第三十話 悪夢なんて見たくない
華音は騎手控室の隅で何度も何度も深呼吸をしていた。
(うはぁ……。深呼吸のし過ぎで、口も喉もカピカピだ……)
ふと顔を上げると、響太がピンクと黒の勝負服を着て目の前に立っていた。
(え? ちょっと、それ陽介さんのところの……。あれ? 陽介さんフォル以外に馬出してたっけ……? え? 私聞いてないけど……)
周りを見れば、詠一や源田、小園までピンクと黒の勝負服を着ていた。しかも全員が無表情で華音を見詰めている。
「ええーっ⁉ 何でっ? 何で皆、私と同じの着てんのよぉーっ⁉」
自分でもビックリするような大声が出た華音はガバッと身を起こした。
「あ……あれ? ゆ……夢……? 夢……だったんだ……」
キョロキョロと見回すとどう見ても寮の自室だった。ホッと息を吐いてダイワスカーレットのポスターを見る。
自分の鼓動が異常に速くなっているのに気がついた。
(私、どれだけ追い詰められてんの……? こんな夢ばっかり見るとかぁ……)
古川にフォルチュンヌの次走はG1と告げられて驚きはしたけどやはり嬉しいと思っていたのに、精神的にいっぱいいっぱいだったのだろうかと頭を抱えた。
(駄目だ、駄目だ。先輩達に経験値や技術で劣ってる私が気持ちで負けたらフォルは勝てないっ! 前を向けっ! 弱気になるなっ!)
パンッと両頬を叩いて気合いを入れてから時計を見た。時刻はまだ午前二時を少し過ぎたところだ。
(夏時間なら起きても良いけど、今は冬時間だしな……。もう一回寝よ……。もう変な夢見ませんように……。昔、おじいちゃんに聞いたよね。悪い夢は人に話せば良いって。よし、明日響太達に話してみよう)
華音はボフッと枕を鳴らして、再び眠りについた。
「は?」
「え?」
「お前……」
調教終わりのスタンドで、響太と詠一と源田に今朝見た夢を愚痴ると三人は呆れたような顔をした。
ただ話を聞いて欲しかったのに、あまりにも呆れた顔をされた華音はうどんを食べていた箸を折れんばかりに握り締める。
「仕方ないでしょ? 調教したりレースに出たりしてる時以外は、ジュベナイルフィリーズの事が頭にあるんだもんっ!」
華音は盛大に頬を膨らませた。
「一昨日はフォルがゲートを出ない夢だったし、その前はフォルだと思って乗ったらノワールだったしさ」
「あのな、三嶋……。ノワールは二歳でもないし、牝馬でもないぞ?」
「んな事、分かってるわよぉー。夢よ、夢っ! 整合性が取れなくて当たり前じゃないー」
響太の呆れた顔にグーパンを入れたい気持ちになったがグッと堪えた。
ブンむくれながらうどんをすすっていると、後ろからガシッと頭を掴まれた。
「そんなにG1がプレッシャーなら、俺が乗ってやっても良いんだぞ?」
「小園さんだけは絶対に嫌です」
華音は振り向きもせずに答えた。声は小園だったし、頭を掴むなんて事をする先輩はただ一人しかいないと確信しているからだ。そして、再びチュルチュルとうどんをすする。
「おまっ! やっぱ可愛くねぇなっ!」
「小園さんに可愛いなんて思ってもらわなくても結構です」
「お前、まだ尻の事を根に持ってんのかよぉー」
「一生根に持ちます。来世でも根に持ちます」
「来世までっ⁉ 焼き肉おごってやったのにっ⁉」
「それはそれ。これはこれです」
頭を掴まれているまま華音は再びうどんをチュルチュルとすすりはじめる。源田はゲラゲラと笑い、響太と詠一は小園が先輩という事もあり、下を向いて必死で笑いを堪えている。
「チェッ。俺、ジュベナイルフィリーズは騎乗馬がいないから乗ってやろうかと思ったのに」
華音の頭から手を離した小園は向かいの源田の隣に座った。
「小園さん。フォルに乗ろうとしても噛まれるか、蹴り飛ばされるか、あわよくば乗れたとしても振り落とされますよ?」
「え゙……。何だっけ? 『我が儘暴走ヤンチャ猫かぶり姫フォルチュンヌ』だっけか?」
源田がニマニマと笑いながら言うと、小園は顎に手を当て思い出しながら言った。
既に定着したフォルチュンヌの二つ名に華音は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「風見なんて頭の天辺をガブッてやられかけて、禿げる寸前でしたからね」
「風見。お前、フォルに食われかけたのか?」
源田と小園に言われて詠一はその時の事を思い出したのか、薄っすらと青ざめながらコクコクと頷いていた。
「詠一が大丈夫だろーとか言ってヘラヘラ笑って近づくからだよ」
「俺……、もう二度とフォルにはむやみに近寄らねぇ……」
響太が詠一の腕を引っ張るのが一秒でも遅れていたら、詠一は丸坊主にしなければならないぐらいに一箇所が短くなっていただろう。
その現場にいた源田は口をポカーンと開けて、ハッとしてフォルからかなり距離をとったのだ。
「フォルは賢くて大人しい良い子なのになぁー」
(そう思ってんのは、お前だけだと思うぞ?)
(月城馬主と古川調教師と担当厩務員が無事なのが不思議なぐらいだ)
響太と詠一は冷めた目で華音を見詰めていた。
「三嶋は猛獣使いだって、レッテル貼られるのも時間の問題だな」
「誰が猛獣使いですかっ!」
小園はニヤッと笑ってシレッと言う。
キャンキャンと言う華音にヒラヒラと手を振りながら小園は一目散にスタンドから出て行った。
「むぅ……」
響太達や源田達に笑い飛ばしてもらえたからか、その日から華音は変な夢を見なくなった。
華音とフォルチュンヌのジュベナイルフィリーズへの出場は三日後に迫っていた。




