第十八話 未勝利最低人気
十一月の末になり、華音が憧れる有馬記念の話がアチコチで聞かれるようになった。
ハァーと華音は溜め息を吐きながらスタンドへ向かった。
(あぁ……。有馬記念だよ、有馬記念……。私、いつ出られるかなぁ……)
あの馬が出るだろうとか鞍上は誰じゃないかとかスタンドでも漏れ聞こえて来ていた。
「三嶋」
「あ、響太。お疲れ」
スタンドに入った華音に響太が声をかけてきた。華音も響太も頬が真っ赤だ。
「お疲れ。マジ寒いよな。なぁ、うどん食わないか? おごるよ」
「え? 良いの?」
「任せろ」
響太は重賞を勝った賞金の半分を実家の両親にプレゼントするんだと言っていたが、両親に断られたと相談されたのは先月の話だ。
しばらく考え込んでいたようだが、最近は吹っ切れたようで元気だ。
「やったぁー。私、キツネうどんー。ネギ大盛り山盛りで」
「おぅ」
響太は先に立って歩き出す。
「ん? ん?」
「どうした? キツネうどんじゃないのが良いとかか?」
「じゃなくて。響太、ほんの少しだけど背が伸びた?」
「え? あぁ、2センチぐらいかな?」
「まだ伸びてるんだ……」
「減量がキツくなるから、もう止まって欲しいんだよな」
後ろを歩いていて、微妙に目線が違う気がしたのだ。
「そうだよね。斤量は融通きかないしさ」
「だろ?」
華音と響太はうどんの丼を受け取り、近くの空いていたテーブルに置いて椅子に座った。
ふわっと出汁の匂いが腹の虫を刺激する。
「お前、よく気づいたな。詠一なんて全然何も言わなかったぞ?」
「まぁ、毎日一緒にい過ぎて変化に気がつかないとか。あ、男ってそんなものじゃない?」
「そんなモン?」
素っ気なく言って響太はうどんをすする。
華音はネギをツユに沈めてパクパクと食べ始めた。
「おごってもらって食べるうどんは最高に美味しい」
「お前なぁ……。ま、良いけど。なんでネギを沈めてんの?」
「ツユの温かさで少し柔らかくなるのが好きなのよ」
「へぇー。俺はシャキシャキが好きだけどな」
ホクホク顔でうどんを食べる華音に響太はホッとしていた。
(夏に何かあったみたいだけど、すっかり元気になったしな)
チュルチュルと美味そうにうどん食べる姿は競馬学校時代と変わってはいない。一度バッサリと切った髪も、前の長さと同じぐらいになっている。
「ハァー。重賞出られないまま今年が終わるなぁー」
「ん? ああ、もう十二月だもんな」
「デビュー年に重賞獲るとか、響太が頑張ってるのを見せつけられたな」
「華音だって頑張ってるじゃないか。勝ち鞍だって勝率だって同期じゃ上位だし」
華音の愚痴にそう言って響太はズズズーと出汁のきいたツユを飲む。
「まぁ、ね。完璧に納得が出来たかって訊かれたらそうでもないけど、それでも今私が出来る精一杯でやってるよ」
響太はツユを飲むのを止めて華音に訊ねた。
「お前の一年目の目標って何勝だったっけ?」
「……六十」
丼を持った手がビクリと震え丼からツユが溢れる。
「響太っ! 溢れてるっ!」
「あっ!」
「布巾っ! 布巾っ!」
「ああっ! 服にもっ!」
華音は近くにあった布巾でテーブルを拭く。響太は首にかけていたタオルで服を拭った。
「響太らしくないドジだね」
「あ……、ああ……」
響太は苦笑いを浮かべながらタオルで拭いていた。
周りの先輩騎手達がクスクス笑っていた。
(年六十勝って……。まぁ、目標だから良いけど……。六十ってレジェンドクラスだぞ?)
デビュー年で三十勝はJRA賞最多勝利新人騎手としての受賞条件である。
華音はそれの倍は勝ちたいと思っていたのだろう。
「響太はもう三十超えてるよね。今四十三だっけ? 新人騎手特別賞はもらえるんだよね」
「え? ああ、そうだな。三嶋は三十まで後いくつだっけ?」
響太の問に華音の手がピタリと止まった。
華音は少し言い淀んだが、小さな声で答えた。
「後……四つ……」
華音の言葉に響太はニッと笑った。
「三嶋なら獲れるって」
「そう……かな?」
「三嶋の最近の騎乗依頼の数と勝率からして後四つは絶対いけるって、俺は思うぞ」
「ありがとう、響太」
同期の励ましに華音は嬉しくなった。お世辞や気休めなんて言う事がない響太だから尚更だ。
(うん。そうだよね。諦めるにはまだ早いって。焦っても、諦めても良い事はない。頑張れ、私)
新しい布巾をもらってきてもう一度テーブルを拭いていると、若手の調教師が華音に声をかけてきた。
「お、三嶋いたいた。阪神の1R空いてるか?」
「いけます。丁度、阪神の依頼もらってるんで」
「そうか。良かった。ダートでちょいズブい奴なんだけど。俺、ダートのお前の騎乗はイケるって思ってるから。頼むな」
「はいっ! 精一杯やらせていただきます」
華音が深々と頭を下げると、響太がポンと肩を叩いた。
「チャンス増えたな」
「うん。頑張らなきゃ」
華音を励ましながらも、うどんのツユくさい布巾をギュッと握り締めている華音を見てゲラゲラ笑った。
✤✤✤
後日、阪神の1Rで最低人気単勝602.9倍となっていた華音の騎乗馬だった。
(この子は力がある。ただ、砂をかぶるのが嫌なんだよね。外枠だし……)
スタートは上手いのだが、エンジンのかかりは悪い。
調教をしていた時の事を頭の中で組み立てた事をやってみようと思った華音の見事な騎乗で一着になった。
案の定、観客席からは盛大に溜め息と罵声が聞こえた。
「なんで、お前が来るんだよっ⁉」
「あ゙あ゙ーっ! 金返せぇーっ!」
「お前っ! 最低人気だっただろうがっ!」
ゴールした華音は真面目な顔をして戻って来た。
(へへーん。私はやれるんだから。それに馬券は自己責任なんだからね)
内心ではそんな事を思っていたその時だ。
「三嶋ぁーっ! よくやったぞっ!」
「ありがとなーっ! 今日は良い昼飯食えるぜーっ!」
怒声の響き渡る中で確かに華音を称える声が聞こえた。
(あ……、あ……。やった、やったよ。これって、私がやれるって他の調教師や馬主さんにアピールになったよね? 何より、お客さんに褒めてもらえた事が嬉しい……。嬉しくてたまんないよ……)
胸が熱くなる。涙が浮かびそうになるのをグッと我慢した。
カンカン場に入ると調教師が声をかける。
「三嶋。良い走りだったぞ。本当にやるじゃないか」
「ありがとうございます。調教師が良い状態にしてくださったからです」
「俺達が良い仕上げにしても、屋根がへっぽこじゃ話にならんからな」
優しい笑顔に華音は頑張って良かったと思った。
『新馬や未勝利はとにもかくにも一勝させてやらなきゃな。その後の馬生の為にも、な』
先輩騎手に言われた言葉が思い出される。
斤量で優遇された華音が鞍上を務め、一勝した後はベテランが乗るかも知れない。
だが、これでこの馬が未勝利引退しなくて済んだんだと思うとホッとした。
「馬主も喜んでるし。お疲れ」
「はい」
華音は晴れやかな気持ちで後検量へ向かった。




