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10話 ケジメと作戦開始

「さて、作戦会議といこうじゃねぇか」


ジュゼッペから無事を知らせる電話を受けてから、まだそれほど時間は経っていなかった。


目の前にはマルコとルカ。


机の上には、《灰潮》について集められた資料が広げられている。


一方、電話の向こうでは、ジュゼッペたちが爆破された家から二軒先の家に身を潜めていた。


家を一軒吹き飛ばされた直後とは思えない言葉だったが、ヴィットリオの声から、すでに動揺の色は消えている。


ルカが資料を一枚持ち上げた。


「ボス。確認ですが、あの敵対組織について、どこまで知っているんです?」


「昔のことならな」


「昔?」


ヴィットリオは椅子の背へ身体を預けた。


「四十二年前、この街で薬を売ろうとしてた連中がいた」


マルコが顔を上げる。


「《灰潮》の前身ですか?」


「ああ。それと、今の頭も知ってる」


「知っている?」


「顔じゃねぇ。声だ」


ヴィットリオの目が細くなる。


「特に、あの笑い方は忘れねぇ」


電話の向こうでジュゼッペが間を置いた。


『……誰じゃ?』


「お前は会ってねぇよ。俺が撃たれた後の話だ」


『ああ。そりゃ知らんのぉ』


「あの時のクソガキだ」


ルカが僅かに眉を動かした。


「当時、何歳です?」


「十二か、そこらだった」


「十二?」


マルコも聞き返した。


「ああ。まだ上へ上がる前だ。刺青もねぇ。ただの使い走りみてぇなガキだった」


ヴィットリオは机の上へ目を落とす。


「上層部は俺が全部殺った」


部屋から音が消えた。


つい先ほどまで僅かに残っていた軽さが、一瞬で吹き飛ぶ。


「薬をこの街に入れようとしてた連中だ。あの頃の俺は、上を潰せば終わると思ってた」


ルカは何も言わなかった。


「ガキまで殺す気はなかった。まだ何者でもなかったからな」


「その子だけが生き残った」


マルコが言う。


「ああ」


ヴィットリオは短く答えた。


「そのあと一度、俺に向かってきたこともある」


「十二歳の子供が?」


「ガキの癖にな」


鼻で笑った。


だが、その顔に笑みはない。


「ぶっ飛ばして、それで終わりにした」


「……それだけですか」


「ああ」


ヴィットリオは少し黙った。


「そこが俺のポカだ」


マルコが眉を寄せる。


「殺さなかったことが?」


「違ぇよ」


返事は早かった。


「あのあと、放っといたことだ」


静寂が落ちる。


「上を全部潰した。ついていく大人も、帰る場所も消した。それでガキ一人残して、あとは勝手に生きろって放った」


ヴィットリオは苦く笑った。


「勝手にどっか行って、勝手にまともになると思ってたんだよ」


ルカが僅かに目を細める。


「十二歳ですよ」


「ああ」


「十二歳の子供が、自分でまともな道を探せると思ったんですか」


「当時の俺は思ってた」


ヴィットリオはルカを見る。


「俺がそうだったからな」


それ以上は言わなかった。


マルコがゆっくりと息を吐いた。


「それを全てあなた一人の責任にするのは違います」


ヴィットリオが睨む。


「慰めならいらねぇぞ」


「慰めていません」


マルコは即答した。


「当時の行政にも問題があります」


「……」


「あまり言いたくはありませんが」


マルコは一度言葉を選んだ。


「あなたがこの一帯を実質的に統制するようになった後、路上で生活する子供の総数は減っています」


ヴィットリオの眉が僅かに動く。


「親の犯罪に巻き込まれる子供も減った。望まない妊娠や、そこから子供が放置されるケースそのものも、それ以前より減っている」


「俺のおかげだって言いてぇのか?」


「いいえ」


マルコははっきり否定した。


「あなたの犯罪を正当化するつもりはありません。それとこれは別です」


「なら何だ」


「当時、本来なら行政が拾うべき子供を拾えていなかった。その責任まで、あなた一人が背負うものではないという話です」


ヴィットリオは黙っている。


「行政だけでは届かなかった場所に、結果としてあなたの影響が及んだ。それは記録上の変化として残っています」


「俺が街を守ってた?」


「そこまでは言っていません」


「ああ。俺もそんなつもりはねぇ」


ヴィットリオは鼻を鳴らした。


「俺は俺の街を荒らされたくなかっただけだ」


「でしょうね」


「薬だろうが、ガキを食い物にする奴だろうが、俺の縄張りで好き勝手されんのが気に入らなかった。それだけだ」


「ですが、結果として減った」


「……だったら余計にな」


ヴィットリオが資料を指先で叩いた。


「あのガキ一人くらい、どうにかできたはずだ」


そこでルカが口を開いた。


「俺を拾ったのは、贖罪のつもりですか」


ヴィットリオが眉を上げる。


「いや」


即答だった。


「そんなつもりはなかったさ」


ルカは黙ってその顔を見る。


ヴィットリオは少し考えてから続けた。


「強いて言うなら、面白そうなやつがこのまま落ちぶれんのは面白くねぇって思っただけだよ」


数秒。


ルカが小さく頷いた。


「それなら良かったです」


「何がだ」


「あの男に重ねられていたら、今すぐボスの足を折って、代わりに俺があの男にケジメをつけに行きますんで」


「なんで俺の足を折るんだよ」


「止めに来るでしょう」


「当たり前だろうが」


「だから先に折ります」


「物騒な恩返しすんな」


ルカが少し黙った。


そして急に、悲壮な顔を作った。


「……俺は、あの男の代わりだったんですね、ボス」


「そこで急に病むなお前」


「やっぱり俺じゃなくても良かったんだ……」


「メンヘラ劇すんな」


ルカが胸元に手を当てる。


「アタシを見て!」


「お前この前のイカレ女の真似すんじゃねぇ!」


「似てました?」


「似せんな!」


電話の向こうが妙に静かだった。


やがて、ジュゼッペが口を開く。


『お前さん、わしの時とキャラ違いすぎでは……?』


ルカが電話へ視線を向ける。


「そりゃあ、あなたに対してはクソジジイとしか思っていないので」


『ひどくない?』


「事実でしょう」


『わし一応、年上じゃぞ』


「知ってますよ」


『敬意は?』


「ありません」


『即答!!』


ヴィットリオが鼻で笑った。


「お前、俺には一応まだ敬語使うのにな」


「育ての親と、悪知恵を吹き込んできた近所のクソジジイを同列にしないでください」


『わし、そんな扱い!?』


「むしろ今まで気づいてなかったんですか」


『ヴィットリオー』


「俺に振るな」


『こいつ態度悪いぞ』


「お前が育てた部分もあるだろ」


『そこは否定できんのぉ』


ルカは肩を竦めた。


「あなたには取り繕う必要がないだけですよ」


電話の向こうが少しだけ静かになる。


『……そういうことにしといてやろう』


「勝手にしてください」


「話戻すぞ」


ヴィットリオが二人を切った。


「ともかく、あいつがここまで来た理由に俺が一切関係ねぇとは言わん」


ルカが表情を戻す。


「ですが、四十二年間の選択まであなたが背負う必要はない」


「ああ」


「十三の俺に別の道を見せたように、あの男にも一つくらい別の道を見せられたかもしれない。それだけでしょう」


ヴィットリオは答えなかった。


やがて、低く言った。


「今回は終わらせる」


その声に迷いはない。


「俺が始めた世界だ。孫にその勘定を払わせる気はねぇ」


*


マルコが資料をめくった。


「では、現在の状況を整理しましょう」


ヴィットリオが頷く。


「ジュゼッペたちは死んだと思われてる」


『縁起でもないのぉ』


「てめぇが言うな」


『わし本人じゃぞ?』


「本人だからだ」


ルカが口を挟む。


「ですが、その誤認は使えます。向こうは爆破が成功したと思っている」


「訂正する必要はありませんね」


マルコが頷いた。


「そのまま死亡したと誤認させる」


『勝手に殺さないでちょうだい』


今度はソフィアの声が飛んだ。


「生きてるから言ってんだよ」


『言い方の問題よ』


ヴィットリオが顔をしかめる。


「相変わらずだな……」


「ただし、サーシャさんたちの生存は向こうも把握するでしょう」


マルコが続ける。


爆発には巻き込まれた。


だが、サーシャたちは死ななかった。


ならば次に必要なのは、ヴィットリオの周囲がさらに崩れたように見せることだった。


ルカが腕を組む。


「今の向こうからすれば、ボスのそばにはまだ私がいる」


ヴィットリオが横目で見る。


「随分、自信満々じゃねぇか」


「実際そうでしょう」


「否定はしねぇ」


『わしもおるぞ』


「あなたは現在、死亡扱いです」


『そうじゃった』


「忘れるなよ」


その時、電話の向こうからばたばたと足音が響いた。


『じいちゃん!』


ヴィットリオの眉間に皺が寄る。


「……なんだ」


『俺も! 俺も手伝う!』


「てめぇは駄目だ!」


間髪入れずに返した。


『早くない!?』


「聞くまでもねぇ」


『俺だって――』


マルコが静かに口を挟む。


「私の方からもお願いします。保護されていてください。ややこしいので」


『ややこしい!?』


「あなたが勝手に動くと、こちらの仕事が増えます」


『俺だって潜入お手の物だぞ!』


部屋が静かになった。


ヴィットリオが額を押さえる。


「だから駄目だっつってんだろ」


「能力のプレゼンをしないでください」


ルカもため息をつく。


「あなたの場合、潜入というより侵入でしょう」


『似たようなもんじゃん!』


「違います」


三人の声が重なった。


電話の向こうで、エリザの笑い声がした。


『ほら、やっぱり駄目だって』


『でも、じいちゃんが――』


「テオ」


ヴィットリオの声が低くなる。


電話の向こうが静かになった。


「今回は待て」


『……でも』


「待つのも仕事だ」


少しの沈黙。


『……分かったよ』


まるで納得していない。


ヴィットリオはそれ以上追及しなかった。


「で」


ヴィットリオがルカを見る。


「向こうに俺が孤立したと思わせりゃいいんだろ?」


「簡単に言えば」


「だったら、俺とお前が切れりゃいい」


ルカが目を細める。


「切れる?」


「表向きにな」


ヴィットリオは机を指先で二度叩いた。


「娘一家が爆発に巻き込まれた。ジュゼッペは死んだ。なら俺は、誰かに責任を押しつけたくなる」


ルカの顔が露骨に嫌そうになる。


「その“誰か”が私ですか」


「他にいねぇだろ」


「嬉しくない信頼ですね」


「光栄に思え」


「嫌ですよ」


マルコが二人を交互に見た。


「具体的には?」


ヴィットリオはあっさり言った。


「とりあえず俺たちは、目に見えるところで殴り合いだな」


沈黙。


ルカが眉を寄せる。


「……わざとらしくないですか?」


「骨折るレベルでやりゃあいいだろ」


「待ってください」


マルコが即座に止めた。


「なぜ演技の程度を調整する基準が骨折なんです?」


「本気に見えるだろ」


「本気にならないでください」


ルカが深く息を吐く。


「仮にやるとしても、私は主力足り得る人員ですよ。そこで本当に骨を折られたら病院待機なんですが」


「若ぇんだから治る」


「敵が完治まで待ってくれるなら苦労しませんよ」


『ええのぉ。若いもんは元気で』


「お前も他人事みたいに笑ってんじゃねぇ!」


『わし今死んどるからの』


「便利ですね、その設定!」


マルコがこめかみを揉んだ。


「分かりました。喧嘩そのものは使えます。ただし、怪我をする前にこちらが止めます」


「分かった分かった」


ルカがぼそりと言う。


「今の返事、一番信用できないやつですね」


ヴィットリオが睨む。


「なんか言ったか?」


「聞こえたなら聞かないでください」


作戦そのものは合理的だった。


サーシャたちを守りきれなかったことでヴィットリオが激怒する。


警護を担っていたルカと決裂。


人前で殴り合い。


警察が介入し、双方を拘束する。


《灰潮》から見れば、ロマーノの周囲が完全に崩れ始めたように映る。


問題があるとすれば。


この二人には、芝居の種として使える程度の不満が、本当に山ほどありそうなことだった。


*


数日後。


ヴィットリオの怒声が、人目のある場所に響き渡った。


「お前が見張ってたら、爆弾なんざすぐに気づいただろうが! なんのためにお前に頼んだと思ってる!」


ルカが顔をしかめる。


ここまでは予定通りだった。


《灰潮》に見せるための決裂。


それだけのはずだった。


「この土地で二度目まで使うとは思わないんですよ!」


ルカも声を張り上げた。


「一度目でも十分異常だ! この辺りの地盤を理解してる連中なら、なおさら二度目なんて選ばねぇ!」


「実際使われただろうが!」


「結果論で言うな!」


少し離れた場所で待機しているマルコは、まだ動かない。


今のところは予定の範囲だ。


たぶん。


「雨のあとにあれだけの振動入れたら、下手すりゃ斜面ごと持ってかれるんですよ! 敵も味方も関係なく巻き込む! そんな真似、普通はしねぇ!」


「普通は、だろうが!」


ヴィットリオが怒鳴り返す。


「敵がバカの可能性まで入れて警護するのが、お前の仕事だろうが!」


「無茶言うな!!」


「実際そのバカがやっただろ!」


「結果見てからなら何とでも言えるだろうが!」


「結果出る前に止めるために、てめぇに頼んだんだろ!」


「マフィアに所属しておいて、そんなことも分からないアホがいると思います!?」


ヴィットリオは一瞬たりとも迷わなかった。


「いるから読めねぇことが起きんだよ!」


ルカの眉間に深い皺が刻まれる。


「組織に入ってりゃ全員賢くなると思ってんのか!」


「最低限の判断力くらいはあると思うでしょうが!」


「ねぇ奴が混ざるから事故るんだよ!」


「そんな奴まで想定しろって!?」


「するんだよ!」


ヴィットリオが一歩踏み込んだ。


「敵が賢い時だけ考えてりゃ、最後はバカに殺されるぞ!」


「だったら先に言えよ!」


「言って分かるなら二十年前に分かってる!」


「またそれか!」


ルカの声音が変わった。


マルコが僅かに身を起こす。


今の台詞は予定にあっただろうか。


「それに俺が直々に警護についてたら、逆に狙われる可能性が高くなるから距離を取らなきゃいけないの、あんたも分かってたでしょうが!」


「だからって見落としていいとは言ってねぇ!」


「何のために距離を取ったと思ってんだ!」


ルカがさらに一歩詰める。


「裏から遠ざけるためでしょうが!」


ヴィットリオの顔から、演技の怒りが消え始める。


代わりに本物が浮かんだ。


「サーシャをちゃんとカタギとして扱わせるために、俺まで必要以上に近づかないようにしてたんでしょうが!」


「それと守れねぇのは別だ!」


「見捨ててねぇから今まで裏から見てたんだよ!!」


敬語が消えた。


マルコが隣の捜査官へ視線を送る。


「……あれ、まだ予定通りですよね?」


「……たぶん」


「たぶん?」


ルカはもう止まらない。


「距離を取れって言ったのはあんただろ!」


「だから見捨てろとは言ってねぇ!」


「見捨ててねぇっつってんだろ!」


「だったら爆弾くらい気づけ!」


「無茶言うな!!」


「できねぇなら最初からできねぇって言え!」


「言ったらどうせ“やれ”って言うだろうが!」


「当たり前だ!」


「ほら見ろ!!」


ヴィットリオが鼻で笑った。


「何十年面倒見てやったと思ってんだ」


ルカのこめかみが引きつった。


「……それ」


「あ?」


「それだよ」


「何がだ」


「いつまでガキ扱いする気だ!」


「俺から見りゃガキだろうが!」


「こちとらずっとガキ扱いされてるのによ!」


ヴィットリオの目が細くなる。


「口の利き方に気をつけろ、クソガキ」


ルカの口元が引きつった。


「うるせぇぞ、じじい」


一瞬。


周囲の音が遠のいた。


ヴィットリオの口角がゆっくり上がる。


「……上等だ、クソガキ」


踏み込みはヴィットリオの方が早かった。


左肩が沈む。


ルカが反射的に顔をずらした直後、拳が頬を掠める。


そのままヴィットリオが懐へ入った。


ルカの腕は長い。


近すぎれば、その長さは使いにくい。


「っ……!」


腹へ短い拳が入る。


ルカが一歩退いた。


だが、次は距離を取らせない。


ヴィットリオが追う。


ルカは迫ってきた腕を外へ流し、長い左腕を伸ばした。


拳がヴィットリオの肩口へ入る。


鈍い音。


ヴィットリオの身体が半歩横へずれた。


「……軽ぃな」


「黙れ!」


「まだ手ぇ抜いてんだろ」


ルカの眉が跳ねる。


「六十八のじじい相手に本気出せるか!」


「だからガキだっつってんだよ!」


ヴィットリオが再び踏み込む。


ルカが今度は先に動いた。


長い腕を活かして間合いの外から拳を飛ばす。


ヴィットリオは肩で受ける。


その横から二発目。


頬を捉えた。


ヴィットリオの顔が横へ弾かれる。


一歩。


二歩。


それでも倒れない。


口元を親指で拭い、ルカを見る。


「今のはちったぁマシだな」


「褒めてんじゃねぇ!」


ルカが踏み込んだ。


体格差。


年齢差。


三十年。


ヴィットリオが経験で捌いても、長くは続かない。


ルカの腕は外から届く。


脚も長い。


少しでも距離が開けば、その分だけルカの間合いになる。


ヴィットリオの拳が空を切った。


ルカが上体を引く。


そのまま前へ戻る勢いで拳を返した。


ヴィットリオの胸元へ入る。


「ぐっ……!」


身体が後ろへ流れる。


ヴィットリオが舌打ちした。


ルカが追う。


「どうした、じじい!」


「調子乗んな」


ヴィットリオが横へ動いた。


そして、足元へ視線を落とす。


ルカも追った。


そこに転がっていたものを見た瞬間、嫌な予感が走る。


「……おい」


ヴィットリオが腰を落とした。


手が伸びる。


鉄パイプを拾い上げた。


「おい!!」


「なんだ」


「予定にないことすんな!」


「うるせぇ!」


鉄パイプが横薙ぎに走った。


ルカは上体を大きく引く。


鼻先を冷たい風が抜けた。


「てめぇ……!」


一歩詰めようとしたところへ、返すように二撃目が飛ぶ。


ルカは前腕を立てた。


金属が腕へぶつかる。


「っ!」


重い衝撃で腕が外へ流された。


ヴィットリオが踏み込む。


「ほら見ろ!」


「何がだ!」


ルカが腕を戻すより早く、鉄パイプが下から返された。


腰を捻って避けようとした。


僅かに遅い。


脇腹へ、硬い衝撃がまともに入った。


「ぐっ……!」


肺から空気が抜けた。


ルカの身体がくの字に折れる。


足が一歩。


二歩。


後ろへ下がる。


片手が反射的に脇腹を押さえた。


息を吸った瞬間。


鋭い痛みが肋骨の奥を走った。


「……っ、てめぇ……」


ヴィットリオは鉄パイプを片手に立っている。


「まだ青っちいな、クソガキ」


ルカがゆっくり顔を上げた。


「そこまでやる話じゃなかっただろ……!」


「喧嘩始めといて何言ってやがる」


「始めたのはてめぇだろうが!!」


ルカが動いた。


痛みで右脇腹が引きつる。


それでも一歩が大きい。


ヴィットリオが鉄パイプを持ち上げる。


間に合わない。


ルカの長い左腕が、その外側から先に届いた。


拳が頬へ入る。


鈍い音。


ヴィットリオの頭が大きく振られた。


「っ……!」


足元が揺れる。


それでも踏ん張った。


「効かねぇな」


「じゃあ、こっちはどうだ!」


ルカが軸足を踏み替える。


長い脚が大きな弧を描いた。


最後まで、力は抜いていた。


肋骨を狙わない。


頭も狙わない。


それでも三十八歳の男が振った脚だった。


蹴りがヴィットリオの胴へ入る。


「ぐっ!」


ヴィットリオの足が地面を離れた。


大きな身体が横へ弾かれる。


二、三歩たたらを踏み、最後は肩から地面へ転がった。


鉄パイプが手から離れる。


甲高い音を立てながら、石畳の上を滑っていった。


「そこまで!!」


マルコの声が響いた。


同時だった。


待機していた捜査官たちが一斉に飛び出した。


一人が鉄パイプを蹴り退ける。


別の二人がルカの左右へ回る。


「離せ!」


ルカの両腕が後ろから押さえ込まれた。


「動かないでください!」


「離せ!!」


「モレッティさん!」


「俺はこのクソじじいに、もう一発入れねぇと気が済まねぇ!!」


「十分入れたでしょう!」


「足りねぇ!!」


ルカが前へ出ようとする。


だが二人がかりで肩を引かれた。


脇腹に痛みが走る。


「っ……!」


それでもまだヴィットリオを睨んでいる。


反対側では、倒れたヴィットリオが起き上がろうとしていた。


頬がすでに赤く腫れ始めている。


脇腹にも鈍い痛みが残っていた。


だが骨がやられた感覚はない。


「放せ!」


捜査官が肩を押さえる。


「ロマーノさん、動かないで!」


「あのクソガキ締めねぇと気が済まねぇんだよ!」


「あなたも十分でしょう!」


「足りねぇ!」


マルコが二人を見比べた。


「なんで同じこと言ってるんですか!」


「一緒にすんな!」


「一緒にすんな!」


声まで重なった。


一瞬の沈黙。


ルカが先に怒鳴った。


「真似すんなクソじじい!」


「てめぇが後から言ったんだろうが!」


「離せ! 一発! あと一発だけ!」


「駄目です!」


「一発でいい!」


「その一発で、さっき人が吹き飛んだでしょう!」


ヴィットリオも捜査官の腕の中で身体を起こそうとする。


「俺にも一発やらせろ!」


「あなた鉄パイプ使ったでしょう!」


「それとこれは別だ!」


「何が別なんですか!」


マルコがとうとう額を押さえた。


「……予定以上に仲が悪いですね、あなたたち」


「仲良くねぇ!」


「誰がこんなクソガキと!」


また重なる。


「だから同時に喋らないでください!」


*


診察が終わった頃には、ヴィットリオの頬ははっきりと腫れていた。


医師が画像を確認する。


「ロマーノさんは打撲ですね」


ヴィットリオが鼻を鳴らした。


「骨は?」


「異常ありません。頬と胴に内出血がありますので、しばらく腫れと痛みは残るでしょう」


「ほら見ろ」


隣の診察台に座っていたルカの眉が動いた。


「何が“ほら見ろ”だ」


医師が次の画像を見る。


そして淡々と続けた。


「モレッティさんは、肋骨が一本折れています」


沈黙。


ルカがゆっくりとヴィットリオを見る。


「…………」


ヴィットリオも見る。


「一本だろ」


「俺、あんたには手加減したんですよ」


「知ってる」


「知ってて鉄パイプで骨折ったんですか?」


「だからまだ青っちいっつってんだ」


「このクソじじい!!」


ルカが立ち上がろうとした。


「座ってください」


医師に即座に止められる。


「骨折しています」


「こいつ殴るくらいならできます」


「できません」


ヴィットリオが笑う。


「ほら、座ってろクソガキ」


「誰のせいだと思ってんだ!」


マルコが深いため息を吐いた。


「つまり」


二人の視線が向く。


「モレッティさんは手加減した結果、ロマーノさんを吹き飛ばして打撲と内出血」


「ええ」


「ロマーノさんは、その手加減に気づいたうえで鉄パイプを使い、モレッティさんの肋骨を折った」


「そういうことだ」


「納得すんな!!」


ルカの怒声が診察室に響いた。


医師がもう一度言う。


「安静にしてください」


「俺は主力戦力だって言ってんだろ、じじい!」


「若ぇんだから治る」


「骨の治癒速度に三十八歳への期待を込めるな!」


「一ヶ月もありゃ――」


「待ってくれる敵なら苦労しねぇんだよ!!」


マルコがこめかみを押さえる。


「私は怪我をする前に止めると言いましたよね」


ルカが睨む。


「止めませんでしたよね!?」


「どこまでが予定通りか分からなかったので」


「途中から見りゃ分かるだろ!」


「鉄パイプを持った時点では、さすがに入ろうとしましたよ」


「遅ぇ!!」


ヴィットリオが腕を組む。


「全部予定通りだ」


ルカとマルコが同時に見る。


「どこがだ!!」


「どこがですか!!」


ヴィットリオは腫れ始めた頬を気にも留めず、口角を上げた。


《灰潮》から見れば。


ジュゼッペたちは死亡。


サーシャ一家は爆破に巻き込まれた。


その責任を巡って、ヴィットリオとルカは決裂した。


人前で殴り合い。


警察が介入。


ヴィットリオには顔や身体に明確な打撲。


そして、ルカ・モレッティは肋骨を一本折っている。


少なくとも。


これを見て、仲良く芝居をしていると思う者はそう多くないだろう。


問題はただ一つ。


途中から当人たちも、芝居だったことを忘れていた。


*


※作中の舞台シチリア周辺は、粘土質の地層と砂岩層が重なるなど、降雨後には地盤が不安定になりやすい土地です。大きな振動が加われば、斜面崩壊などの二次災害へつながる危険があります。


そのためルカは「地質を理解している組織なら、同じ地域で爆発物を繰り返し使用する可能性は低い」と判断していました。


一方、ヴィットリオは長年の経験から、


「人間が必ず合理的に動くとは限らない」


と考えています。


賢い敵だけを想定していれば、最後に予想を外してくるのは、理屈通りに動かない人間なのです。

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