第4話 守ってきたもの
「これは独り言なんですが」
取調室で、マルコが資料を見ながら言った。
ヴィットリオは椅子に深く座ったまま、目だけを向ける。
「なら勝手に喋ってろ」
「そうします」
マルコは淡々と続けた。
「あなたが逮捕された後、活動を再開したと思われる組織の目撃情報が増えています」
ヴィットリオの表情は変わらない。
「構成員と思われる人間には、特徴的な刺青がある」
マルコは資料へ目を落とした。
「手首を一周する、荒れた潮のような意匠。その波間に、四本の牙がある」
その瞬間。
ヴィットリオの目が止まった。
四十二年前。
夜道。
銃声。
腹を焼くような痛み。
崩れ落ちた自分を見下ろしていた男。
その腕にあったものと――同じ印。
「我々は《灰潮》と呼んでいます」
「……アイツらか」
マルコが顔を上げた。
「心当たりがあるようですね」
「独り言じゃなかったのか?」
「ええ。ですから返事は求めていません」
「性格悪ぃな、お前」
「昨日一日で鍛えられました」
ヴィットリオは鼻を鳴らした。
「四十二年前、この街に麻薬を持ち込もうとした連中だ」
「あなたを撃った?」
「ああ」
ヴィットリオの声から、軽さが消える。
「潰したはずなんだがな」
「同じ組織だと?」
「知らねぇよ。生き残りか、そのガキどもか。名前だけ継いだ別物かもしれねぇ」
少しの沈黙。
ヴィットリオは椅子の背にもたれた。
「……待ってやがったのか」
「何をです?」
「俺がいなくなるのをだよ」
その言葉に、マルコは答えなかった。
ヴィットリオ・ロマーノ。
四十年以上、この街の裏側に居座り続けた男。
彼が消えた。
それだけで動き始める者がいる。
ヴィットリオは舌打ちした。
そして、ふと眉を寄せる。
「……待て。あいつはどうした」
「誰です?」
「ルカだ。ルカ・モレッティ」
ヴィットリオが身を起こした。
「あいつがいたら、そもそもこんな事態になってねぇはずだろ」
「モレッティさん?」
「今は情報とセキュリティの会社やってんだぞ。俺が捕まった途端、見覚えのねぇ連中が街を嗅ぎ回ってる。それをルカが見落とすか?」
マルコは資料を確認した。
「一応、ご家族には警護がついています」
「あ?」
「モレッティさんの会社の人間が。あなたの逮捕直後から、目立たないように」
「……そこまではやったのか」
ヴィットリオの眉間の皺が、ほんの少しだけ緩んだ。
「で、本人は?」
マルコが黙った。
「おい」
「ここにいます」
「…………は?」
「あなたが逮捕されたと聞いて、自分から来ました」
ヴィットリオが固まった。
「何しに?」
「本人いわく」
マルコは一度、資料へ目を落とした。
「『ボスのいない世界は無理です』と」
「…………」
ヴィットリオは両手で顔を覆った。
「……あの馬鹿」
「帰るようには伝えました」
「帰ったのか?」
「帰りませんでした」
「そこまで頭回ってんなら本人も残れや!!」
机が揺れた。
「家族に警護つけて満足してんじゃねぇ! あいつが外にいりゃ警護だけで終わってねぇ! こんな連中、街に入り込んだ時点で気づいてる!」
若い捜査官が恐る恐る口を挟む。
「そんなに優秀なんですか?」
「人と金と情報を見ることに関しちゃ、俺より上だ」
「昔からですか?」
「まさか」
ヴィットリオは吐き捨てた。
「拾った頃は、気に入らねぇことがありゃ全部拳で解決しようとするガキだったよ」
マルコが別の資料を開いた。
「ルカ・モレッティ、三十八歳。現在は情報、マーケティング、セキュリティ事業を扱う会社を経営。成人後の犯罪歴はなし」
ページをめくる。
「ただし、少年時代の警察との接触記録は多数。喧嘩、暴力沙汰、一部器物損壊――」
若い捜査官が顔を上げる。
「多いですね」
「ええ」
マルコは記録を追った。
「ですが、ある時期を境に急激に減っています」
ヴィットリオは嫌そうな顔をした。
マルコが彼を見る。
「あなたと知り合った頃ですね」
「…………」
「マフィアのボスと知り合って素行が改善する少年、初めて見ました」
「俺もだよ」
若い捜査官が首を傾げた。
「その後、組織に入れたんですか?」
「入れてねぇよ」
ヴィットリオは即答した。
「あいつには違法な仕事はさせてねぇ」
「でも、右腕と呼ばれていたという話も」
「俺の横にいたから周りが勝手にそう呼んでただけだ。側に置くのと犯罪やらせるのは別だろ」
ヴィットリオは鼻を鳴らす。
「あいつには表で食えるようにさせた」
「その会社も?」
「ああ」
ヴィットリオは腕を組んだ。
「食う場所を取り上げて『今日から真面目に生きろ』で済むなら苦労しねぇんだよ」
部屋が静かになる。
「働く場所を用意して、給料払って、表で生きられるようにしてから放り出す」
「……組織の若い人間を?」
「使える奴はな。警備でも営業でも事務でも、向いてるところに回しゃいい」
ヴィットリオは視線を逸らした。
「俺が死んだ途端、食えなくなったガキどもが街で暴れ始めたら――それまで俺の後始末になるだろうが」
マルコは少しの間、ヴィットリオを見た。
だが本人はすぐに顔をしかめた。
「なのになんで俺について来てんだ、あの馬鹿!!」
「帰るようには伝えました」
「三十八だぞあいつ!!」
「年齢は確認しています」
「確認してんじゃねぇ!!」
マルコは資料を閉じた。目の前の男には言わないが、ルカという大男が駄々をこねる様は目の毒だった。
「それと、奥様の件ですが」
ヴィットリオの表情が変わった。
「怪我は」
「ありません」
その返答に、ヴィットリオの肩からわずかに力が抜ける。
「ただ……襲撃犯の一人が病院へ運ばれています」
「……は?」
「鼻骨骨折。前歯二本。それと肋骨にもひびが」
「誰にやられた」
「奥様です」
「…………」
ヴィットリオは数秒黙った。
「……馬鹿だな」
「奥様が?」
「襲った奴がだ」
その時。
廊下が騒がしくなった。
「待て! まだ入るな!」
「なんじゃ、ヴィットリオに用があるだけじゃ!」
聞き覚えのありすぎる声。
ヴィットリオが天井を仰いだ。
「……なんで来た」
扉が開く。
「ヴィットリオ!」
ジュゼッペだった。
「時計の話じゃが――」
「帰れ!!」
「まだ何も言っとらんじゃろ!」
「時計って言っただろうが!!」
「話くらい聞け!」
「嫌だ!」
「相変わらずケチじゃのぉ!」
マルコが静かに口を挟んだ。
「ベッリーニさん」
「なんじゃ」
「今、奥様が襲撃された件について話していました」
ジュゼッペの顔から笑いが消えた。
「……怪我は?」
「ありません」
「そうか」
短い返事。
そして。
「なら、襲った方が怪我したじゃろ」
マルコが瞬きをした。
「なぜ分かるんです?」
「あの人ならやる」
ヴィットリオがため息をついた。
ジュゼッペは頷く。
「わしも昔ボコられた」
「お前は自業自得だろ」
「何がじゃ!」
「四十二年前、俺の治療代を取りに行った時のこと忘れたのか!」
ジュゼッペが胸を張る。
「ちゃんと説明したぞ」
「なんて?」
「『旦那は知り合いの家に預けてある。金が必要だ』」
「誘拐犯じゃねぇか!!」
「全部本当じゃろ!」
「言い方の問題だ!!」
マルコが額を押さえた。
「それで殴られたんですか?」
「二発じゃ」
「二発で済んだのが奇跡だよ」
「ちゃんと後で謝ったわ!」
「誰が?」
「わしがじゃ!」
「そこは偉いな」
「じゃろ?」
「褒めてねぇ」
マルコが手元の報告書を見る。
「ちなみに今回の襲撃犯は、鼻骨骨折、前歯二本、肋骨にもひびが」
ジュゼッペが止まった。
「…………」
「どうしました?」
「……わし、手加減されとったんか?」
ヴィットリオが即答した。
「今さら気づいたのか」
「なんでじゃ」
「あん時のお前、小枝みてぇにひょろっひょろだっただろ」
「お前を担いで医者まで運んだ若造じゃぞ!!」
「途中で死にそうな顔してただろ」
「お前が重かったんじゃ!!」
マルコが淡々と言った。
「奥様の判断は正しかったようですね」
「どっちの意味じゃ!?」
「両方です」
「お前、だんだんヴィットリオに似てきとらんか!?」
「それは非常に不本意です」
「俺もだ!!」
マルコは咳払いした。
「ちなみに、今回奥様が応戦に使ったのは日傘です」
ジュゼッペが止まった。
「日傘?」
「はい。襲撃犯が最初に壊したようですが、その後、奥様が破損した日傘を使って相手を制圧したと」
「…………」
ジュゼッペの眉が寄る。
「どんな日傘じゃ」
「黒い生地に刺繍。装飾としてダイヤモンドが一石」
「…………待て」
ジュゼッペの顔色が変わった。
「わしが仕立てたやつじゃないじゃろうな」
マルコが顔を上げた。
「あなたが?」
「布の方じゃ。ヴィットリオが昔、嫁さんに贈る言うて頼みに来たんじゃ」
ヴィットリオが付け足す。
「刺繍もこいつだ」
「そうじゃ」
「では、傘そのものもベッリーニさんが?」
「骨まで作れるか。そこは傘屋じゃ」
「ダイヤモンドは?」
「石屋じゃ」
「生地は?」
ヴィットリオが答えた。
「俺が選んだ」
「刺繍の図案は?」
ジュゼッペがヴィットリオを指した。
「最初はこいつ」
「最初は、ってなんだ」
「三回直した」
「二回だ!」
「最後の一回はわしが勝手に直したから、お前が知らんだけじゃ」
「それ三回って言わねぇだろ!」
マルコは一度整理するように頷いた。
「つまり、ロマーノさんが生地を選び、ベッリーニさんが布部分の仕立てと刺繍。骨組みは専門の傘職人。宝石は宝石商」
「そういうことじゃ」
「ずいぶん手の込んだ贈り物ですね」
ヴィットリオは当然のように言った。
「嫁にやるもんだからな」
ジュゼッペがマルコへ詰め寄った。
「刺繍は?」
「一部損傷しています」
「骨は?」
「破損」
「ダイヤは?」
「見た限りでは欠けていないそうです」
「見ただけじゃ分からん。石屋に回せ。衝撃受けとるなら留めも見てもらわんと」
マルコが少し驚く。
「あなたが見るのでは?」
「わしは石屋じゃない」
「……なるほど」
「刺繍はわしが直す。骨は作った傘屋に回せ」
ヴィットリオが横から言った。
「勝手に修理の段取り組むな」
「壊れたままにする気か?」
「直すよ!」
「ならええじゃろ」
ジュゼッペはため息をついた。
「まったく……そういう用途で仕立てたんじゃないんじゃが」
「俺だってそういう用途で贈ってねぇよ」
「お前の嫁さんじゃぞ」
「だからって最初から武器になる前提で日傘贈る奴がいるか!!」
マルコが報告書を見た。
「結果としては、十分な強度だったようですね」
「褒めるところそこじゃねぇわ!!」
ジュゼッペが即座に訂正した。
「わしの仕事じゃないぞ。骨は傘屋じゃ」
「そこだけ冷静になるな!!」
笑いが落ち着いたところで。
マルコの表情が戻った。
「ご家族の警護は増員します」
ヴィットリオも、すぐに真顔になった。
そして。
何かに気づいたように動きを止める。
「……待て」
「どうしました?」
「あの馬鹿、俺の名前使って女口説いてたよな」
ジュゼッペが頷く。
「使っとったな。うちの孫に」
ヴィットリオの眉間に皺が寄る。
「自分の名前まで名乗ってたか?」
「……いや」
ジュゼッペは少し考えた。
「自分の名前、名乗り忘れとったらしいぞ。お前の名前は名乗ったのに」
「…………」
沈黙。
ヴィットリオは額へ手を伸ばした。
だが途中で、その手が止まった。
ほんのわずか。
肩の力が抜ける。
マルコはそれを見逃さなかった。
「……それは、幸いでしたね」
「何一つ幸いな気がしねぇんだが」
「少なくとも、本人の名前までは広まっていない可能性がある」
ヴィットリオは考え込む。
「顔と名前が結びついてねぇなら……まだマシか」
ジュゼッペが頷いた。
「ただの『ヴィットリオ・ロマーノの孫を名乗る胡散臭い若造』じゃな」
「俺の孫だよ!!」
ヴィットリオは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
深く息を吐く。
「……初めてだ」
「何がじゃ?」
ヴィットリオは片手で目を覆った。
「あいつの馬鹿さ加減に感謝したのは」
「馬鹿で良かったのぉ」
「良くはねぇよ」
ほんの一瞬。
ヴィットリオの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
だが。
すぐに消えた。
「……いや、待て」
身体を起こす。
その目が再び、裏社会で四十年以上生きてきた男のものへ戻る。
「名前が割れてねぇだけだ。あいつが俺の名前を使って歩いてた事実は変わらねぇ」
マルコも頷いた。
「どういう意味です?」
若い捜査官が尋ねた。
ヴィットリオが答える。
「俺には息子がいねぇ。娘はこっちの世界から遠ざけた」
指先が机を叩く。
「そんな俺の名前を、成人した男孫が自分から名乗って歩いてる」
マルコが続けた。
「……後継者と見られる可能性がある」
「だからまずいんだよ」
ジュゼッペが呆れた顔をする。
「本人は女にモテたかっただけじゃぞ」
「敵がそんな事情知るか!!」
ヴィットリオが立ち上がった。
「孫はどこだ」
「所在を確認します」
「確認じゃねぇ」
声が低くなる。
「保護しろ」
マルコは即座に扉を開けた。
「お孫さんの携帯へ連絡。自宅、大学、勤務先、立ち寄り先も――」
「待て」
ヴィットリオが遮った。
「ルカの会社だ」
マルコが振り返る。
「あいつが最初から家族に警護をつけてたなら、孫にも誰かつけてるはずだ」
「……なるほど」
「そいつに聞け。今どこにいる」
マルコが若い捜査官を見る。
「モレッティさんの会社へ連絡。お孫さんの警護担当から現在地を確認してください」
「はい!」
若い捜査官が廊下へ駆けていく。
ヴィットリオは舌打ちした。
「ルカ本人がここにいやがるせいで、いちいち会社通さなきゃならねぇじゃねぇか……」
「本人を呼びますか?」
「呼べ!! 何のためにここにいるんだ、あの馬鹿!!」
ほどなくして。
若い捜査官が、なんとも言えない顔で戻ってきた。
「警護担当と連絡が取れました」
ヴィットリオが身を乗り出す。
「どこにいる」
「……現在地は不明です」
「は?」
「途中で見失ったそうです」
「…………」
ヴィットリオの眉間に深い皺が寄った。
「警護のプロが、二十二歳のガキを?」
「はい」
「警護に気づかれたのか?」
「いえ。それが……本人は警護に気づいていなかったようです」
「じゃあ、なんで見失うんだよ」
若い捜査官が、受け取った報告をもう一度確認した。
「突然、建物を登り始めたそうです」
「…………は?」
「追いかけようとした時には、もう二階まで登っていたと」
「…………」
ジュゼッペが瞬きをした。
「二階?」
「はい」
「階段で?」
「いえ」
「…………」
「そのまま屋根へ上がって、隣の建物へ飛び移ったそうです」
取調室が静まり返った。
マルコが尋ねる。
「警護担当は?」
「追跡を試みたそうです」
「それで?」
「自分が二階へ上がる方法を探している間に、対象はさらに先の屋根へ移動していたそうで」
「…………」
「その後も追ったそうですが、あっという間に引き離され、見失ったと」
長い沈黙が落ちた。
ジュゼッペがゆっくりヴィットリオを見る。
「……お前の孫、何しとるんじゃ?」
「俺が聞きてぇよ!!」
マルコが若い捜査官を見る。
「何者かから逃げていた可能性は?」
「ないそうです」
「では、なぜ建物へ?」
「警護担当も、それが分からないと」
「…………」
ヴィットリオが額を押さえた。
「あの馬鹿……」
ジュゼッペは少し考えたあと、感心したように頷いた。
「元気じゃのぉ」
「だから感心してる場合か!!」
その時。
廊下から別の声が飛んだ。
「ご両親の所在、確認できました!」
マルコが振り返る。
「どこです?」
「自宅です。警護も継続中です!」
「人数を増やしてください。警察からも人を回します」
「はい!」
そのやり取りを聞いていたジュゼッペが、ふとヴィットリオを見る。
「そういや、あの孫はどっちの子なんじゃ?」
「あ?」
「息子か娘がおるんじゃろ。そこまで聞いとらんかった」
「ああ」
ヴィットリオは何でもないことのように答えた。
「娘だよ」
「娘か」
ジュゼッペは頷き――
何かに気づいた。
「……待て」
「なんだ」
「娘、今いくつじゃ」
「四十五」
「…………」
ジュゼッペの顔から、ゆっくり表情が消えた。
「お前を拾った時は?」
ヴィットリオは即答した。
「三歳」
「三歳!?」
「ああ」
「お前、あの時二十六じゃったろ!」
「そうだよ」
ジュゼッペは目を見開いた。
「じゃあ、あの夜も――」
ヴィットリオは短く答えた。
「家で俺を待ってた」
ジュゼッペが黙った。
四十二年前。
道端で拾った、血まみれの二十六歳。
懐中のペンダントには、若い女の写真が入っていた。
あの時。
自分とほとんど歳の変わらない男には、すでに三歳の娘がいた。
帰ってこない父親を、家で待っていた。
「……それは知らんかった」
「言ってねぇからな」
「いや、普通あの状況で言わんじゃろうが……」
「だろ?」
廊下から、また声が飛ぶ。
「コスタ夫妻の自宅へ警察官を向かわせます!」
「モレッティさんの会社にも警護強化を要請!」
ジュゼッペは、慌ただしく動き始めた捜査官たちを見た。
「で、その娘も狙われとるかもしれんのか」
ヴィットリオの表情が険しくなった。
「ああ」
「お前の嫁さんがあれなら、娘も相当強いんじゃないか?」
「違う」
返事は早かった。
「俺の女は四十年以上、俺の隣で修羅場をくぐってきた」
危ない時にどう動くか。
逃げるべき時。
何かがおかしい時に、何を見るべきか。
それを知っている。
「だがサーシャは違う」
「護身術くらいは?」
「やらせなかった」
ジュゼッペが意外そうにヴィットリオを見る。
「お前が?」
「ああ」
「なんでじゃ」
ヴィットリオは少し黙った。
「……強くなったら、俺が甘えるからだよ」
「お前が?」
「ああ」
ヴィットリオは椅子の背に身体を預けた。
「こいつなら大丈夫だ。自分で身を守れる。危ねぇ場所でも逃げられる――そう思ったら、俺はきっと、自分の都合であいつをこっち側に近づける」
ジュゼッペは何も言わなかった。
「だから教えなかった」
戦い方も。
銃声を聞いた時の動き方も。
後ろを確認しながら歩く癖も。
「そういうもんと無縁でいられるように育てたんだ」
娘は成長した。
学校へ行き。
恋をして。
結婚して。
サーシャ・コスタになった。
子供を産んだ。
その子供も、今では二十二歳になった。
「俺が何をやってるかなんて、知らなくてよかった」
それでいいと思っていた。
自分の世界はこちら側だけで終わればいい。
娘も。
その夫も。
孫も。
こちら側へ来る必要などない。
「俺が始めたことだ」
ヴィットリオは呟いた。
「俺の昔の勘定を――」
一度、言葉が止まる。
「……あいつらに払わせたくねぇ」
それは命令ではなかった。
誰かに何かをさせるための言葉でもない。
ただの願いだった。
ジュゼッペは何も言わなかった。
しばらくヴィットリオの横顔を見ていたが、やがて立ち上がる。
「……じゃあ、わしは帰るかの」
ヴィットリオが怪訝な顔をした。
「今日はやけに素直だな」
「帰れ言うたのはお前じゃろ」
「時計は?」
「また今度でええ」
「二度と来るな」
「遺産の話もあるしの」
「帰れ!!」
ジュゼッペはひらひらと手を振り、取調室を出ていった。
扉が閉まる。
マルコがそれを見つめた。
「……本当に帰りましたね」
「珍しいな」
廊下を歩きながら、ジュゼッペは一人で考えていた。
嫁が襲われた。
娘も狙われているかもしれない。
そして。
敵がヴィットリオの孫の存在を知っている可能性がある。
名前までは割れていない。
顔と名前も、まだ結びついていない。
それでも。
狙われる理由はある。
ジュゼッペの足が止まった。
「……孫か」
数秒だけ立ち止まり。
何事もなかったように、また歩き始めた。
*
その頃。
サーシャ・コスタの家には、すでに警察官が到着していた。
「念のため、今夜は外出を控えてください」
「はい……」
玄関先で説明を受けながら、サーシャは携帯電話を握っていた。
家の前には警察車両。
警察官が家の周囲を確認し、別の者が無線で何かを話している。
それとは別に。
少し離れた場所には、ルカ・モレッティの会社から派遣された警備員たちが配置されていた。
目立つ警察。
目立たない民間警備。
ヴィットリオの一言をきっかけに、それまで点だった警戒網が急速に形を作り始めていた。
だが。
サーシャが一番気にしていたのは、自分のことではなかった。
「……息子とは連絡が取れたんですか?」
警察官が答える。
「現在、捜しています。警護担当も途中まで所在を確認していたのですが……」
警察官が、わずかに言葉を選んだ。
「途中で、見失ったそうです」
「見失った?」
「……はい」
「どうして?」
「建物を登って、屋根伝いに移動されたそうで」
「…………」
サーシャは目を閉じた。
「……あの子」
驚いていない。
警察官の方が驚いた。
「心当たりが?」
「あります……」
深いため息。
「昔からそういう子なんです」
それからサーシャは、もう一度息子へ電話をかけた。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
「もう……」
留守番電話に切り替わる。
「お母さんよ。これ聞いたら、すぐ電話して。今どこにいるの?」
通話を切る。
画面を見る。
何も来ない。
「何してるのよ、あの子……」
夫が隣から声をかけた。
「大丈夫だよ。携帯見てないだけだろ」
「いつも見てないから心配なのよ」
「……それもそうだな」
「絶対、何も知らずにどこかで遊んでるわ」
「その方がいいさ」
「そうだけど……」
窓の外で、また警察官が走った。
無線の声がする。
見慣れた自宅の前を、知らない人間たちが慌ただしく行き交っている。
サーシャはカーテンへ手を伸ばした。
その時。
ずっと昔の記憶が、不意に蘇った。
――まだ、自分が幼かった頃。
夜。
眠れずに部屋を出たサーシャは、両親が話している声を聞いたことがある。
『あの子にも、少しくらい教えておいた方がいいんじゃない?』
母の声だった。
『何をだ』
『自分の身を守る方法よ。私みたいに』
少しの沈黙。
それから、父の声。
『……だから嫌なんだよ』
『どうして?』
『お前は強い』
『褒めてる?』
『褒めてるよ』
母が笑った。
幼いサーシャは、意味も分からず廊下で聞いていた。
だが。
父は笑わなかった。
『お前なら大丈夫だって、俺が思っちまう』
母の笑い声が止まった。
『危ねぇ場所でも、お前なら逃げられる。襲われても、お前なら何とかする。そう思えるから――』
父は少し黙った。
『俺は、お前を俺の世界に近づけちまった』
『あなた……』
『サーシャには、そうなってほしくねぇ』
低い声だった。
『強いから大丈夫なんて理由で、俺の都合に巻き込みたくねぇんだよ』
しばらくして。
母が静かに尋ねた。
『じゃあ、あの子が危ない目に遭わないように、あなたが守るの?』
父は答えた。
『ああ』
迷いのない声だった。
『俺が守る』
――遠い昔の記憶。
サーシャは、カーテンに触れたまま動かなかった。
あの頃は、何の話をしているのか分からなかった。
ただ。
父が自分のことを話している。
それだけが嬉しかった。
今なら分かる。
四十五年間。
自分は銃を向けられたことがない。
撃たれた人間を見たこともない。
後ろを気にしながら道を歩いたこともない。
危険が潜んでいるかもしれないと、身の回りのものを疑ったこともない。
学校へ行った。
友人を作った。
恋をした。
結婚した。
子供を産んだ。
それを、当たり前の人生だと思っていた。
けれど。
あの夜、幼い自分が聞いた約束は。
四十五年間――守られていたのだ。
サーシャは静かにカーテンを閉じた。
外には警察がいる。
父が信頼しているルカの会社からも、人が来ている。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも。
「……信じてるわ、お父さん」
小さく呟いた。
そして、手の中の携帯を見る。
「だからお願い……」
もう一度、息子へ電話をかける。
「早くあの子を見つけて」
自分のことより。
今は、電話にも出ない息子の方が怖かった。
夫がそっとサーシャの肩を抱いた。
「連絡が来たら、ここには来るなって言おう」
「ええ」
サーシャは頷いた。
少し考えてから、夫を見る。
「……でも、あの子、来るわよね」
「来るだろうな」
「絶対来るわ」
困ったように。
それでも、ほんの少しだけ母親らしく笑った。
「そういう子だもの」
*
一台の車が、コスタ夫妻の家の前をゆっくりと通り過ぎた。
警察官の一人が視線を向ける。
車は止まらない。
そのまま角を曲がり、姿を消した。
だが。
少し離れた場所で、車は静かに止まった。
運転席の男が携帯電話を取り出す。
その視線の先には、サーシャ・コスタ夫妻の家。
警察車両。
配置についた警察官。
そして。
彼らとは別に動いている、ルカの会社の警備員。
男はそれらをしばらく眺めた。
やがて、誰かに電話をかける。
腕を上げた拍子に。
袖口が、わずかにずれた。
その下から。
荒れた潮が覗く。
手首を一周する黒い波。
その波間に――四本の牙。
電話が繋がる。
「警察がいる」
短い返事が返ってくる。
「警護も増えてる」
男は黙って、電話の向こうの言葉を聞いた。
「……分かった」
通話が切れる。
助手席の男が尋ねた。
「どうする」
運転席の男は携帯をしまった。
「……やることは変わらねぇ」
「上からのお達しだ」
「なんて?」
男は、遠くに見えるコスタ夫妻の家へ目を向けた。
「あの男に関わる奴は――」
「全員殺せ」
刺青は“シチリアの潮を汚す者”または“シチリアに牙を剥く者”という意味を込め、ヴィットリオの領域を荒らす組織として設定しています。『灰潮』も同様に、その性質から警察側が便宜的に呼称している名称です。




