第3話 すべての始まりは、だいたい迷惑
少しシリアスになります
ヴィットリオ・ロマーノが逮捕されて、二日。
若い捜査官が、ふと思い出したように言った。
「俺、逮捕の時は銃撃戦になると思ってたんですよ」
マルコが書類から顔を上げた。
「物騒なことを言うな」
「いや、でもヴィットリオ・ロマーノですよ?」
四十年以上、街の裏側に君臨してきた男だ。
逮捕当日、警察は当然ながら抵抗の可能性も想定していた。
逃走。
籠城。
部下による妨害。
最悪の場合、銃撃戦さえ。
ところがヴィットリオは逃げなかった。
抵抗もしなかった。
部下を動かすこともなく、拍子抜けするほど静かに手錠を受け入れた。
「もっと抵抗するかと思ってました」
若い捜査官が本人へ視線を向ける。
「怖くなかったんですか?」
「何がだ」
「銃も向けられてましたよね」
ヴィットリオは一度だけ男を見た。
「銃を向けられたくらいで毎回怯えてたら、俺は二十代で死んでる」
「……二十代、ですか」
ヴィットリオは答えなかった。
二十代。
銃。
死ぬ。
その三つが並ぶと、嫌でも思い出す夜がある。
四十二年前。
ヴィットリオ・ロマーノ、二十六歳。
ジュゼッペ・ベッリーニ、二十八歳。
二人はまだ、友人ですらなかった。
*
夜も深くなった頃。
ジュゼッペは一人、家路を歩いていた。
大通りを外れ、近道になる裏通りへ入る。
そこで足が止まった。
男が倒れていた。
石畳の上に身体を投げ出し、壁際に転がっている。
服は裂け、血と汚れにまみれていた。
ひどい有様だった。
ボロ雑巾。
最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。
だが、そのボロ雑巾には妙に似つかわしくないものがついている。
袖口から覗く腕時計。
指輪。
胸元に覗く装飾品。
どれも、この男の現在の姿とは反比例するように煌びやかだった。
(……随分いい時計だな)
まず、そこに目がいった。
(あの指輪も高そうだな)
次に、そこへいった。
(…………)
ジュゼッペは倒れている男を見た。
(いや、人だ。先に人を見ろ、俺)
元スリの習性というものは、そう簡単には抜けない。
周囲を見回す。
誰もいない。
嫌な予感しかしなかった。
こういうものには関わらない方がいい。
二十八年も生きていれば、それくらいは分かる。
分かるのだが。
(死んでるのか?)
そのまま立ち去るには、少しばかり寝覚めが悪い。
ジュゼッペは男のそばにしゃがみ込んだ。
呼吸を確かめる。
弱い。
だが、生きている。
「……おい」
返事はない。
身元が分かるものはないか。
胸元に見えていたのは、ロケットペンダントだった。
(これも結構――)
違う。
今は値踏みをしている場合ではない。
(身元だ。身元を調べてるんだ)
自分に言い聞かせながら、ロケットを手に取った。
カチャ。
小さな音とともに蓋が開く。
名前は見当たらない。
代わりに収められていたのは、一枚の写真だった。
若い女。
(女か。恋人……いや、嫁か?)
その瞬間。
手首を掴まれた。
ジュゼッペの身体が止まる。
「――それに触るな」
掠れた声だった。
視線を上げる。
閉じていたはずの男の目が、こちらを見ていた。
身体はまともに動かない。
呼吸も浅い。
それでも、その目だけは鋭かった。
「……なぜ開けた」
「名前が刻まれてないか確認しただけだ」
沈黙。
男の視線が、開いたロケットへ落ちる。
「閉じろ」
「分かった」
ジュゼッペは静かに蓋を閉じた。
手首を掴んでいた指から、少しずつ力が抜けていく。
それでも離す直前、男は低く言った。
「……殺すぞ」
ジュゼッペは何も言わなかった。
(怖っ)
まず、そう思った。
次に。
(この状態で?)
と思った。
そして最後に。
(……時計は諦めた方がよさそうだな)
そう思った。
少なくとも、この男は冗談で言っている目をしていなかった。
ジュゼッペは改めて男を見る。
撃たれている。
しかも一発ではない。
このまま放っておけば、朝を見ることはないだろう。
「立てるか」
「……無理だ」
「そうか」
ジュゼッペは立ち上がった。
そして、深く息を吐いた。
非常に面倒なものを拾ってしまった。
警察を呼ぶ。
普通なら、それが正解なのだろう。
だが、この男はどう見ても普通の事情で撃たれた人間ではない。
それに――。
「……最近、ガキが生まれてさ」
男がわずかに目を動かした。
「ここであんたを見殺しにしたら、帰ってあいつの顔見られねぇよ」
ジュゼッペはもう一度ため息をついた。
父親になったからといって、急に立派な人間になれるわけではない。
それでも、少しくらいはまともに生きなければならない気がしていた。
少なくとも、人が死にかけている横を素通りする父親にはなりたくない。
「知り合いに医者がいる。もう引退してる爺さんだけどな」
「……病院じゃないのか」
「病院がいいなら連れていく」
男は黙った。
それだけで十分だった。
「分かった。爺さんのところに行こう」
ジュゼッペは男の腕を自分の肩へ回した。
「歩けるか」
「……やる」
身体を持ち上げる。
重い。
(重っ)
想像していたより、ずっと重い。
(時計だけなら軽いのに)
一瞬そんなことを考えた。
(いや、だから助けるんだって)
自分で自分に突っ込みながら、どうにか男を立たせる。
「行くぞ」
数歩進んだところで、ジュゼッペは口を開いた。
「ただし」
男が薄く目を開ける。
「助かったら、なんか奢ってくれよ」
「……何が欲しい」
ジュゼッペは考えた。
時計。
指輪。
酒。
飯。
(……待てよ)
人ひとりの命だ。
今、自分はこの男の命を助けようとしている。
それを時計一本で手を打っていいのか。
(いや、よくないな)
何がよくないのかは、自分でもよく分からない。
だが、ジュゼッペの中ではそういう結論になった。
「家とか」
男の足が、わずかに止まった。
「……家?」
「家賃高いんだよ。ガキも生まれたし」
返事はなかった。
もちろん、冗談だった。
半分くらいは。
まさか本当に家を寄越す人間がいるとは、この時のジュゼッペは思っていなかった。
*
「また厄介なのを拾ってきたね」
老人は、ジュゼッペが担いできた男を見るなりそう言った。
引退してから何年も経つ元医者だった。
「まだ生きてる」
「見れば分かるよ。そこに寝かせな」
ジュゼッペは言われた通りに男を寝かせる。
老人は傷を見ると、さっきまでの呆れた顔を消した。
「銃創か」
男は答えない。
「警察は?」
「いらねぇ」
「病院は?」
「行かない」
老人は深く息を吐いた。
「若い奴はどうしてこう、自分の身体を雑に扱うかね」
手を動かしながら、老人は男を見た。
「なんで、こんな無茶をしたんだい?」
しばらく返事はなかった。
やがて、男が口を開く。
「……あいつら、この街に麻薬を入れようとしやがった」
老人の手は止まらない。
「それで?」
「俺の街だ」
その声には、先ほどまでとは違う力があった。
「はっきり言って、他の街のことなんざ知らねぇよ」
ジュゼッペは壁際で腕を組んだまま、黙って聞いていた。
「でも、この街には俺の大切なもんが山ほどある」
男は天井を見た。
「家族も、仲間も、ガキの頃から知ってる連中もいる」
息をするたびに痛みが走るのか、言葉が途切れる。
それでも、男は続けた。
「あいつらがこの街に麻薬を蔓延させるなら、俺の大切な連中は安心してここにいられねぇ」
低い声だった。
「だから潰す」
老人が静かに男を見る。
「その結果が、これかい」
「まだ終わってねぇ」
「立派なことを言ってるつもりかい?」
「思ってねぇよ」
即答だった。
「俺は正義の味方じゃねぇ」
老人は何も言わない。
「他の街を救いたいわけでもない。悪党を全部消してやろうなんて思ってもいねぇ」
男の目だけが、静かに燃えていた。
「ただ、俺の大切なもんに手を出す奴が気に食わねぇ」
短い沈黙。
「ここは俺の街だ」
老人はしばらく男を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうかい」
それ以上、何も聞かなかった。
ジュゼッペも聞かなかった。
この男が何者なのか。
誰と争っているのか。
どうして銃で撃たれるような生き方をしているのか。
聞けば面倒になる。
もう十分面倒だった。
(なるほど)
ジュゼッペは腕を組んだ。
(よく分からんが、こいつ結構偉い奴なのかもしれない)
少し考える。
(……家、本当にいけるか?)
今までよりも、ほんの少しだけ冗談ではなくなった。
そして、もう一つ。
(治療代、誰が払うんだ)
非常に重要な問題だった。
この男に財布が残っているのなら、そこから払ってもらうのが一番早い。
確認した方がいいかもしれない。
――いや。
やめておこう。
今財布を探ったら、今度こそ本当に殺されそうな気がする。
ジュゼッペは壁にもたれた。
*
その夜。
二十八歳の元スリは、一人の男を拾った。
その男が、やがて四十年以上にわたって街の裏側に君臨することを、ジュゼッペはまだ知らない。
ヴィットリオもまた知らなかった。
自分を拾ったこの男と、四十二年もの腐れ縁になることを。
始まりは、ただそれだけだった。
血まみれで道端に倒れていた男と。
たまたま、そこを通りかかった男。
そしてこの時のヴィットリオは、まさか助けられた自分の命を『投資』扱いされ、四十二年後に遺産の二割を要求されることになるとは、思いもしなかった。




