第八話 実地研修を終えて
秋のG1のシーズンに入る少し前、いつもの調教を終えた華音は汗を拭いながら厩舎へと戻ろうと歩いていた。
(今年の残暑厳し過ぎない? 秋はどこなのよ……。体力持っていかれるんだよね……。だからってガッツリ食べたら無駄に体重増えるかも知んないし、でも体力考えたらしっかり食べなきゃだし)
来月の一週目にはG1スプリンターズステークスが開催される時期だというのに、調教をしていると汗が滝のように流れる。
(厩舎に戻って……水分補給をして……。それから……)
頭の中で予定を確認しながら歩いていると、同じく調教が終わってヘルメットを取りながら歩いている源田を見掛けた。
(あ、源田さんだ)
スプリンターズステークスに出る馬の追い切りをしていたのだろう。考え込むような難しい顔は学校で見た時と同じであった。
眉間の深い皺が怖さに拍車をかけているように思える。
(普段の源田さんを知ってる訳じゃないけど、難しい顔してる源田さんって近寄り難いんだよね……)
挨拶をしなくてはとは思うが腰が引けてしまい立ち尽くしていると、源田が華音に気づいた。バチッと目が合い華音が無言で深く頭を下げると源田はスタスタと近付いて来た。
(アワワワ。ど……どうしよう。えっと……えっとぉ……。な……何か言わないとっ‼ 何か言わないとっ‼)
華音が内心大慌てで言葉が出ずにいると、源田は少し低目の声で話し出した。
「お前……確か三嶋って名前だったよな? 競馬学校の生徒の」
「は……は……はいっ‼ 三嶋華音です。お疲れ様です、源田さん」
声が震え体が緊張し無意識に背筋が伸びる。騎手として大先輩でありリーディングジョッキーと言う実績を知っているからだろう。
華音の上擦った声に、源田の表情が少し緩んだ。
「別に獲って食おうってんじゃないんだから、そんなに緊張すんなって」
(そんな事を言われても無理だよぉ……。先輩だよ? リーディングジョッキーだよ?)
何とか表情を和らげようとするが、頬がピクピクと引きつっているような気がする。
源田は苦笑いを浮かべながらポリポリと頬を右の人差し指で掻いた。そして、小さく息を吐いて華音を真っ直ぐに見た。
「ま、良いか。お前が調教してんの見たけど成長したな」
「え? あ……あ……あ……ありがとうございますっ‼」
唐突に褒められ、これ以上ない程に頭を下げてしまった。
「強いて言うなら、もう少し体を前に……仙骨と肩甲骨が同じ位置になるぐらいの方が良いと思うぞ。安定するからな」
「え?」
「こんな感じだ」
源田は自分の体を使って説明してくれた。華音は源田の体勢を真似てみる。
馬に乗らずに騎乗姿勢を取るとふらつく生徒や新人が多い中、キチッと騎乗姿勢を取り維持する華音を源田はジッと見る。
(こいつ、やるじゃないか。筋肉の付き方は成長してないかと思ったが内筋が付いたのか?)
ふと思い華音の背に手を乗せて少し揺らしてみた。少しふらついたが姿勢を崩さなかった。
「三嶋。もう少し姿勢を低く出来るか? 鐙を踏んだ感じと同じぐらいに」
「はいっ‼」
華音は少し膝を曲げてみた。
(えっとぉ……。これぐらい……)
「そうだ。そんな感じだ」
「ふぅ……くっ……」
だんだんと辛くなり、苦しげな声が漏れてしまう。だが、しっかりと体を安定させるようにしていると、華音はふらついてペタンと尻もちを付いた。
「はぁ……はぁ……」
「大丈夫か?」
「はい……。き……きついですね……」
華音は思いっきり息を吸って立ち上がると、脹脛や太腿の筋肉に疲労を感じる。源田に言われた姿勢は慣れないが、安定していたなと華音は思った。
「木馬に乗って何度かやってみて、合わないって思ったら無理はするなよ? 危ない乗り方をさせるつもりはないからな? いきなり馬ではやるなよ? 落馬して乗れなくなるのは嫌だろ?」
「はい。ありがとうございました」
華音が深々と頭を下げると源田は手を振りながら、厩舎の立ち並ぶエリアに向かっていった。
(仙骨……かぁ……。もう少し体を前で……。肩甲骨と仙骨が同じ位置……)
厩舎での仕事が終わった華音は何度も頭の中で教えられた事を復唱しながら寮へと戻った。
翌日から華音は源田の教えられた事を自分の物とすべく、何度も何度も電動木馬に乗ってフォームを調整していった。
「もう少し前に……。あ、この辺? うん。何か良い感じがする」
キツい事はキツいのだが、スッと体が嵌まる位置があるのに気づいた。だが、ピッタリとその場所に安定させられない。
そろそろトレセン栗東での実地研修が終わると言う頃、華音は源田の教えられたフォームを自然に出来るようになってきていた。
華音の騎乗姿勢の変化は古川も感じていた。
栗東での実地研修最終日。
「三嶋」
「はい。調教師」
「騎手に女とか男は関係ねぇ。技術があるか、ないか。根性あるか、ないかだ」
「はい」
「あの鳥元って奴に勝つのは大変だろうけど、肩を並べるぐらいになって帰ってこいよ。期待してるからな?」
「はいっ‼ ありがとうございましたっ‼」
華音は深々と頭を下げた。
(帰ってこい……? 期待してる……? 私、古川調教師に認めてもらえたのかな?)
見掛けは怖いし、口調はキツいし、ミスった時の怒号は震え上がる程怖いが、褒めるところは褒める。
良い師弟関係が築けたと思いたい。
目の奥がジワリと熱くなる気がした。
「お世話になりましたっ‼」
古川は再び深々と頭を下げた華音の卒業を待ち遠しく思うようになっていた。




