第二話 憧れてるから知りたい
「ん? 競馬中継見てたのか? 子供が見るモンじゃ……」
「え? あ、パパ。ねぇ、『ひんば』って何?」
華音は声のした方に振り向き、近付いて来た博則のズボンを引っ張りながら訊ねた。ビックリしたのは博則である。
愛娘が競馬中継を見ていた事にも驚いたし、声を掛けた自分のズボンを引っ張りながら『牝馬とは何か?』と訊いて来たのだから。
「え? あぁ、牝馬な。雌の……女の子の馬の事だよ」
「女の子の馬を『ひんば』って言うんだ」
「そうだよ。で、牝馬がどうかしたのか?」
博則は華音の手からズボンを救出し、ソファーに座ってテレビを消した。既に競馬中継は終わっていて次の番組との間のCMが流れている。
「あのね、一等賞だった馬の名前が『ダイワスカーレット』っていうの。その子が牝馬って言われてたんだよ。女の子が勝ったのが三十七年振りなんだって」
「あぁ、有馬記念やってたのか。忘れてたな。それで、ダイワスカーレットが勝ったんだな?」
華音は興奮したままの状態で今度は博則のポロシャツの裾を掴んだ。買ったばかりのポロシャツを愛娘にグイグイと引っぱられ、どうしたものかと悩みながらも叱れない博則は華音を落ち着かせようと頭を撫でた。
「男の子の馬と女の子の馬が一緒に走って女の子が勝ったんだよ。凄いねっ!」
「うん。まぁ、体力とかの関係で牡馬……男の子の馬が勝つ事が多いんだ。でも、女の子でも強い子も居るんだよ」
華音はようやく落ち着いて来たのか、博則のポロシャツから手を離してテーブルに置かれたドーナツと牛乳をジッと見ている。
(冬休み前にまた男の子にからかわれたのかな……? 妙に『強い女の子』って言うのに興奮してたようだけど……)
華音が何度も男の子と衝突しているのは朱音から聞いていた。博則自身も学校側に申し出をしたが、一部の男の子達は華音にチョッカイをかけるのを止めなかったのだ。
(私……ダイワスカーレットみたいに格好良くて、男の子にも負けない強い女の子になりたい……)
華音は脳裏に焼き付いたダイワスカーレットの勇姿を思い出しながらドーナツを食べ牛乳を飲み干した。
(どうしたらダイワスカーレットみたいになれるかな? ……分かんない事はパソコンで調べれば良いんだよね?)
大掃除の最中にパソコンを使う事を躊躇した華音は、後日父母の居ない時にリビングに置いてあるパソコンを使おうと考えた。
ダイワスカーレットの事を調べたくてウズウズしていた華音だったが、冬休みの宿題を後回しにする事は性格的に無理であり、宿題と共にせがんで行かせてもらっている英語塾のテキストも年内に終えた。
さすがに正月は祖父母や従兄弟が遊びに来たりしていてパソコンをいじる時間が取れずにいた。
「ダイワスカーレット……。あの馬の事を知りたい……。何であんなに強くなれたのか……強くなる為にはどうすれば良いのか知りたい」
暇さえあれば華音の頭の中には先頭を突っ走り他の馬を置き去りにし、一着でゴールしたダイワスカーレットの映像が繰り返し流れていた。
年が開けた二〇〇九年一月四日
朝食後、華音はリビングでくつろいでいた博則に声をかける。
「パパ。今日はお昼からママとお買い物に行くんだっけ?」
「ああ。明日から仕事だしな。華音も行くだろ?」
「行きたいんだけど、理科の宿題が終わってなくて。でね、パソコン使って良い?」
華音はリビングの隅にあるパソコンを指差して訊ねた。博則は愛しい娘と出掛けられるとウキウキしていたのにと肩を落とす。
「宿題かぁ……。そうだよな。パパと出掛けるより宿題しなきゃだもんな」
『宿題』と言う言葉を利用して華音はパソコンを使おうと画策したのだった。
(パパ、嘘吐いてごめんなさいっ! でも私どうしてもダイワスカーレットの事を知りたいの。パパ、競馬中継を見てた時に子供がぁーって言ってたからダイワスカーレットの事を調べたいって言えないんだもん……)
「分かった。使い終わったらちゃんとシャットダウンしてカバー掛けておくんだぞ? ちゃんと宿題するなら華音の好きなシュークリーム買ってきてやるからな?」
「ありがとう、パパ。大好き」
華音にギュッと抱きつかれ博則の目尻は下がりまくる。
昼食を済ませた博則と朱音は車で買い物に出掛けた。共働きである為、日曜日になると一週間分を買い込むので時間が掛かるのを知っている華音は、玄関で二人を見送ると鍵を掛けてリビングへと走った。
「パソコン点けて……プリンターの準備もしなきゃ」
書き留める時間が惜しいと思い、調べたページを順にプリントアウトする作戦だった。普段からパソコンを使い慣れている華音は迷う事なく検索を始める。
「色々あるー。あ、ダイワスカーレットの写真もプリントアウトしておこうっと」
検索しては印刷をするを繰り返していく。その内に騎手についての記述が気になった。競馬を知らない華音は大事なのは馬の強さだと思っていたが、書かれている内容を読んでいるうちに騎手への興味も湧いてきた。
「馬が勝手に走ってるんじゃないんだ……。騎手って重要なんだ……」
一通り馬の事を調べた後、華音は騎手についても検索をしてプリントアウトし始めた。途中、何度も用紙を補充しながらせっせと調べて印刷をする。大体の印刷を終えた華音は検索履歴の削除を始めた。
「検索履歴残しておいたらダイワスカーレットの事を調べてたのバレちゃうもんね」
騎手の事も調べはしたものの、やはりダイワスカーレットへの興味が一番だった。生まれた場所や父母の事や普段居る場所。知りたい事はどんどん多くなり、プリントアウトした用紙はかなりの量があった。
「うん。これで履歴は消せたよね。で……と」
華音は理科の教科書を見ながら、そこに書いてある言葉を検索してはページを閉じていく。
「これで良しっと。パパやママが検索履歴を見ても理科の宿題してたって思うよね」
物心がついた頃からパソコンがある生活をしていた華音には難なく出来る事だった。
華音はプリントアウトした用紙の束を大切そうに抱えて一度自分の部屋へと運んだ。思った以上に時間が掛かってしまい、いつ父母が帰って来ても良いようにと言う判断からだ。
自室の勉強机の上に紙の束を置いて再びリビングへ戻った華音はプリンターの電源を落とす。続いてパソコンの履歴を再確認して消し漏らしがないのをチェックするとシャットダウンしてカバーを掛けた。
「お風呂済ませたらプリントアウトしたのを読もうっと」
華音が全てのチェックを終えてリビングを出ようとドアを開けた時、駐車場に車が帰って来た音が聞こえた。華音は勝手口を開けて、父母の買って来た荷物を受け取る準備をする。
「華音、宿題はちゃんと済ませたの?」
「うん」
「そうか。シュークリーム買って来たから一緒に食べような」
「ありがとう。パパ、ママ」
愛娘が競走馬に興味津々である事に気付いていない二人は留守番が出来た上に宿題を済ませたと言う娘の頭を撫でた。
(パパ、ママごめんなさい。華音は悪い子です)
風呂を終えた後、華音はプリントアウトした物を読み始める。ダイワスカーレットの事やサラブレッドの事。競走馬になる為に馬がどのような訓練をしているかなど多岐に渡った。
「ダイワスカーレットもいっぱい頑張って練習したんだ。凄いなぁ……。予後不良……? 予後不良ってなんだろう? 分かんない事は後から調べるようにメモしておこう」
いくつか難しい漢字や言葉が出て来て、八歳の華音には難しかったが電子辞書で調べて読み進めて行った。ただ、学校の宿題や予習等を優先しなければならず、全部読み切るまでにはかなりの時間を要した。
そして、次第に競馬がどう言う物であるかが分かって来た。
「私でも分かる……。子供が興味を持っても良いかどうかって事ぐらい。私、馬に関係する家の子じゃないもん。パパもママも普通のサラリーマンだし……」
競馬は公営ギャンブルだ。だからサラブレッドの事や競馬の事を調べている事は知られてはいけないのだと子供なりに思った。細心の注意をはらい隠しておいた資料を何度も読んだ。そして、成績が悪くなってはいけないのだとも思った。
「成績が悪くなったら絶対ダイワスカーレットの所為にされちゃう。ダイワスカーレットの為にも成績上げなきゃ」
ショックだったのは競走馬の引退の時期だった。
「競走馬の引退って、こんなに早いんだ……」
そして、いつしか華音は騎手に憧れるようになった。馬という言葉の通じない生き物をいかに上手く走らせるか。そんな事を出来る騎手は凄いのだと思うようになった。
「でも……何で女の子の騎手は少ないんだろう……」
過去にも現在にも女性騎手は居る。だが圧倒的に少なかった。体力的にも筋力的にも女性は男性に敵わないのかも知れない。
「でも……。私、騎手になりたい。いつか、私のダイワスカーレットに出会って、その子と一等賞取りたい」
何の伝手も縁もない一般家庭で生まれ育った華音。そんな華音が一頭の牝馬を見て感動した気持ちが騎手に憧れ夢を見る事になった。巡り合わせと言うものは不思議なものだった。




