ロスヴィータとノア③
「ダメだ、ロジー!」
「ダメよ、ロジー!」
屋敷に、公爵夫妻の声が響く。
二人は閉ざされた扉の前に立ち、中にいるロスヴィータに向けて必死で訴えた。
「ロジー、馬鹿な考えはよせ。な? 父さんがなんとかしてやるから、な?」
「そうよ、ロジー。
今度は我が家からあの方に頼んでみましょうよ。そしたらきっと、ね?」
けれど、部屋の中のロスヴィータからはなんの反応もなかった。
「そうだ、お前の大好きなピンクトルマリンの鉱山をやろう。
どうだ? 前から欲しがっていただろう?」
「あ、あなた?」
公爵が、突然すごいことを言い出して、夫人は少し狼狽えた。
たしかにロスヴィータはピンクトルマリンを欲しがっていた。
が、それは加工された宝石が欲しいのであって、原石、ましてや鉱山が欲しいわけではない。
しかもピンクトルマリンの鉱山は、夫人が降嫁した際、皇家から持参したものなのだ。
「あなた? あれは私のお嫁入りの……」
夫人が公爵の袖口を摘み、小声で不満を訴える。
「致し方あるまい。あれがあれば、彼奴も……」
「……そ、そうですわね。
たしかに一度断っているのですもの。それくらいの誠意を見せないと……」
夫人は自身を納得させるようにつぶやいている。
「ロジー! 聞こえているか!?」
公爵が必死で問いかけるも、やはり中からの返事はない。
二人が途方に暮れていると、
「バルコニー……」
と、小さな声が耳に届いた。
二人は同時にその声がした方へ振り向く。
先程、ダイニングへ駆け込んできたロスヴィータ付きのメイドが、表情のない顔を上げて二人に言った。
「も、もしかして、バルコニーから――」
――っっ!!
二人は息を飲んだ。
それから競い合うように階段を駆け下りる。
歳をとったとはいえ、公爵は若い頃それなりに鍛えていた。
少し息を切らしてはいるが、公爵は屋敷から庭へ飛び出すとそのまま三階を見上げた。
幸い、ロスヴィータの部屋のバルコニーに人影はなかった。
「護衛を庭に回せ!
あの子がヤケを起こさないように、すぐに!」
「あなた! ハァ、ハァ……」
そこへようやく、ドレスの裾を持ち上げた夫人が髪を振り乱して駆け寄ってくる。
本来、貴婦人は走ったりしない。
まして彼女は元王女だ。
こんなに息を切らしたのは、きっと彼女の人生において初めてのことかもしれない。
「あなた! ハァ、今からカウフマン伯爵家に、ハァ、ハァ、遣いを出しましょう?」
妻のその言葉に、公爵はもう一度バルコニーを見上げた。
夕食時をとうに過ぎ、空はすでに宵闇に包まれている。
「しかしだな、斯様な時間に遣いなど……」
――その時だった。
屋敷の正門から、蹄の音が鋭く響いた。
闇を裂くように現れた一騎の馬が、砂を蹴り上げて庭先に滑り込む。
「っ……!」
公爵が息を呑む。
手綱を引いた男は、馬が止まるや否や飛び降りた。
外套を翻したその姿を見た瞬間、夫人が声を上げる。
「ノア・カウフマン!?」
淡い緑色の前髪をかき上げると、ノアは公爵夫妻に軽く頭を下げた。
「ご子息から急報が届きました故、馳せ参じました」
「「フランツから?」」
夫妻の言葉が重なる。
ノアはうなずき、正門に目を向けた。
門番に開門の指示を出したフランツが、こちらへ向かって歩いてくる。
「よくやったわ、フランツ!」
視線に手を上げて応えた息子に、夫人が声をかける。
「で、彼女は?」
ノアが短く問う。
その一言に、公爵の胸が詰まった。
本来ならば――
謝罪も、説明も、条件も、すべて並べなければならない。
だが。
「……娘を、頼む」
口から出たのは、それだけだった。
ノアはわずかに目を細める。
そして、それ以上は何も言わなかった。
――その時。
「ダメ……!」
三階のバルコニーから、悲鳴のような声が落ちてきた。
全員が見上げる。
そこには、夜風に髪を揺らしたロスヴィータが立っていた。
「イヤよ……ダメ……!」
彼女は手すりに縋るようにして、首を振る。
「……今はダメなの」
震える声。
「私は……」
その場にしゃがみ込んだ。
「ロジー!!」
夫人が叫ぶ。
公爵が駆け出そうとする、その横で――
ノアは、すでに動いていた。
地を蹴る。
その動きに迷いはない。
屋敷の外壁を蹴って、跳ね上がる。
軽い。
まるで影の者が闇を縫うような身のこなしだった。
「なっ……!」
公爵が絶句する。
チャラチャラした若造。優男。
ノアに対して抱いていた印象が、見事に崩れ落ちた。
次の瞬間にはもう、三階のバルコニーに立っていた。
そう。ロスヴィータの目の前に。
彼女は顔を上げる。
涙に濡れた瞳が、ノアを映す。
「……ダメ」
か細い声。
両手で顔を覆ったロスヴィータに、ノアは何も答えない。
ただ、一歩近づいた。
「今はダメなのに……」
震える声。
それでも、彼は止まらない。
そして――
そっと、彼女の腕を掴む。
「離して……」
弱々しい抵抗。
けれど。
「嫌だ」
短く、きっぱりと。
彼女の両腕を開いて、自分の胸に抱き寄せた。
「――待たせてごめん」
ロスヴィータの呼吸が止まる。
その瞬間、彼女の力がふっと抜けた。
崩れ落ちる身体を、ノアが抱きとめる。
「……っ、ぁ……」
押し殺していた嗚咽が、堰を切ったように溢れた。
「わたくし、今はお化粧もっ、していませんし……」
ノアは何も言わない。
「胸だって……」
そう。
ずっと部屋にこもっていたロスヴィータは、あまりにも無防備だった。
いつもの強気で、ちょっと高慢ちきなお嬢様の姿はどこにもなかった。
そこにいるのは青白い顔をした、ただのか弱い、胸のちっちゃな女の子だった。
ノアは抱きしめていたロスヴィータの両肩を一旦引き離す。
そしてまじまじとその顔を見つめ、やがて視線を下へ向ける。
愛する人の目の前に、絶壁をさらした哀れなロスヴィータ。
もはや正気を保ってなどいられず、とうとう顔をぐしゃぐしゃにして泣き出した。
「ぜんぶっ、全部嘘でしたの! ごめっ、ごめんなさい、ノア様!
わたくしっ、ノア様に好かれたくて、嘘をついておりましたの!
ヒック、引っ込みがつかなくなって、わたくしっ――」
「……愛してるよ、ヴィー」
「――っっ」
ノアはロスヴィータを再び抱きしめた。
今度は強く、そしてその泣き顔のロスヴィータに何度も優しくキスを落とす。
ぽかんと口を開け、呆けた顔をさらすロスヴィータ。
それを見て、ノアは今まで見せたこともないくらい愛おしげに目を細めて笑った。
「……ノア様?」
思考が追いつかないロスヴィータを置き去りに、ノアは彼女の前に膝をつく。
「え、嘘。待って? ワタクシ!?」
鼻水と涙に塗れた泣き顔。
部屋着のまま、髪はろくに梳かされてもいない。
昨夜のショックな出来事から、ノア様との未来はないと絶望に沈んでいたところに、まさかの――プロポーズ!?
ノアはそんなロスヴィータを見上げて、愛しげに微笑むだけ。
そしてポケットから四角いケースを取り出すと、そっと開いて見せた。
そこにはもちろん、ロスヴィータの大好きなピンクトルマリンがあしらわれた、可愛らしい指輪。
「僕のヴィー。どうか僕と結婚してくれないか?」
ただ静かに、瞬きを繰り返すロスヴィータ。
大好きなノア様が、もう六年も慕っているノア様が、跪き、今、自分にプロポーズしてくれている。
それなのに――
「うっ」
「う?」
返事を待つノアの耳に苦しげな声が届く。
感極まったロスヴィータは、口元に両手を当て、両目からはポロポロと涙が溢れて止まらない。
「ククッ」
とうとう耐えきれず笑ってしまったノアに、ロスヴィータの我慢も限界を迎えてしまった。
「うぅ、うわぁあああああ――――!!!!」
到底、乙女の泣き声とは言い難い、悲痛な叫び声がバルコニーどころか夜の庭に響きわたった。
「ひっ、貧乳でごべんなざーーい!!」
なんとも切ない、乙女の叫びだった。
庭から見守る公爵夫妻。弟フランツ。そして護衛騎士や使用人達。
誰もが唖然とする中、そっと立ち上がり、傷心の乙女を優しく抱き寄せるノア。
ツィマーマン公爵家の人々はその光景に見入っていた。
ノア・カウフマンという男がどれだけ包容力に満ち、可愛らしくも残念な彼らのお嬢様をこんなにも慈悲深く、そして大切に扱う姿に感謝の念すら覚えていた。
彼らは知る由もない。
その男が、何よりもその貧乳を愛しているということを。




