第2話 じじいの弱点
翌朝。
捜査官マルコ・フェッリの机には、一人の老人に関する資料が積まれていた。
ジュゼッペ・ベッリーニ。
七十歳。
元仕立屋。
妻と二人暮らし。
前科――なし。
マルコは、その最後の一行をしばらく見つめた。
「……おかしい」
隣にいた若い捜査官が顔を上げた。
「何がです?」
「前科がない」
「いいことじゃないですか」
「昨日の老人だぞ」
若い捜査官は少し考えた。
「……調べましょうか」
「そうしよう。本人の名誉のためにも」
もちろん、何も出てこないのが一番いい。
マルコはそう思いながら資料をめくった。
そして数分後。
「本人の名誉は守れそうにないな」
少年時代の記録が出てきた。
窃盗行為。
夜間の徘徊。
警察による保護、連行。
また窃盗行為。
再び保護。
さらに窃盗行為。
マルコはページをめくった。
まだある。
もう一枚。
まだある。
「……前科なし?」
「ないですね」
「警察との思い出は山ほどあるぞ」
若い捜査官も資料を覗き込む。
「少年時代だけでこの量ですか」
「なるほどな」
マルコは頷いた。
「前科なしとは書いてある。素行良好とは一言も書いてない」
「間違ってはいませんね」
「非常に正確な資料だ」
さらに調べると、成人後にもいくつかの記録が残っていた。
窃盗の疑い。
しかし盗まれた品は戻っている。
被害届は取り下げ。
別の件でも、盗品は返却。
また別の件でも同じ。
マルコは眉間を押さえた。
「律儀なのか不届きなのか、どちらかにしてほしいな」
「盗らなければいいのでは?」
「私もそう思う」
時系列を追っていたマルコの指が、ある一点で止まった。
「……ん?」
「どうしました?」
「ここからだ」
二十歳前後。
それまで頻繁にあった警察との接触が、突然減っている。
完全になくなったわけではない。
だが、明らかだった。
「更生したんでしょうか」
「昨日、マフィアのボスから時計を貰おうとしていた七十歳だぞ」
「……では、何が?」
マルコは資料を閉じた。
「本人に聞こう」
*
「婆さんに見つかったんじゃ」
数時間後。
警察署へ呼ばれたジュゼッペは、あっさり答えた。
マルコはペンを止めた。
「……何が?」
「盗った物」
「更生の話をしているつもりだったんですが」
「じゃから、婆さんに見つかった」
「なるほど。更生ではなく監視体制の強化でしたか」
ジュゼッペは眉を寄せた。
「言い方が悪いのぉ」
「昨日からあなたにだけは言われたくありません」
マルコは資料を見る。
「奥様とは二十歳頃に?」
「わしが二十。婆さんが十九の時じゃ」
「それを境に警察との接触が激減している」
「ああ」
「奥様は警察官だったんですか?」
「違うぞ」
「では、なぜ警察より成果を上げているんです?」
ジュゼッペは少し考えた。
「怖かったからかのぉ」
「非常に説得力がありますね」
*
五十年前。
二十歳のジュゼッペは、今よりずっと細かった。
そして今よりずっと、手癖が悪かった。
その日も彼は何食わぬ顔で通りを歩いていた。
「ジュゼッペ」
背後から声がした。
足が止まる。
十九歳のソフィアが立っていた。
「右手」
「なんだ」
「出して」
「挨拶より先にそれか?」
「じゃあ、こんにちは。右手出して」
「…………」
ジュゼッペは渋々、右手を出した。
財布があった。
ソフィアは財布を見る。
ジュゼッペを見る。
もう一度、財布を見る。
「それ、どうしたの?」
「拾った」
「どこで?」
「……人のポケット」
ぱしん。
乾いた音が響いた。
「それは拾ったって言わないんだよ!!」
「痛っ!」
「誰の?」
「知らん」
「じゃあ探すよ」
「え?」
「顔は見たんでしょ?」
「まあ……」
「覚えてる?」
「……覚えとる」
「なら返せるね」
ジュゼッペは財布を見る。
ソフィアを見る。
「いや、でも――」
「返してきな」
「はい」
逃げ道がなかった。
二十歳のジュゼッペは、十九歳の少女に連れられて財布を返しに行った。
数日後。
「ジュゼッペ」
「……なんだ」
「その時計どうしたの?」
「買った」
「へえ。いくら?」
「…………」
「どこで?」
「…………」
「領収書は?」
「拾った」
「どこで?」
「……人の腕」
ぱしん。
「返してきな!!」
「はい」
さらに数日後。
「ジュゼッペ」
「今日は何も盗っとらんぞ」
ソフィアが足を止めた。
「私、まだ何も聞いてないけど」
「…………」
「何持ってるの?」
「何も」
「ジュゼッペ」
「何も」
ソフィアは彼をじっと見る。
「右の靴」
ジュゼッペの顔が固まった。
「なんでだ」
「歩き方がおかしい」
「…………」
「脱いで」
「…………」
「ジュゼッペ」
渋々、靴を脱ぐ。
靴下の中から指輪が出てきた。
ソフィアはそれを拾い上げた。
「これは?」
ジュゼッペは少し考えた。
「……拾った」
「どこで?」
「もうその質問嫌いだ」
「私はその答えを聞くのが嫌だよ」
*
「……それで?」
マルコが尋ねた。
ジュゼッペは肩をすくめた。
「返しに行った」
「でしょうね」
「婆さん、わしの嘘を全然信じんのじゃ」
「信じてもらえる要素がありましたか?」
「恋人なら少しくらい信じてもええじゃろ」
「恋人の靴下から他人の指輪が出てきた状況で?」
「…………」
「奥様は賢明だったようですね」
ジュゼッペは不満そうに腕を組んだ。
「今でもじゃ」
その時。
取調室の外から、女性の声が聞こえた。
「ジュゼッペ・ベッリーニはこちらですか?」
老人の背筋が伸びた。
マルコはその変化を見逃さなかった。
昨日。
マフィアのボスを前に、遺産二割を要求した男である。
その男が今、扉を見ている。
「……どうしました?」
「来た」
「誰が?」
ジュゼッペは小声で答えた。
「婆さんじゃ」
「なるほど」
マルコは昨日からの資料に目を落とした。
「警察より成果を上げた方ですね」
「面白がっとらんで助けろ」
「我々より実績のある方に?」
「お前、意外と性格悪いのぉ」
「昨日一日で鍛えられました」
*
同じ頃。
別室にいたヴィットリオ・ロマーノにも、その情報が届いていた。
「ベッリーニさんの奥様が来ています」
係員がそう告げた瞬間。
ヴィットリオの顔が上がった。
「ソフィアが?」
「ご存じなんですか?」
ヴィットリオは少し考えた。
「……あのジジイ、今どこだ」
「事情を聞いています」
「ここには来させるな」
「はい?」
「絶対に来させるな」
「なぜです?」
ヴィットリオは真顔だった。
「巻き込まれる」
その時。
廊下から足音がした。
直後。
扉が開いた。
「ヴィットリオ!」
ジュゼッペだった。
「来るなと言っただろ!!」
「匿ってくれ!」
「嫌だ!!」
ジュゼッペは部屋へ飛び込み、そのままヴィットリオの左腕にしがみついた。
「婆さんが来た!」
「知るか! 離せ、このクソジジイ!」
「お前もジジイじゃろ!」
「俺はまだ六十八だ!」
「わしと二歳しか違わんわ!」
「その二歳が大事なんだよ!」
「年長者を敬え!」
「クソジジイに敬意を要求される筋合いはねぇ!」
「誰がクソジジイじゃ!」
「お前だよ! 人の腕にしがみついてる七十歳だよ!」
「七十歳を労われ!」
「元気に逃げ回ってる奴が年寄りぶるな!!」
ジュゼッペはヴィットリオの腕をさらに掴んだ。
「とにかく匿ってくれ!」
「だから離せ!」
「嫌じゃ!」
「クソジジイ!!」
「だからお前もジジイじゃろ!!」
「俺は六十八だっつってんだろ!!」
「誤差じゃ誤差!」
「二歳を誤差で処理するな!」
「ここ警察署じゃぞ! 少しくらい人を保護せんか!」
「お前、何から保護される気だよ!」
「婆さん」
「家庭内の問題を警察署に持ち込むな!!」
「刑務所でもええ!」
「俺より先に入ろうとするな!」
「三食つくんじゃろ?」
「老後施設じゃねぇんだぞ!!」
その時。
扉の向こうから静かな声がした。
「ジュゼッペ?」
二人とも止まった。
「…………」
「…………」
ジュゼッペは、そっとヴィットリオの腕から手を離した。
ヴィットリオも何事もなかったように姿勢を正した。
つい数秒前まで互いをクソジジイと罵っていた二人が、揃って静かになった。
扉が開く。
ソフィア・ベッリーニ。
六十九歳。
身長百五十七センチ。
ジュゼッペよりずっと小柄な老婦人だった。
ソフィアは室内を見た。
夫。
ヴィットリオ。
マルコ。
そして、もう一度夫を見る。
「ジュゼッペ」
「はい」
「どうして別の部屋にいるの?」
「……移動した」
「誰の許可で?」
「…………」
「ジュゼッペ」
「わしの判断です」
「そう」
ソフィアは微笑んだ。
「帰ったら話そうね」
「ここで話さんか?」
「帰ってから」
「ここには警察もおるぞ」
「だから?」
「…………なんでもないです」
マルコは黙って一連のやり取りを見ていた。
なるほど。
記録が減るわけだ。
ソフィアの視線がヴィットリオへ移った。
「ヴィットリオ」
「……久しぶりだな、ソフィア」
「ニュース見たよ」
「ああ」
「捕まったんだって?」
「……まあな」
ソフィアは腰に手を当てた。
「六十八にもなって何やってるの」
ヴィットリオが視線を逸らした。
「……面目ない」
「昔からジュゼッペと二人になると、ろくなことしないんだから」
「今回はこいつ関係ねぇぞ」
ジュゼッペが横から口を挟んだ。
「そうじゃ。今回はヴィットリオ単独じゃ」
ヴィットリオが振り返った。
「なんでお前だけ安全地帯から殴ってくるんだよ!」
ソフィアが二人を見る。
「二人とも」
「…………」
「…………」
「警察署で騒がない」
「はい」
「……ああ」
マルコは静かにペンを置いた。
マフィアのボスと、警察署を逃げ回っている老人が、同時に叱られている。
しかも叱っているのは、百五十七センチの老婦人だった。
ソフィアは夫へ向き直った。
「帰るよ」
「はい」
即答だった。
ジュゼッペがヴィットリオを見る。
「じゃあの」
「二度と来るな」
「また来る」
「話聞いてたか?」
「ジュゼッペ」
ソフィアが呼んだ。
「はい、今行きます」
マルコは、その背中を見送った。
そして手元の資料を見る。
ジュゼッペ・ベッリーニ。
少年時代から繰り返された警察との接触。
二十歳前後を境に急減。
その理由。
マルコは資料の余白に書いた。
『ジュゼッペ・ベッリーニが長期間、重大な犯罪に関与しなかった理由――妻』
数秒考える。
これを正式な資料に書いていいのだろうか。
事実ではある。
そこが一番困る。
*
「……あれ?」
ヴィットリオの声がした。
マルコが顔を上げる。
ヴィットリオが左手首を見ていた。
「どうしました?」
「時計がない」
マルコも左手首を見る。
昨日、ジュゼッペが欲しがっていた高級腕時計。
ない。
ヴィットリオは机を見る。
椅子の下を見る。
そして動きを止めた。
「…………あのジジイ」
マルコも先ほどの光景を思い返した。
部屋へ飛び込んできたジュゼッペ。
ヴィットリオの左腕にしがみついていた。
やけに長い間。
『匿ってくれ!』
『俺の腕から離れてから言え!!』
ヴィットリオのこめかみが引きつった。
「あのクソジジイ!!」
マルコは目を閉じた。
「……前科なし」
ヴィットリオが睨む。
「何だよ」
「いえ」
マルコは立ち上がった。
「今日ほどその四文字に疑問を抱いた日はありません」
*
その頃。
警察署の受付。
ジュゼッペはソフィアの後ろで大人しく立っていた。
受付にいた女性職員が、ソフィアを見る。
「あら、ソフィアさん」
「エレナ。久しぶり」
ジュゼッペが顔を上げた。
「知り合いなんか?」
「何度かお世話になってるの」
「初耳じゃぞ」
「あなたに関係ない用事でね」
受付のエレナが笑った。
「落とし物とか、近所のことで何度か」
「ほう……」
ソフィアは受付へ向き直った。
「それで、今日はこの人のことで?」
「捜査の方から確認したいことがあったみたいです」
「そう」
ソフィアは夫を振り返った。
「この人のことで何かあったら、次から私に直接連絡してください」
「待て」
エレナはにこやかに頷いた。
「分かりました」
「ちょっと待て」
ソフィアが夫を見る。
「何?」
「わしは七十歳じゃぞ」
「知ってるよ」
「成人して五十年経っとる」
「それも知ってる」
「なんで保護者みたいになっとるんじゃ」
ソフィアは少し考えた。
「必要だからじゃない?」
ジュゼッペはエレナを見る。
エレナは目を逸らした。
「否定してくれ」
「業務上、嘘はちょっと」
「警察に味方がおらん」
ソフィアが歩き出した。
「帰るよ」
「はい」
ジュゼッペも続く。
署を出て、二人で歩き始める。
数歩。
ソフィアが止まった。
ジュゼッペも止まる。
「何じゃ?」
返事はない。
ソフィアは夫の左手首を見ていた。
そこには、高級腕時計。
「ジュゼッペ」
「……なんじゃ」
「その時計、どうしたの?」
「…………」
ジュゼッペは自分の手首を見る。
そして妻を見る。
五十年。
この視線から逃げ続けてきた男である。
「……ヴィットリオがくれた」
「へえ」
その一言で。
ジュゼッペは負けを悟った。
「ヴィットリオが?」
「…………」
「昨日、時計をくれないって怒られた人が?」
「…………」
「今日になったら急にくれたんだ?」
「……心変わりというものが」
「ジュゼッペ」
「はい」
「返してきな」
「はい」
ジュゼッペは警察署へ向き直った。
「走らない」
今まさに駆け出そうとしていた足が止まる。
「……はい」
「ちゃんと謝る」
「はい」
「自分で返す」
「はい」
「ヴィットリオの腕に勝手につけ直さない」
ジュゼッペが振り返った。
「そこまでせんぞ!」
ソフィアは黙って夫を見る。
「…………たぶん」
「ジュゼッペ」
「はい」
老人は、とぼとぼと警察署へ戻っていった。
その背中を見送りながら、ソフィアが言った。
「まったく。七十にもなって」
少し離れたところから、ジュゼッペの声が返ってきた。
「……刑務所の方が安全かもしれん」
「聞こえてるよ」
ジュゼッペの歩く速度が上がった。
「走らない!」
速度が戻った。
ジュゼッペは、とぼとぼと警察署へ戻っていった。
*
「返せ、このクソジジイ!」
部屋へ入った途端、ヴィットリオの怒声が飛んできた。
「返しに来たんじゃろうが!」
「盗った本人が偉そうに言うな!」
「ちゃんと戻ってきたんじゃから、ええじゃろ」
「返せば窃盗じゃなくなる制度はねぇんだよ!」
「お前、いつから警察になった」
「お前のせいで詳しくなりそうだよ!」
ジュゼッペは渋々、腕時計を外した。
その横からマルコが手を差し出す。
「一応、私が確認します」
「信用ないのぉ」
「どの口で言ってるんです?」
マルコは時計を受け取り、ヴィットリオへ返した。
ヴィットリオはすぐに左手首につけ直す。
「ったく……七十にもなって人の時計を盗みやがって」
「腕は鈍っとらんかったじゃろ?」
「自慢するところじゃねぇ!」
「婆さんにはすぐバレたが」
マルコが淡々と言った。
「警察として非常に複雑ですが、奥様には感謝しています」
「お前ら、婆さんを何だと思っとるんじゃ」
「現在のところ、あなたに対して最も有効な防犯設備です」
「人の嫁を設備扱いするな」
「その設備のおかげで五十年間、前科なしなんでしょう」
ジュゼッペは黙った。
「…………」
「否定は?」
「言い方が気に入らん」
「内容は?」
「……否定しづらい」
「でしょうね」
ヴィットリオが鼻で笑った。
「完全に尻に敷かれてんじゃねぇか」
「お前も婆さんが来たら黙っとったじゃろ」
「俺は巻き込まれたくなかっただけだ」
「そういうことにしといてやる」
「腹立つな、このジジイ」
ジュゼッペは笑いながら、ヴィットリオが時計をつけ直すのを眺めていた。
そこで何かを思い出したらしい。
「ああ、そういえば」
「……まだ何かあるのか」
「わしの孫に、お前の孫がナンパしておったぞ」
ヴィットリオの手が止まった。
「……何?」
マルコも顔を上げた。
「待ってください」
「なんじゃ」
「今度はお孫さん同士まで知り合いなんですか?」
「らしい」
「わしも最近知った」
マルコは眉間を押さえた。
「あなた方の人間関係、どこまで繋がってるんです?」
「知らん」
「俺に聞くな」
「お二人を調べている私が一番知りたいんですが」
ジュゼッペは気にせず続けた。
「まあ、見事に断られたらしいが」
ヴィットリオの顔がしかめられる。
「そこまで聞いてんのか」
「孫が教えてくれた」
「何て?」
「胡散臭い男に声をかけられた、と」
「…………」
ジュゼッペはヴィットリオを眺め、しみじみと言った。
「お前さんは若い頃、ずいぶん浮名を流しとったのになぁ」
ヴィットリオの眉がぴくりと動く。
「おい」
「女を口説くのも上手かったし」
「昔の話だ」
「ナンパの才能は孫には遺伝しなかったんじゃな」
「今は嫁一筋だ!」
マルコが瞬きをした。
「……そこは強く訂正するんですね」
「当たり前だ!」
ジュゼッペが首を傾げた。
「誰も今の話はしとらんぞ」
「お前の言い方が悪いんだよ!」
「若い頃に浮名を流したと言っただけじゃろ」
「だから昔の話だっつってんだ!」
「ほう」
ジュゼッペがにやりとする。
「今は嫁一筋、と」
「そう言ってんだろ」
「昔は?」
「…………」
マルコもヴィットリオを見る。
「昔は?」
「お前まで聞くな!」
ジュゼッペがけらけら笑った。
「まあ、お前の女遍歴はどうでもええ」
「お前が始めたんだろ!」
「問題は孫じゃ。あれは酷いぞ」
「何したんだ、あいつ」
「うちの孫に『俺の家はこの辺じゃ有名だ』」
ヴィットリオが黙る。
「それから『じいちゃんは顔が広い』」
マルコが小さく頷いた。
「それは事実ですね」
「最後に『俺の家族に逆らう奴はいない』」
マルコの頷きが止まった。
ヴィットリオも黙った。
「…………」
「…………」
ジュゼッペが腕を組む。
「完全に詐欺師じゃな」
「詐欺師じゃねぇ!」
マルコが少し考えた。
「困ったことに、全部事実なんですよね」
ヴィットリオが机を叩いた。
「そうなんだよ!」
「なお悪いわ!」
「俺に言うな!」
「事実だけでここまで胡散臭くなれるのも珍しいですね」
「警察にまで俺の孫を分析されたくねぇよ!」
ジュゼッペは呆れたように首を振る。
「女好きだけ渡して、取扱説明書を付け忘れたんか?」
「人の孫を不良品みたいに言うな!」
「なら、お前が教えてやれ」
「なんで俺が孫にナンパを教えなきゃならねぇんだ!」
「お前の孫じゃろ」
「だったらお前が教えろ」
「なんでわしが」
ヴィットリオが、ふとジュゼッペを見る。
「お前、スリやってた頃、女口説いてただろ」
マルコの視線がゆっくりジュゼッペへ移った。
「……初耳なんですが」
ジュゼッペは露骨に嫌そうな顔をした。
「昔の話じゃ」
「ほら、やってたじゃねぇか」
「あれはナンパじゃない」
「じゃあ何だよ」
「仕事じゃ」
沈黙。
マルコが口を開く。
「訂正したことで、さらに印象が悪くなりましたね」
「言うと思ったわ」
ヴィットリオが鼻で笑う。
「女に声かけて、笑わせて、気を引いて――」
「そこまで言わんでええ」
「その隙に財布を――」
「ロマーノさん」
マルコが遮った。
「それ以上は結構です」
「なんでだよ」
「これ以上、本人の前で過去の余罪らしきものを増やさないでください」
ジュゼッペが深く頷いた。
「そうじゃそうじゃ」
「あなたを庇ってるんじゃありません」
「そうか」
「残念そうな顔をしないでください」
ヴィットリオはジュゼッペを見る。
「少なくとも、女に声かけて即座に胡散臭がられるような奴じゃなかっただろ」
「何十年前の話をしとるんじゃ」
「今はできねぇのか?」
「…………」
ジュゼッペがヴィットリオを見る。
ヴィットリオも見る。
「…………」
「できるが?」
「できんのかよ!」
マルコが額を押さえた。
「なぜそこで七十歳の意地を張るんです」
「男には引けんところがある」
「そこは引いてください」
ヴィットリオがにやりと笑った。
「じゃあ決まりだな」
「何が」
「孫に教えてやれ」
「嫌じゃ」
「できるっつっただろ!」
「できるのと、やるのは別じゃ」
「面倒くせぇジジイだな!」
「お前もジジイじゃろ」
「俺は六十八だ!」
「二歳くらい誤差じゃ!」
「二歳を誤差で処理するな!」
その時。
廊下の向こうから声が飛んできた。
「ジュゼッペ! 時計返したの!」
ジュゼッペの背筋が伸びた。
「返したぞー!」
ヴィットリオが鼻で笑う。
「いい返事じゃねぇか」
「うるさい」
再び声が飛んでくる。
「ヴィットリオ、返してもらった?」
ヴィットリオの笑みが消えた。
「…………」
ジュゼッペがにやりとする。
「ほれ」
「何だよ」
「返事せんのか?」
「…………」
「婆さんが聞いとるぞ」
ヴィットリオは数秒黙った。
それから左腕を上げる。
「返ってきたぞー!」
マルコが二人を見比べた。
「……どうしてロマーノさんまで素直なんです?」
「うるせぇ!」
ジュゼッペが腹を抱えて笑った。
「お前も怖いんじゃろ!」
「違ぇよ! 返事しねぇとまた入ってきそうだからだ!」
「それを怖いと言うんじゃ」
「お前と一緒にするな!」
廊下から、さらに声が飛んできた。
「ジュゼッペ! 帰るよ!」
「はい!」
即答だった。
ヴィットリオが鼻で笑う。
「五十年続いてる結果がそれか」
「うるさい」
「見事に尻に敷かれてんじゃねぇか」
「お前も『返ってきたぞー!』って言っとったじゃろ!」
「…………」
「…………」
マルコが静かに言った。
「お二人とも、よく似てますね」
二人が同時に振り返る。
「「どこがだ!!」」
マルコは少しだけ笑った。
「その辺です」
「ジュゼッペ!」
またソフィアの声がした。
「はい! 今行く!」
ジュゼッペは立ち上がる。
扉へ向かいながら、ヴィットリオを振り返った。
「孫の件は、お前が何とかせぇよ」
「お前にも手伝わせるからな」
「嫌じゃ」
「さっきできるって言っただろ!」
「できると言っただけじゃ。やるとは言っとらん」
「クソジジイ!」
「お前もジジイじゃろ!」
「俺は六十八だ!」
「二歳くらい誤差じゃ!」
「またそれか!」
「ジュゼッペ!」
「はいはい! 今行く!」
扉が閉まった。
部屋に静寂が戻る。
マルコは閉じた扉をしばらく見つめた。
それから、取り戻した時計を確認しているヴィットリオを見る。
「……ロマーノさん」
「何だ」
「本当に、四十二年間ずっとあんな感じなんですか?」
ヴィットリオは少し考えた。
やがて、疲れたように息を吐く。
「もっと酷い時もある」
マルコは何も言わず、資料へ目を落とした。
時計返却シーンを加筆しました (2026/09/24 21:16)




