第8話 背負うべきもの
「現在、コスタ夫妻の車が爆破された後、ほかの地域でも治安の悪化が進んでいます」
マルコは机の上に数枚の資料を広げた。
荒らされた店。割られた窓。路地に残された血痕。
それらの写真に混じって、ここ数日で報告された事件が時系列に並んでいる。
「確認できている時点で、恫喝、暴行。そして一部の闇マーケットに薬物が流れ込み始めています」
ヴィットリオの表情から、わずかに軽さが消えた。
「……動きが早ぇな」
「あなたの逮捕で生まれた空白を、一気に埋めに来ていると考えるべきでしょう」
ヴィットリオは舌打ちした。
自分がこの街を守っていた、などと思ったことはない。
正義感で裏社会に立っていたわけでもない。
ただ、自分の街を勝手に荒らされるのが気に食わなかった。
薬を売る。
無関係な人間を巻き込む。
力のない相手を食い物にする。
自分の縄張りで好き勝手する連中を、ヴィットリオが許さなかっただけだ。
それが結果的に、一定の秩序になっていた。
そして、その蓋が外れた。
「ルカ」
ヴィットリオが隣を見る。
「お前の方で資金源止められねぇのか」
ルカは手元の端末を操作し、画面を数度切り替えた。
「追っています。ただ、この組織はシチリア内部だけで資金を回しているわけではないようです」
「どういうことだ」
「本島側からも集めています。流れ自体はいくつか掴めていますが、経路が多い。名義も分散しているので、確実に潰すのはかなり難しいですね」
ヴィットリオが眉を寄せた。
「蛇口が一個じゃねぇってことか」
「ええ。一本止めても、別から流れます」
「面倒くせぇな」
ヴィットリオが椅子へ深く背を預ける。
マルコはその反応を見てから、一枚の資料をヴィットリオの前へ滑らせた。
「ですので、資金を追うだけでは時間がかかります」
ヴィットリオが目だけを向ける。
「こちらから相手を動かします」
「……俺を使う気か」
マルコは頷いた。
「ロマーノさん。あなたに囮になっていただきます」
「危険です」
ルカが即座に口を挟んだ。
声はいつも通り落ち着いている。
だが、眉間にははっきりと皺が寄っていた。
ヴィットリオが横目で見る。
「そりゃ囮だからな」
「そういう意味ではありません」
ルカはヴィットリオを真っ直ぐ見た。
「向こうはすでにサーシャたちを狙っています。そこへボス本人が姿を見せれば、食いつく可能性は高い。ですが、何を仕掛けてくるか分かりません」
「だから出るんだよ」
「ボス」
「俺が表に出りゃ、その分あいつらから目が逸れるんだろ?」
マルコが慎重に答える。
「その可能性は高いです」
「ならやる」
「まだ条件の説明が――」
「やる」
迷いはなかった。
ルカが何かを言いかけて、唇を閉じる。
ヴィットリオは机の上の資料を見下ろした。
「俺が始めた世界だ」
その声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「孫に、その勘定を払わせる気はねぇ」
部屋が静かになる。
マルコはしばらくヴィットリオを見てから、別の書類を取り出した。
「もちろん、こちらも命を懸けてもらって終わり、というつもりではありません」
「何だ」
「今回の捜査へ全面的に協力すること。無事に生還すること。そして今後、一切の犯罪行為へ関与しないこと」
マルコはそこで一度言葉を切った。
「その条件を守るのであれば、残りの人生を家族と過ごせるよう、司法側との特例措置が認められる方向で話が進んでいます」
ヴィットリオの目が、わずかに細くなった。
「……つまり?」
「簡単に言えば、家族と老後を過ごしていいということです」
ヴィットリオは何も言わなかった。
ほんの数秒。
だが、ルカにはその沈黙が長く感じられた。
「……サーシャと、孫のそばにいられるのか」
「条件を守る限りは」
ヴィットリオは鼻からゆっくり息を吐いた。
「……悪くねぇな」
「ただし」
マルコが続ける。
「定期的な監視と報告義務は付きます」
ヴィットリオの顔が一瞬で嫌そうになった。
「台無しじゃねぇか」
マルコが呆れたように眉を上げる。
「そりゃ、ここを牛耳っていたドンですよ」
「……」
「なんで監視がないと思ったんです」
「ちょっとくらい期待するだろ」
「しません」
「即答すんな」
マルコは資料を閉じた。
それから、少しだけ声を低くする。
「ジュゼッペさんみたいなことは言いたくありませんが――」
その名前に、ヴィットリオの眉がぴくりと動いた。
「あなたの遺産のせいで、また血で血を洗うようなことが起きてほしくないんですよ」
ヴィットリオから、冗談めいた空気が消えた。
「……遺産、ね」
「金だけの話ではありません」
「分かってる」
名前。
人脈。
恐怖。
四十二年かけて築いた力関係。
自分が消えてもなお、それを欲しがる人間がいる。
「……だったら、俺が片付けるしかねぇな」
ヴィットリオはそう言ってから、隣へ視線を向けた。
「それにな」
ルカが顔を上げる。
「お前なら分かるだろ」
「……何がです」
「大事なもんが狙われてんのに、自分だけ安全な場所に座ってられるか」
ルカは何も言わなかった。
視線を落とし、数秒。
ゆっくり息を吐く。
「……では、私も出ます」
「なんでそうなる」
「今の話を聞いて、私だけ座ってろと?」
「お前はカタギだぞ」
「知ってます」
「だったら残れ」
「嫌です」
「即答すんな!」
マルコが額を押さえた。
「一応、モレッティさんにも同行してもらう合理性はあります。向こうがあなたをロマーノさんの側近と認識している場合、二人同時に動けば注意を引ける可能性は高い」
ルカが少しだけ顎を上げた。
「ほら」
「ほらじゃねぇ!」
ヴィットリオがルカを睨む。
「つーか、お前死んだら会社どうすんだよ」
「テオ君に任せますよ」
「は?」
マルコまで顔を上げた。
ルカは至って真面目だった。
「観察眼と記憶力はありますし」
「……あいつに?」
「まあ、情報収集能力はクソですけど」
「ダメじゃねぇか!」
「でも、あの運動能力があれば、セキュリティだけでやっていけますよ」
ヴィットリオの眉間に深い皺が寄る。
「会社じゃなくて部署単位じゃねぇか!」
「全部任せるとは言ってません」
「さっき任せるって言っただろ!」
「育てれば、です」
「条件後出しすんな!」
ほんの一瞬だけ、張り詰めた部屋の空気が緩んだ。
*
その頃。
ジュゼッペの家では、テオとエリザが窓際で話していた。
避難生活にも、ほんの少しだけ慣れてきた。
もちろん自由に外へ出られるわけではない。
家にいる時間が増えれば、自然と顔を合わせる時間も増える。
「……ルカさんに、格闘技でも教えてもらおうかな」
テオがぽつりと言った。
エリザが横を見る。
「ルカさん?」
「うん」
「急にどうしたの?」
テオは膝の上で手を組んだ。
「あの人さ、じいちゃんから信頼されてんだよ」
少しだけ視線を落とす。
「俺も、あんな風になれたら良かったのに……」
エリザが眉を上げた。
「ああ。なんか右腕とか噂されてた人?」
「そう。ルカさん」
「私はよく知らないけど……体格は良さそうよね」
「強いらしいよ。じいちゃんから格闘技も教わってたって」
「へえ」
「それだけじゃなくて、会社も自分でやってるし。じいちゃんが何かあると頼るのも、あの人なんだよ」
テオは少し笑った。
どこか自嘲するような笑いだった。
「俺なんか、じいちゃんの孫ってだけで調子乗ってたのにな」
エリザはすぐには返さなかった。
「……なんで過去形なのよ」
「え?」
「“なれたら良かった”って」
テオが顔を上げる。
「今からでもいいじゃない」
「今から?」
「ルカさんに教えてもらえば? 格闘技でも、仕事でも」
テオは少し考えたあと、小さく頷いた。
「……そうだな。頼んでみようかな」
「まずは窓から病院に入る以外の使い道を覚えなさいよ」
「あれ結構役に立っただろ!」
「普通は役に立たせる状況にならないのよ」
テオが笑った。
エリザも、つられて小さく笑う。
その顔を見た瞬間、テオの表情が少し変わった。
「……やっと笑ってくれた」
「え?」
「俺らが来てから、ちょっとピリついてただろ」
エリザの笑みが、ほんの少し止まる。
「……そんなに分かりやすかった?」
「前より肩に力入ってたし」
テオは少し視線を落とした。
「ごめんな」
「何が?」
「俺らが来たせいで、巻き込んだだろ」
エリザは一瞬黙る。
それから、小さく息を吐いた。
「別に、あんたのせいじゃないでしょ」
「でも――」
「それに、言い出しっぺはおじいちゃんだしね」
テオが黙った。
「……確かに」
「普通に“うち来りゃええ”って言ってたじゃない」
「じいさん強ぇな……」
「今さら?」
二人とも少し笑った。
「だから、あんたが全部背負わなくていいの」
「……うん」
エリザはそこで、少しだけ意地悪そうに目を細める。
「まあ、しばらくはおじいちゃんの名前でナンパするのやめなさい」
テオの顔が引きつった。
「……まだそれ言う?」
「言うわよ。あれ一番ダサかったもの」
「そんなに!?」
「“俺のじいちゃんヴィットリオ・ロマーノなんだぜ”で女の子が落ちると思ってたの?」
テオは少し考えた。
そして、そっと目を逸らす。
「……ちょっと」
エリザは呆れたように息を吐いた。
「それは本当にやめた方がいいわね」
「そんな真顔で言う?」
「真顔にもなるわよ」
テオは肩を落とした。
少しして、今度は自分から話題を変える。
「お前、酒場とか行くの?」
「あまり行かないわ。でも、なんで?」
「なら、ルカさんがいるとすぐ分かるんだぜ」
「どういう意味?」
テオが少し身を乗り出す。
「喋りかける前から、女の人が目で追ってるのが分かるんだよ」
「そんなに?」
「うん。なんか、“ヴィットリオの再来”とか言われててさ」
エリザが少し考える。
「私はルカさんを知らないけど、同性のあんたから見てもそういう判断になるなら、とてもすごい人なんでしょ?」
テオは素直に頷いた。
「うん。なんか違うんだよ。落ち着いてるっていうか、余裕があるっていうか」
「へえ」
「じいちゃんも昔めちゃくちゃモテたらしいし。まあ、今はばあちゃん一筋だけど」
エリザが少しだけ笑う。
「そこはちゃんとしてるのね」
「そこはって何だよ」
「他に色々あるでしょ」
「否定できねぇ……」
エリザはテオをじっと見た。
頭から足元まで、一度確かめるように。
「じゃあ、あんたはまずそこからね」
「何が?」
「落ち着き」
「え?」
「あんたが酒場にいても、落ち着きのない犬みたいに見えるから」
「犬!?」
エリザは少し考えた。
「……大型犬」
「サイズまで決めんな!」
エリザが吹き出す。
テオも文句を言いながら笑った。
しばらくして、笑い声が落ち着く。
テオは窓の外へ視線を向けた。
「まあ……じいちゃんが実際に関わってきた人生を想像すると、確かに名前使ってナンパしてたのはダサかったけどさ」
エリザが黙って続きを待つ。
「今回ので俺、やっと分かったんだよ」
テオの指が、膝の上で少し強く組まれる。
「じいちゃんが、あんなやべぇ奴らから俺たちを遠ざけるために、ずっと命張ってたんだって」
さっきまでの軽い声ではなかった。
「いつも何でもないみたいに言ってたんだよ。昔のことも、危ないことも。笑って、適当に流して」
テオは少し苦く笑った。
「だから俺も、大したことじゃないんだと思ってた」
一度、息を吐く。
「俺……何も知らなかった」
「……」
「じいちゃんの名前使って偉そうにしてたくせに、その名前を守るために何してきたのか、何も知らなかったんだよ」
エリザはしばらくテオを見ていた。
「……今気づいたなら、これから知ればいいんじゃない?」
テオが顔を上げる。
「知らなかったことより、知ったあとどうするかの方が大事でしょ」
テオの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「……お前、たまにすげぇこと言うな」
「たまにって何よ」
「褒めてる」
「褒め方、まだ四十点ね」
「まだ四十点!?」
エリザが笑う。
テオも笑った。
「でも、じいちゃん好きなのは変わんねぇし」
「そこは別に悪くないでしょ」
「だろ?」
「ナンパに使うなって言ってるの」
「そこだけ!?」
また少し笑う。
それからテオは、窓の向こうへ広がる街を見た。
「俺は俺なりにさ」
「うん」
「誇れるものとか、守りたいものとか。ちゃんと見つけるよ」
エリザが隣で静かに聞いている。
「まだ、どうやったらいいか分かんねぇけど」
テオは街から目を逸らさなかった。
「俺も、この街が好きだから」
少しだけ間があった。
「……そっか」
エリザの表情が柔らかくなる。
「じゃあ、そこは同じね」
*
日が落ち、港沿いの街灯が一つずつ灯り始めていた。
ヴィットリオは海に近い通りを、ゆっくり歩いている。
少し離れた場所にはルカ。
さらに周囲には、目立たない形で警察の部隊が配置されていた。
潮の匂いを含んだ風が、ヴィットリオのコートを揺らす。
本人は散歩でもしているような顔だった。
だが、視線だけは絶えず周囲を拾っている。
一人。
こちらを見ている男がいる。
離れた場所からついてくるだけ。
仕掛けてこない。
ヴィットリオは歩調を変えないまま、通信へ低く呟いた。
「監視みてぇのはいるけど……囲われてねぇな」
少し間を置く。
「ルカ、そっちはどうだ」
『こちらも同じ感じですね』
ルカの声が返ってくる。
『監視はいるようですが、それ以外は誰も……』
そこへマルコの声が入った。
『こちらの部隊もあなた方を見ています。腕に刺青のようなものが見える者を一名確認。ただ、それ以外に不審な動きは観測できていません』
ヴィットリオの眉がわずかに寄った。
「……妙だな」
『ええ』
ルカの声も低くなる。
『食いついてはいます。でも、仕掛けてくる気配がない』
「なら何見てやがる」
その時だった。
ヴィットリオのポケットの中で携帯が震えた。
表示されたのは、知らない番号。
数秒画面を見てから、通話を取る。
「誰だ」
しばらく返事はなかった。
やがて、低い男の声がした。
『せっかく外に出てくれたところ悪いな、ヴィットリオ』
ヴィットリオの歩みが、ほんの少しだけ遅くなる。
「……誰だ」
『今日は、お前じゃない』
ヴィットリオの目が細くなった。
「何をした」
電話の向こうから、小さな笑い声が漏れた。
『見てりゃ分かる』
その瞬間。
街の向こう。
住宅地の一角で、白い光が瞬いた。
ヴィットリオの目が見開かれる。
一拍遅れて、重い音が港まで届いた。
腹の底を揺らすような、低い衝撃。
遠くで黒煙が立ち上る。
ヴィットリオは、その方向を知っていた。
「……ベッリーニの家だ」
ルカが振り返る。
いつも崩れない表情から、血の気が引いた。
『爆発確認!』
マルコの声が通信へ飛び込む。
『ベッリーニ邸付近です!』
ヴィットリオが完全に足を止めた。
「俺の家族は!」
怒鳴り声が港の風を切る。
「サーシャは!? テオは!」
誰もすぐには答えられない。
ヴィットリオの拳が震えた。
「あのバカは!? 生きてんのか!」
ルカが即座に端末を取り出す。
誰を指しているのか、聞くまでもなかった。
「確認しています」
「今すぐだ!」
「ベッリーニさんも含めて――」
「“も”じゃねぇ!」
ヴィットリオが振り返る。
「全員だ!」
その怒声の向こうで。
まだ繋がったままの電話から、笑い声が聞こえた。
『はは……っ』
ヴィットリオの動きが止まる。
『はははは……!』
喉の奥で引っかかるような、妙に耳につく笑い方。
その瞬間、遠い記憶が一気に引き戻された。
四十二年前。
まだ自分が二十六だった頃。
潰した組織。
血まみれの大人たち。
そして、牢の中からこちらを睨みつけていた少年。
刺青はなかった。
見た目だけなら、十歳を少し越えた程度。
大人の構成員たちと並んで仕事をしていた記憶もない。
あまりにも若かった。
だから殺さなかった。
後にこちらへ飛びかかってきた時だけは、容赦なく叩き伏せたが。
ヴィットリオの目が鋭くなる。
「……お前」
電話の向こうで、また笑う。
ヴィットリオの記憶が繋がった。
「……あの時のガキか」
一瞬、笑い声が止まった。
『……やっと思い出したか』
ヴィットリオは、遠くに上がる黒煙を睨んだ。
「思い出してみりゃ、お前……ルカを拾った時より小さかったかもな」
電話の向こうが、急に静かになった。
『……ルカ?』
「今の俺の右腕だ」
『俺とそいつを一緒にするな』
声の奥に、初めてはっきりと苛立ちが混じる。
ヴィットリオが眉を上げた。
「別に一緒にしてねぇよ」
『俺はあの頃からファミリーの人間だった』
今度はヴィットリオが黙った。
「……そうだったのか」
『知らなかっただろ』
「知るか。刺青もねぇし、どう見てもガキだったぞ」
『だから生かしたってか』
ヴィットリオはすぐには答えなかった。
遠くの炎を見つめる。
「俺はな、これから先のあるガキは殺さねぇ」
一拍。
「……まあ、今回は間違えたみてぇだな」
そこで、ヴィットリオ自身の眉がわずかに寄った。
「……いや」
『何だ』
「違ぇな」
電話の向こうが黙る。
「殺さなかったことが間違いだったんじゃねぇ」
ヴィットリオは低く息を吐いた。
「その後、放っといたことだ」
『……今さら何を』
「あの頃の俺には余裕がなかった。自分のことで精一杯だった」
二十六歳。
撃たれ。
死にかけ。
自分の組織をまとめ。
敵を潰し。
生き残ることだけで精一杯だった。
殺さなかった子供が、その後どこへ行くのか。
何を学ぶのか。
どんな大人になるのか。
そんなところまで、見る余裕はなかった。
「でも、それで済む話じゃなかったみてぇだな」
電話の向こうで、男が低く笑う。
『四十二年経って説教か?』
「説教じゃねぇよ」
ヴィットリオの声は静かだった。
「俺の失敗の話だ」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがて男が口を開く。
『あのスリにも借りがあったからな』
ヴィットリオの目が細くなる。
「……ジュゼッペ?」
『あいつがお前を拾わなきゃ、四十二年前に全部終わってた』
ヴィットリオの拳が強く握られた。
『お前の娘も、孫も、あのスリも。まとめて消えたなら悪くない』
ヴィットリオの顔から、感情が消える。
低く、低く。
「……次は俺か」
『そのつもりだ』
「だったら来い」
『随分余裕だな』
「余裕なんざねぇよ」
ヴィットリオは黒煙から目を逸らさない。
「ただ――」
一度だけ、息を吐いた。
「今度は逃がさねぇ」
通話が切れた。
*
港に、海風の音だけが残った。
ヴィットリオは携帯を握ったまま動かなかった。
そこへ、マルコの声が通信から入る。
『現地では現在、消火活動が行われています』
ヴィットリオが顔を上げた。
『ただ、建物の損壊が激しく、内部は瓦礫に埋もれている状態です。救助隊が入っていますが――』
一瞬。
マルコの声が止まる。
『生存確認は、まだできていません』
次の瞬間。
ヴィットリオの膝から力が抜けた。
拳が地面へ叩きつけられる。
一度。
もう一度。
さらに、もう一度。
鈍い音が何度も響いた。
「ボス」
ルカが息を呑む。
それでもヴィットリオは止めなかった。
遅かった。
読みが浅かった。
自分が外へ出れば、家族から目を逸らせると思った。
相手が自分を見ている。
だから本命も自分だと、どこかで決めつけていた。
その甘さを、自分の拳へ刻み込むように。
何度も。
何度も。
「……クソが」
掠れた声が漏れる。
もう一度、拳が落ちる。
「俺が……もっと早く――」
「ボス」
今度はルカが腕を掴んだ。
ヴィットリオが振り払おうとする。
ルカは離さなかった。
「それ以上はやめてください」
「離せ」
「嫌です」
「ルカ」
「まだ、何も確定してません」
ヴィットリオが動きを止める。
ルカはそのまま腕を掴んでいた。
「だから今は、自分を殴る時間じゃない」
しばらく、ヴィットリオは何も言わなかった。
やがて拳を握ったまま俯く。
その手の甲には、赤い傷が浮いていた。
その時。
携帯が震えた。
二人が同時に画面を見る。
知らない番号。
ヴィットリオは一瞬だけ迷い、すぐに通話を取った。
「……誰だ」
電話の向こうから。
聞き慣れた、間の抜けるほどいつも通りの声がした。
『わしじゃ』
ヴィットリオの目が見開かれる。
「ジュゼッペ!?」
ルカも顔を上げた。
ヴィットリオは立ち上がる。
「お前、どこにいる!!」
一拍。
老人は、本当に何でもないことのように答えた。
『二軒先じゃ』




