「俺は金が欲しかっただけなんだよ!」


「だったら最初から来るな!」


「断れるわけねぇだろ!」


「何?」


「一回受けたら終わりなんだよ!」


男はなおも逃れようともがく。


「失敗して戻ったら、今度は俺が殺される!」


その声に、別の男が怒鳴った。


「馬鹿言え!!」


そいつも警備員二人に押さえられていた。それでも顔だけをこちらへ向ける。


「おやっさんに拾われて、何言ってやがる!」


「うるせぇ!」


「俺たちは金で成り上がって、俺たちを馬鹿にしやがったクソどもを見返すために、ここまで来たんだろうがよ!」


「俺はそんなの知るか!」


「恩知らずが!」


「俺は金が欲しかっただけだって言ってんだよ!」


怒鳴り声が重なる。


何が正しいのか。誰が何を言っているのか。サーシャには分からなかった。


ただ、同じ組織にいるはずの男たちが、同じ理由でここに来たわけではないことだけは分かった。


やがて警察官がさらに加わり、一人、また一人と男たちは取り押さえられていった。


数分も経っていない。


けれど、サーシャにはずいぶん長く感じられた。


最後の一人にも手錠がかかる。


「……終わった?」


誰に聞くでもなく呟くと、警察官が周囲を確認して頷いた。


「はい。襲撃犯は確保しました」


その言葉に、サーシャはようやく息を吐いた。夫も緊張を解いたように肩を落とす。


襲ってきた人間は捕まった。


警察もいる。


警備員もいる。


だから。


もう終わったのだと。


そう思った。


*


少し離れた場所。


一台の車の中で、助手席の男が小さく舌打ちした。


「四人とも捕まった」


運転席の男は、コスタ夫妻の家を見たまま答えない。


「失敗だ」


「……まだだ」


助手席の男が振り返る。


「警察もいる」


「見れば分かる」


「警護も増えてる」


「それもな」


「それでもやるのか」


運転席の男はようやく助手席を見た。


「命令は変わってない」


それだけだった。


*


「念のため、場所を移します」


警察官に促され、サーシャは頷いた。


「分かりました」


夫が隣へ来る。


「大丈夫か?」


「ええ」


怖くないわけではない。手は少し震えている。


けれど、もう終わった。


そう思っていた。


家を出ると、警察官が周囲を確認していた。民間の警備員もいる。


その向こうには、見慣れた車。


何度も乗った、何の変哲もない自分たちの車。


サーシャは、それを疑わなかった。


疑う理由がなかった。


四十五年間。


そんなことを考えながら生きたことなど、一度もなかった。


夫が先に歩く。


サーシャも、その後を追った。


少し離れた場所で、男が呟く。


「動いた」


助手席の男も前を見る。


次の瞬間。


轟音が住宅街を揺らした。


*


何が起きたのか理解するより先に、身体が地面へ叩きつけられた。


耳鳴り。


焦げた匂い。


誰かの叫び声。


遠くで、何かが割れる音。


サーシャは息を吸おうとして咳き込んだ。


「……っ」


痛い。


肩。腕。頭。


どこが一番痛いのか分からない。


霞んだ視界の向こうに、人影が倒れている。


「……あなた」


声にならない。


もう一度。


「あなた……!」


警察官が走ってくる。


誰かが夫の名前を呼んでいる。


返事がある。


かすかに。


それだけで、サーシャは目を閉じた。


生きている。


それだけは分かった。


*


少し離れた車内で、助手席の男が息を呑んだ。


「……やったな」


運転席の男は表情を変えない。


遠くでは、警察と警備員たちが一斉に動いている。


「死んだか?」


「分からない」


「確認しろ」


短い命令。


それだけ残し、車はゆっくりと動き出した。


*


その頃。


ルカ・モレッティは別室にいた。


自分の会社が付けていた警備員からの報告。警察への説明。また別の警察官から同じ確認。


その内容が一度警察官を経由し、ヴィットリオのいる部屋へ回り、また戻ってくる。


何度目かのやり取りのあと、若い捜査官がぽつりと言った。


「……もう本人を連れてきた方が早くないですか?」


マルコは少し黙ってから、額を押さえた。


「……そうですね」


数分後。


扉が開き、警察官に連れられてルカが入ってきた。


その視線は、部屋を見回すより先にヴィットリオを見つける。


「ボス」


ほんの少し。


顔が明るくなった。


ヴィットリオが眉を寄せる。


「……なんで嬉しそうなんだ、お前」


「別室でずっと事情聴取だったんですよ」


「だから?」


「ボスいるじゃないですか」


「いるけどよ」


「よかった」


「何がだよ!!」


マルコが額を押さえた。


「警察官を挟んで確認を取るたび、話が往復して非効率なので連れてきました」


「最初からそうしてくださいよ」


「あなた方を一緒にすると、話が余計に増えると思ったんです」


「ひどくないですか?」


「現に増えてます」


ヴィットリオがルカを見る。


「お前、俺がいないと仕事できねぇのか」


「できます」


「じゃあ戻れ」


「嫌です」


「即答すんな!!」


その時。


マルコの携帯が鳴った。


短いやり取りだった。


だが、電話を切ったマルコの顔を見て、ヴィットリオの表情が変わる。


ルカも。


笑みを消した。


「何だ」


マルコは一度、言葉を選んだ。


「コスタ夫妻が襲撃されました」


椅子が鳴る。


ヴィットリオが立ち上がった。


「サーシャは」


ほとんど同時に。


もう一つ、声がした。


「サーシャは」


ヴィットリオが横を見る。


ルカも、自分が反射的に名前を出したことに気づいたらしい。


だが、今は取り繕う余裕もなかった。


マルコが答える。


「生きています」


ヴィットリオが息を吐いた。


ルカは何も言わなかった。


ただ、黒い革手袋に包まれた拳が固く握られている。


「ご主人も生存しています」


「……そうか」


ヴィットリオの肩から、わずかに力が抜けた。


それでもマルコの表情は戻らない。


「続きがあるな」


「二人とも病院へ搬送されています」


「警護はどうした」


今度はルカが口を開いた。


「俺のところの人間も付いてたはずだ」


低い声だった。


「付いていました。警護は機能しています。最初の襲撃犯は、警察と警備員で全員確保しました」


ルカの眉が寄る。


「だったら――」


ヴィットリオが続けた。


「なんで娘が病院にいる」


マルコは一拍置いた。


「……車です」


「何?」


「爆発しました」


部屋が静まり返る。


ルカの拳が、さらに強く握られた。


革が軋む。


やがて手袋の縫い目から、赤いものがわずかに滲んだ。


マルコがそれに気づく。


ヴィットリオも。


だが、誰も何も言わなかった。


「……サーシャは」


ヴィットリオが聞く。


「意識はあります」


「旦那は」


「同じく。負傷はしていますが、生存しています」


ルカが俯いた。


「……クソ」


「ルカ」


ヴィットリオが呼ぶ。


「俺がもっと――」


「やめろ」


短い声だった。


ルカが顔を上げる。


「お前の警備がいなきゃ、最初の襲撃で終わってた」


「でも」


「これは俺の勘定だ」


ルカは何も言わなかった。


マルコが続ける。


「襲撃犯が確保された時点で、お嬢さんは危険が去ったと思っていたようです。二次的な危険までは、想定していなかったと」


ヴィットリオがゆっくり顔を上げた。


「……当たり前だ」


マルコが黙る。


「分かるわけねぇだろ。そんなこと考えながら生きる必要のねぇように育てたんだからよ」


誰も何も言わなかった。


*


「母さんは?」


孫の声だった。


さっきまでとはまるで違った。


「病院だ」


ヴィットリオが答える。


「どこ?」


「今は待て」


「なんで」


マルコが割って入る。


「安全確認が先です。病院にも警備を回しています。あなたまで動けば――」


「でも母さんが」


「だからです」


孫は唇を噛んだ。


その時。


少し離れたところで、若い捜査官が電話を取る。


「はい」


数秒。


「○○病院ですね。……四階、四〇七号室。分かりました」


マルコがゆっくり振り返った。


若い捜査官も、自分が今何を言ったのか気づく。


「…………」


「…………」


若い捜査官が口元を押さえた。


「……今の、聞いてませんよね?」


返事はなかった。


孫がいない。


ヴィットリオが辺りを見回す。


「おい」


誰も答えない。


「孫はどこだ」


マルコが窓を見る。


開いていた。


ヴィットリオの顔が引きつる。


数秒。


「あの馬鹿ぁぁぁ!!」


ルカも窓を見る。


「……三階ですよね?」


「だから何だ!」


「いや、あいつなら行けるのかと」


「お前まで納得すんな!!」


*


サーシャが目を覚ました時、最初に聞こえたのは一定の間隔で鳴る電子音だった。


身体が重い。


頭もまだうまく働かない。


目を開けているのに、景色が少し遠い。


少し離れたベッドには夫がいる。怪我をしている。それでも、生きている。


それだけ確認して、サーシャはまた目を閉じかけた。


その時。


コツ。


窓の方から小さな音がした。


「……?」


ゆっくり顔を向ける。


カーテンの向こうに、人影。


ぼんやりした頭のまま視線を落とすと、ベッド脇の表示が目に入った。


四〇七号室。


「…………」


窓を見る。


表示を見る。


もう一度、窓を見る。


その時。


カーテンの隙間から、見慣れた顔が覗いた。


「母さん」


その瞬間。


サーシャの意識が、一気に覚醒した。


「…………は?」


痛みも眠気も、頭の重さも、一瞬だけ全部どこかへ飛んだ。


「なんでそこにいるの!?」


「会いに来た」


「そうじゃなくて!!」


サーシャは表示を指さす。


「四〇七号室よ!?」


「うん」


「ここ四階よ!?」


「うん」


「なんで窓にいるの!?」


「下から来た」


「どこから!?」


「下」


「それは分かってるのよ!!」


病室にサーシャの声が響いた。


だが、次の瞬間。


息子の顔を見て、言葉を止める。


笑っていない。


いつもの、どこか能天気な顔ではない。


息はまだ整っておらず、手もわずかに震えていた。


「……母さん」


もう一度。


今度は小さな声だった。


「死んだかと思った」


サーシャの顔から怒りが消える。


息子が窓を越えてくると、そのまま何も言わずに母親へ抱きついた。


「……よかった」


それだけだった。


サーシャは一瞬だけ目を見開き、やがて怪我をしていない方の腕を息子の背中へ回す。


「……ごめんね」


「なんで母さんが謝るんだよ」


「心配かけたから」


「母さんのせいじゃないだろ」


サーシャは答えなかった。


ただ、息子の背中を子供の頃と同じようにゆっくり撫でる。


いつの間に、こんなに大きくなったのだろう。


こんなところまで、自分一人で来られるほどに。


それでも今、腕の中で震えているのは、昔と同じ自分の息子だった。


「……大丈夫よ」


サーシャは囁いた。


「お母さん、生きてるから」


息子は何も言わなかった。


ただ、抱きしめる腕に少しだけ力が入った。


少し離れたベッドで、夫が目を開ける。


妻と息子が抱き合っている。


「……俺もいるんだけど」


誰も聞いていなかった。


夫はしばらく待った。


「…………」


そして、もう一度目を閉じた。


*


ほどなくして、病室へ警察官が入ってきた。


窓を見る。


孫を見る。


もう一度、窓を見る。


「……どうやって入ったんですか」


「下から」


「それは説明になってません」


「みんな同じこと言うな」


「言いますよ」


警察官は額を押さえた。


「それと、ロマーノさんから電話です」


サーシャの表情が変わる。


怪我をしていない方の手で携帯を受け取り、耳へ当てた。


「……お父さん」


電話の向こうから、短く息を吐く音が聞こえた。


『怪我は』


「大丈夫よ」


『嘘つけ』


サーシャは思わず少し笑う。


「……痛いけど、生きてる」


ヴィットリオが長く息を吐いた。


『旦那は』


サーシャが隣のベッドを見る。


「そこにいる」


夫は元気だと示すように片手を上げた。


「いるよ」


『生きてるか』


「生きてますよ」


『ならいい』


夫の眉がぴくっと動いた。


「扱い雑じゃない?」


サーシャが横目で見る。


「今は黙ってて」


「はい」


その横から孫が携帯へ顔を寄せる。


「父さんも無事でよかった」


夫がゆっくり息子を見る。


「今!?」


電話の向こうからヴィットリオの声が飛んだ。


『お前は後でちゃんと親父に礼言え』


「じいちゃんまで!?」


ほんの少し、病室の空気が緩んだ。


そこでヴィットリオが言った。


『……ルカもいるぞ。話すか?』


「ルカ?」


その名前に、夫の眉間がほんの少しだけ寄る。


サーシャは少し考えてから答えた。


「ううん、今はいいわ。あとで連絡する。でも、心配してくれてるならありがとうって言っておいて」


警察署で、ヴィットリオは横に立つルカを見る。


ルカは何も言わず、小さく頷いた。


ヴィットリオは再び携帯を耳へ戻した。


『相当心配してたぞ』


「もう、あの子も心配症ねぇ」


その言葉を聞いた夫の口元がわずかに歪む。


「……あいつかよ」


サーシャが振り返った。


「何その言い方」


「別に」


その顔を、孫が横から覗き込む。


「なんか父さん、苦い顔してんな」


「してない」


「してるけど」


「してない」


「いや、してるって」


「お前は黙ってろ」


「なんで俺!?」


サーシャは夫を訝しげに見る。


「ほんとに何なの?」


「……なんでもない」


電話の向こうで、ヴィットリオが鼻を鳴らした。


『ほっとけ。昔からだ』


夫が携帯へ向かって眉を寄せる。


「お義父さん、余計なこと言わないでください」


「だから何の話なのよ?」


『お前は知らなくていい』


夫も苦い顔のまま頷く。


「そう。知らなくていい」


「何その結託」


ほんの少し。


ヴィットリオが笑った。


だが、その笑いは長く続かなかった。


サーシャは携帯を握り直す。


「……お父さん」


『なんだ』


「私、分からなかった」


電話の向こうが静かになる。


「襲ってきた人たちが捕まって、警察もいて……もう大丈夫だと思ったの」


ヴィットリオは黙って聞いている。


少し離れたところでは、ルカも何も言わなかった。


「車まで疑うなんて、考えもしなかった」


長い沈黙。


やがて。


ヴィットリオが低く答えた。


『……当たり前だ』


サーシャが少しだけ眉を寄せる。


「え?」


『分かるわけねぇだろ』


声は怒鳴ってはいなかった。


むしろ静かだった。


『そんなこと考えながら生きる必要のねぇように育てたんだからよ』


サーシャの目が揺れた。


ずっと昔。


まだ幼かった頃。


夜。


廊下の向こうから聞こえた父と母の声。


『サーシャには、そうなってほしくねぇ』


『強いから大丈夫なんて理由で、俺の都合に巻き込みたくねぇんだよ』


そして、母が聞いた。


『じゃあ、あの子が危ない目に遭わないように、あなたが守るの?』


父は迷わず答えた。


『ああ』


『俺が守る』


あれは、その場限りの言葉ではなかった。


学校へ行った。


友人を作った。


恋をした。


結婚した。


子供を産んだ。


危険を疑わず。


後ろを振り返らず。


車に乗る前に何かを確認することもなく。


四十五年間。


普通に生きてきた。


「……ずっと」


サーシャの声が震えた。


「ずっと守ってくれてたのね。四十五年間」


しばらくして。


ヴィットリオの返事が来た。


『……四十五年しか守れなかった』


サーシャはゆっくり首を振った。


「違うわ」


電話の向こうが静かになる。


「四十五年も、よ」


誰も口を挟まなかった。


「ありがとう」


ヴィットリオはすぐには答えなかった。


やがて、小さく。


『……ああ』


それだけだった。


*


通話が終わったあと。


サーシャは息子を見る。


「今日は帰りなさい」


「でも」


「大丈夫よ」


「母さん」


「警察もいる。警備もいる」


息子は黙る。


サーシャは少しだけ笑った。


「それに、おじいちゃんにも顔を見せてきなさい」


「……うん」


「今日は正面から帰るのよ」


息子が一瞬黙った。


「…………」


「返事」


「はい」


夫がベッドから言う。


「俺の見舞いもまた来てくれよ」


息子が振り返る。


「もちろん」


「今度は入口からな」


「分かったって」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは絶対って言え」


サーシャが額を押さえる。


「……誰に似たのかしら」


夫がゆっくり目を逸らした。


サーシャが見る。


「…………」


「…………」


「あなた?」


「なんで俺を見るんだよ」


「なんとなく」


「理不尽じゃない?」


息子が二人を見比べる。


「じゃあ俺、父さん似?」


「今そこ喜ぶところじゃないわよ」


「え?」


サーシャは深く息を吐いた。


父にも。


夫にも。


息子にも。


どうやら一生、ツッコんで生きることになりそうだった。


*


警察署。


サーシャとの通話を終えたヴィットリオは、しばらく携帯を見ていた。


誰も声をかけなかった。


マルコも。


若い捜査官も。


ルカも。


ヴィットリオがふと横を見る。


ルカの革手袋には、まだ乾きかけた赤い跡が残っていた。


「……ルカ」


「はい」


「手」


ルカが自分の手を見る。


「あ」


「馬鹿野郎」


「すみません」


「俺に謝ってどうすんだ」


「じゃあ誰に」


「知らねぇよ」


マルコが小さく息を吐いた。


「救急箱を持ってきます」


「すみません」


ヴィットリオはもう一度だけルカの手を見る。


それ以上は何も言わなかった。


やがて携帯を机へ置く。


「マルコ」


「はい」


「警護を増やせ」


「すでに手配しています」


「娘も」


「はい」


「婿も」


「はい」


「孫もだ」


「もちろんです」


ヴィットリオは頷いた。


だが、それだけでは終わらなかった。


「……それでも足りねぇ」


マルコが見る。


ヴィットリオはゆっくり椅子へ座った。


「俺がいなくなった途端に動いた」


誰に言うでもなく呟く。


「嫁に手ぇ出して、娘に手ぇ出して、孫まで狙った」


拳が静かに握られる。


「全部、俺のせいだ」


ルカが顔を上げた。


マルコが何か言おうとする。


だが、ヴィットリオが先に続けた。


「俺が始めた世界だ」


一度。


言葉を切る。


「俺の昔の勘定を――あいつらに払わせる気はねぇ」


顔を上げる。


その目は、家族を心配する父親のものではなかった。


四十年以上、裏側で生きてきた男の目だった。


「俺がケジメつける」

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