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第1話 伝説の終わり

シチリアの朝は早い。


市場には魚が並び、バールからはエスプレッソの香りが漂い、石畳の道をスクーターが走り抜けていく。


いつもと変わらない朝だった。


ただ一つ。


この街で四十年以上、その名を知らぬ者はいないと言われた男が、警察に連行されたことを除けば。


ヴィットリオ・ロマーノ。


六十八歳。


長年、街の裏側に強い影響力を持ってきたマフィアのボスである。


その日。


一つの伝説が終わった。


――少なくとも、警察はそう思っていた。


     *


「確認します」


捜査官マルコ・フェッリは、机の上に資料を広げた。


その向かいにはヴィットリオが座っている。


逮捕され、取調室に座らされているというのに、妙に落ち着いていた。


「市内のレストラン二店舗。倉庫。それから郊外の土地――」


マルコは一枚の書類を抜き出した。


「この土地」


ヴィットリオは書類へ目を落とした。


「知らんな」


「あなたが二十年以上前に取得しています」


「昔の話だ」


「しかし現在の所有者は、あなたではない」


マルコは書類を指で叩いた。


「ジュゼッペ・ベッリーニ」


その名前を聞いた瞬間。


ヴィットリオの眉が、わずかに動いた。


マルコは見逃さなかった。


「ご存じですね?」


「……ああ」


「組織の人間ですか?」


ヴィットリオは鼻で笑った。


「あいつが?」


「違うんですか?」


「違う」


「では、どういう関係で?」


ヴィットリオは少し考えた。


「……昔、命を助けられた」


マルコのペンが止まった。


「命を?」


「四十年以上前だ。俺がまだ二十代だった頃にな」


「何があったんです?」


「撃たれた」


あまりに平然と言うので、マルコは一瞬聞き返しそうになった。


「……銃撃を?」


「ああ」


「誰に?」


「昔の話だ」


ヴィットリオはそれ以上話す気がないらしい。


マルコは質問を変えた。


「その時、ベッリーニさんがあなたを?」


「拾った」


「拾った?」


「道端でな」


「人間を拾ったみたいに言わないでください」


「実際そんなもんだった」


ヴィットリオは椅子にもたれた。


「あいつが知り合いのところまで俺を運んだ。昔、医者をやっていた男だった」


「それで助かった?」


「ああ」


「その礼として土地を?」


「そうだ」


マルコは資料を見る。


ジュゼッペ・ベッリーニ。


七十歳。


元仕立屋。


前科なし。


マフィアとの明確な関係――確認できず。


「……ずいぶん大きな礼ですね」


「命の値段だ。安いくらいだろ」


ヴィットリオはそう言って腕を組んだ。


「現在も交流は?」


「ある」


「頻繁に?」


「たまに来る」


「何をしに?」


ヴィットリオは露骨に嫌そうな顔をした。


「知らん」


「知らない?」


「用もないのに来るんだよ、あのジジイは」


その時だった。


廊下の向こうが騒がしくなった。


「ちょっと、入らないでください!」


「ヴィットリオに会いに来たんじゃ!」


「面会の手続きを――」


「知り合いじゃ!」


「そういう問題では――」


取調室の中にいた二人が、同時に扉を見る。


ヴィットリオが目を閉じた。


「…………」


マルコはその表情を見た。


「まさか」


扉が開いた。


「ヴィットリオ!」


一人の老人が入ってきた。


背筋は年齢のわりに伸びている。


白髪混じりの髪は整えられ、服装も妙にきちんとしていた。


元仕立屋と言われれば納得できる。


ただし。


警察署の取調室へ勝手に入ってくる元仕立屋というものを、マルコは初めて見た。


ヴィットリオが額を押さえた。


「……なんで来た」


「ニュース見たぞ」


老人――ジュゼッペ・ベッリーニは、当然のようにヴィットリオの前まで歩いてきた。


「捕まったんじゃって?」


「見れば分かるだろ」


「刑務所行くんか?」


「まだ決まってねぇ」


「そうか」


ジュゼッペは頷いた。


そして。


ヴィットリオの左手首を見た。


「じゃあ、その時計くれ」


沈黙。


マルコはジュゼッペを見た。


次にヴィットリオを見た。


ヴィットリオは自分の腕時計を袖で隠した。


「やらねぇよ」


「なんでじゃ」


「なんでじゃねぇ」


ジュゼッペは不満そうにヴィットリオの腕を見る。


「刑務所じゃ使わんじゃろ」


「まだ入ると決まってねぇと言っただろ」


「入ったら?」


「やらん」


「ケチじゃのぉ」


「お前、俺が逮捕されたと聞いて最初に考えたのが時計か?」


ジュゼッペは少し考えた。


「いや」


「そうか」


「遺産」


「もっと悪いわ!!」


ヴィットリオの怒鳴り声が取調室に響いた。


マルコはこめかみを押さえた。


「……ベッリーニさん」


「なんじゃ?」


「ここは取調室です」


「知っとる」


「では、なぜいるんです?」


「ヴィットリオに会いに来た」


「ですから、面会には手続きが――」


「昔からの知り合いじゃ」


「知り合いなら自由に入れる場所ではありません」


「警察は融通が利かんのぉ」


「あなたが自由すぎるんです」


ヴィットリオが小さく頷いた。


「それは同意する」


「お前は黙っとれ」


「俺の取調室だぞ!!」


マルコは一度深呼吸した。


本来なら、今すぐつまみ出すべきなのだろう。


だが、せっかく本人が来た。


聞けることは聞いておこう。


「ベッリーニさん」


「なんじゃ」


「ロマーノ氏から土地を譲り受けていますね?」


「ああ」


「理由は?」


「命を助けたからじゃ」


ヴィットリオが顎をしゃくった。


「ほらな」


マルコはジュゼッペを見る。


「四十年以上前、撃たれた彼を助けた?」


「そうじゃ」


「どのような状況だったんです?」


ジュゼッペは顎に手を当てた。


「道端に落ちとった」


ヴィットリオが顔を上げる。


「落ちてねぇ。撃たれて倒れてたんだ」


「似たようなもんじゃろ」


「全然違う」


「最初、死んどると思ったんじゃ」


「お前、そんなこと一度も言ってなかっただろ」


「言う必要ないじゃろ」


ジュゼッペは何でもないことのように続けた。


「だから時計を見た」


ヴィットリオの目が細くなった。


「……何?」


「ええ時計しとったからの」


「待て」


「指輪もあった」


「待て待て」


「首にはペンダントもあったな。開けたら若い女の写真が入っとった」


「お前」


ヴィットリオが机に身を乗り出した。


「まさかとは思うが」


「なんじゃ」


「俺が死んでたらどうするつもりだった?」


ジュゼッペはきょとんとした。


「時計と指輪は貰っとった」


沈黙。


マルコはペンを置いた。


ヴィットリオはしばらく何も言わなかった。


やがて、低い声で聞いた。


「……ペンダントは?」


「写真が入っとったから残す」


「そこだけ良心出すな!!」


「大事なもんじゃろ」


「時計も大事だよ!!」


「でも生きとったから取らんかったじゃろ」


「当たり前だ!!」


「むしろ感謝してほしいくらいじゃ」


「何に!?」


「誘惑に勝ったわしに」


「俺を助けたことを誇れ!!」


マルコは二人を見比べた。


どうやら、ヴィットリオが「命を助けられた」と言ったこと自体は事実らしい。


ただし、かなり重要な補足情報があった。


マルコは資料の余白に小さく書いた。


『救助時、被救助者の金品を物色した可能性あり』


ジュゼッペがそれを覗き込んだ。


「人聞きが悪いのぉ」


「本人から聞いたままを書いています」


「取ってないじゃろ」


「生きていたからでしょう?」


「そうとも言う」


ヴィットリオが疲れたように椅子へ沈んだ。


「だから言っただろ。こいつはファミリーじゃない」


ジュゼッペが頷く。


「そうじゃ」


そして胸を張った。


「わしは客じゃ」


「誰が客だ」


「長い付き合いじゃろ」


「だからって俺の組織を飲食店みたいに言うな」


「金も払っとる」


「何の話だ」


ジュゼッペは肩をすくめた。


「友達だから何でもタダ、なんて方が面倒じゃろ。金を払えば、ここまでと線を引ける」


マルコが眉をひそめる。


「……あなた、そういうところは妙に現実的ですね」


「金の貸し借りで友人関係を壊したくないだけじゃ」


一瞬だけ。


取調室が静かになった。


ヴィットリオが鼻を鳴らした。


「そういうところだけ昔から変に真面目なんだよ、お前は」


「七十年生きとるからの」


「俺と二歳しか違わねぇだろ」


「年長者を敬え」


「今その話してねぇよ」


ジュゼッペは笑った。


そして、またヴィットリオの腕時計へ目を落とした。


「ところで」


ヴィットリオが即座に時計を隠した。


「嫌な予感しかしねぇ」


「命を助けてから四十二年」


「それが?」


「その間、お前いくら稼いだ?」


「…………」


ジュゼッペは机越しに手を伸ばし、ヴィットリオの腕を軽く叩いた。


「わしが助けたおかげでいくら稼いだんだぁ?」


ぺち。


ぺち。


ぺち。


「やめろ」


ぺち。


「なあ?」


ぺち。


「やめろと言ってるだろ!」


ジュゼッペは満面の笑みだった。


「命を助けたんじゃぞ。配当というものがあるじゃろ」


「俺の命を投資商品にするな!」


「わしはある意味、エンジェル投資家じゃぞ」


「どこがエンジェルだ!!」


「死にかけのお前に将来性を見出して投資した」


「俺の命だよ!!」


「しかも四十二年保有しとる」


「株みたいに言うな!」


「そろそろ利益確定してもええ頃じゃろ」


「何を確定する気だ!」


ジュゼッペは指を二本立てた。


「二割」


ヴィットリオが固まった。


「……何が」


「遺産」


「帰れ」


「命の恩人割引じゃ」


「何から割り引いたんだ」


「本来なら三割」


「大して割引してねぇじゃねぇか!」


「時計ならそれで手を打つ」


ヴィットリオは自分の腕時計を両手で隠した。


「絶対やらん」


「ケチ」


「お前にだけは言われたくねぇ」


マルコは二人のやり取りを眺めながら、ふと思い出した。


「そういえば」


二人が同時に彼を見る。


「先ほどのペンダントですが」


マルコはジュゼッペを見る。


「若い女性の写真が入っていた、と言いましたね」


「ああ。美人じゃったぞ」


「そこは聞いてません」


マルコはヴィットリオへ視線を移した。


「どなたです?」


ヴィットリオの表情が、ほんの少し変わった。


「妻だ」


マルコのペンが止まった。


「……奥様?」


「ああ」


ジュゼッペは懐かしそうに笑った。


「撃たれて死にかけとるのに、ペンダントに触ったら怒りよった」


ヴィットリオは何も言わない。


「『それには触るな』ってな」


ジュゼッペが当時の声を真似る。


ヴィットリオが睨んだ。


「似てねぇよ」


「似とる」


「もっと声低かった」


「死にかけてたからじゃろ」


「うるせぇ」


マルコはペンを置いた。


この二人には。


まだ警察が把握していない四十二年がある。


そんな気がした。


だが、ジュゼッペの興味はすでに別のところへ移っていた。


「そういや、お前の孫はいくつになった?」


ヴィットリオが嫌そうな顔をした。


「……二十二だ」


「ほう」


ジュゼッペの目が輝いた。


「わしの孫娘が二十じゃ」


「嫌な予感がする」


「会わせてみるか?」


「やめろ」


「若い者同士じゃ」


「やめろ」


「本人たちが嫌ならそれまでじゃが、会うくらい――」


「やめろと言ってるだろ」


ジュゼッペは首を傾げた。


「なんでじゃ。お前の孫、変な奴なんか?」


ヴィットリオは黙った。


その沈黙を、マルコは見逃さなかった。


ジュゼッペも見逃さなかった。


「……変な奴なんじゃな?」


「うるさい」


「女関係か?」


「うるさい」


「お前に似た?」


「うるさい!!」


ジュゼッペは楽しそうに笑った。


「まあ、お前の孫なら顔は悪くないじゃろ」


「お前は何を基準に孫の縁談を――」


「あ」


ジュゼッペが何かを思い出した。


「なんだ」


「その孫、遺産の順位は?」


ヴィットリオが立ち上がった。


「こいつを追い出せ!!」


マルコも立ち上がった。


「ベッリーニさん、今日はお帰りください」


「なんでわしまで」


「あなたを追い出してるんです!!」


「まだ時計の話が――」


「やらん!!」


「遺産二割」


「帰れ!!」


ジュゼッペは係員に連れられながら、最後までヴィットリオに手を振っていた。


「また来るぞー」


「来るな!!」


扉が閉まった。


静寂。


マルコは椅子に座り直した。


ヴィットリオも座った。


しばらく誰も喋らなかった。


やがてマルコが口を開いた。


「……四十二年?」


「ああ」


「ずっとあんな感じで?」


ヴィットリオは深く息を吐いた。


「もっと酷い時もある」


マルコは閉じた扉を見る。


そして、机の上の資料へ視線を落とした。


ジュゼッペ・ベッリーニ。


七十歳。


元仕立屋。


前科なし。


マルコは、その最後の一行を見つめた。


「……本当に?」


ヴィットリオが答えた。


「俺も時々そう思う」


この日。


警察は一人のマフィアのボスを逮捕した。


そして同時に。


もっとよく分からない老人を一人、見つけてしまった。

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