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いつかあの頂上(てっぺん)に  作者: 志賀 沙奈絵


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第十五話 心の傷薬


 騎手の大先輩とその先輩の子息四兄妹と先輩騎手達と先輩と付き合いのある調教師達という、とんでもなく場違いだと新人騎手の華音は目を白黒させながら大人しく座っていた。


(こ……これは夢を見ているのでは……)


 視線を上げれば壁一面の大先輩の功績が鎮座している。


「三嶋。緊張しなくても良いんだぞ?」

「は……はい」


 声をかけてくれる先輩騎手の小園こぞの健人けんとにも緊張してしまう。実績もあり源田よりも年上なのだから、今まで気さくに話した事もない。


「健人くん。そんな無茶言わないであげてよ。華音ちゃんはまだ若いんだからね?」

「そうだったな。お前と比べたら、大抵の女の子は繊細だからな」

「ムカつくぅー」


 明日も早朝から調教があるというのは分かるが、真っ昼間に酒を酌み交わしゲラゲラと笑っている面々の中で、華音のチビチビとオレンジジュースを飲んでいた。


 しばらくして多少緊張感が薄れてきた華音が目をとめたのは、部屋の奥の壁に飾られていた蹄鉄やサイン色紙の数々だ。


「ふふふ。気になる?」

「え? あ、奥……じゃなくて春香さん」

「あれは私の個人的な宝物よ」


 空になった皿を重ねながら、優しい笑顔を向けてくれる。


「個人的な……」

「私の……鷹羽春香としての人生の歴史みたいなものね」


 華音は立ち上がり、順番に見ていった。若い頃のデートのような写真の他に二人と馬と一緒の写真もある。その横には使い込まれた蹄鉄が立てかけてあった。


「この蹄鉄はこののですか?」

「ええ。カームが引退した時にいただいたものなの。大きな馬だったけど甘えん坊で可愛かったわ」

「カームって、鷹羽さんが初めてのG1菊花賞を獲った……」


 春香は深く頷いた。


(確か、菊花賞を獲ってプロポーズをしたんだって、騎手関係の古い記事を読んだなぁ……)


 騎手のなり方などを検索をしていて、一番多く目にしたのは数々の最年少記録を打ち立て、早くに結婚をし子供をもうけた『稀代の天才鷹羽雄太』の記事だった。


 そして、その妻である春香の優しい笑顔に、なぜか心がポカポカとする気がした。


(なんだろ……? この感覚……)


 ゆっくりと一つ一つ説明してくれていた春香がジッと華音を見詰めていた。


「あの……何か?」

「三嶋さん。ちょっと良いかな?」

「え? なんでしょうか?」


 華音が内心焦っていると、源田がこちらを見ながら吹き出した。


「春香さん。またですか?」

(え? また? またって……何?)


 訳が分からず源田と春香を交互に見る。


 気がつけば宴会をしていた全員が忍び笑いをしている。


(ちょっ……。何っ?)


 春香はニコニコと笑いながら華音の手をとりスタスタと歩いて、出入り口近くのシンプルなドアを開けた。


 中を覗いた華音の目が点になる。


(え? 何? ここは……整体屋さん? マッサージ屋さん? え? でも、先輩の家の地下……だよ?)


 長椅子のようなベッドらしき物や大きな椅子が置いてある。


 春香はドアを閉めながらニッコリと笑う。


「覗いたら足裏マッサージ一時間……だからね?」


 部屋にいた男性陣は苦笑いを浮かべながらコクコクと何度も頷いていた。春香の向こう側の様子を見ていた華音は吹き出しそうになってしまった。


 パタンと軽い音を立ててドアが閉まり、春香は優しく微笑む。


「さてと、三嶋さん。服はそのままで良いから、ここにうつ伏せに横になって」

「あ、はい」


 何かよく分からないままに華音はベッドに上がり横になった。


「楽にしててね?」


 春香の手が華音の背中に乗せられ、上から順に触れていていく。シャツ越しにでも分かる温かい手が時々止まり、何かを確認しているようだった。


「うん、分かった。少し痛いと思うけど我慢出来なかったら言ってね?」

「え? あ、はい」


 春香が肩甲骨の少し下をクッと押した。


「ウクッ!」

「やっぱり。ここ痛いでしょう?」

「うう……。何で分かるんですか……?」

「ん? 触ったら分かるよ? 次はここね」

「ンアッ!」


 背中から腰。太ももからふくはぎ。小さいが柔らかな手がゆっくりと筋肉が解されていった。


(うわぁ……。気持ち良い……。全身がとろけるって感じがする……。でも、こってるとか違和感とかなかったんだけど……)


 しばらくすると最初は痛かった部分も柔らかくなったと自覚が出来るぐらいになった。


「あのね、三嶋さん。変な事を言ったらごめんね」

「はい?」

「何か悩み事あるんじゃない?」


 華音の胸がドキリとした。


「あの……」

「悩みやストレスがある人は無意識に体に余計な力を入れている事があるの。三嶋さんみたいに若いのに、妙に筋肉の強張こわばりが取れなくて、それをカバーしようとして違う所にコリが出たりす……」


 気がつけば華音は泣いていた。春香は華音の震える背中に手を置いて優しく擦ってくれた。


「私……」

「言いたくなければ無理に言わなくても良いの。ただ、私は三嶋さんが騎手として頑張ってるのを見たり聞いたりしてるわ。この先も活躍してくれるのを願ってるの。私、真剣に競馬に向き合ってる人を応援したいの」


 優しく、小さな子供に言って聞かせるように話す春香に、身を起こした華音は縋り付いて泣いた。


 同期の響太にも詠一にも相談出来なかった事を全て春香に話した。




「そう……。嫌な思いしたのね」

「私……、私は女である事が嫌になって……。でも……女を辞めるなんて出来ないのが……悔しいって思ったりして……」


 春香は子供にするように、優しく優しく背中をトントンと叩いていた。


 その優しい手の温もりと抱き締めてくれる腕に甘えてしまっていた。


「大丈夫。大丈夫よ。貴女は強くなれるわ。今まで以上に活躍出来る」

「どうして……分かるんですか……?」


 華音は涙を流しながら春香の顔を見た。


「女の勘よ」

「へ?」


 『女の勘』という根拠のない事を大真面目な顔で言われ、一瞬時が止まったようだったが、次の瞬間華音は思わず吹き出した。


「ふ……ふふふ。あはは」

「あら、そんなにおかしい?」


 笑いが止められなくて言葉を発せられない華音は先程とは違う涙を浮かべていた。


「私の勘は意外と当たるのよ? それに、三嶋さんは笑えたでしょう?」

「え……、あ」

「ならもう大丈夫よ。もし、また何かあったらここにいらっしゃい。一緒にご飯食べたり、お茶しましょう」

「はい。春香さん」


 何ヶ月ぶりかの笑顔だった。胸の中にあった鉛のように重く苦しめていた物がどこかへいってしまったような気持ちがした。




(さすが春香さん……。心の傷薬は健在だな)


 微かに漏れ聞こえる華音の笑い声に源田はホッと息を吐いた。雄太のほうを見ると優しげな笑顔を浮かべ頷いていた。


 この日を境に華音は更に勝ち鞍を上げていくようになった。そして騎乗依頼もしっかり増えていくのだった。







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