第87話 王都から
王都からの馬車は、荷の便に混じって来た。
護衛が二人。紋章は、扉に小さく入っているだけだった。門の前で降りた女は、外套を自分で畳んで、腕にかけた。
二十代の半ばになっている。六年前は、まだ十九だった。
立ち方が変わっていた。六年前のこの娘は、誰かの前に出るときに先へ半歩 詰める癖があった。詰めておかないと、話を聞いてもらえないと思っていたからだ。
いまは、詰めていない。
服は役所の者が着るものに近く、裾に泥が跳ねていた。落とす手間より、着いた時刻のほうを取った者の裾だった。
「エレノア様」
「メルヴェイユ様」
「クラリスで結構でございます」
言い淀みは、無かった。
テオドルが言ったとおりだった。六年前、この娘は言葉の途中で必ず一度 止まった。全員は無理でも、少しでも、と言いかけて、そのあとを持っていなかった。最後に会ったとき、あれは止まらなくなっていた。
止まらなくなってから、六年が経っている。
執務室へ上がるあいだ、クラリスは屋敷の中を見なかった。廊下の窓も、裏手の溝も見ない。見ずに、まっすぐ歩いた。この娘の目は、建物ではなく人に向く。すれ違った書き役の一人に、軽く会釈をしていた。
「九日 かかりました」
クラリスは、腕にかけていた外套を、椅子の背へ移した。移すときに、裾から乾いた泥が落ちた。この街の土は灰色で、峠へ上がれば白く濁る。落ちたのは、そのどちらでもない粘りのある黒だった。九日ぶんの道が、そこだけ床に残った。
「往路は、いかがでしたか」
「三日目に、雨で止まりました。東の橋のところでございます」クラリスは言った。「掲示に二日後と書いてございましたので、半日 待ちました。二日後には通れると書いてあるものは、待つ値打ちがございます」
「あの街道は、この様式ですか」
「王都の役所が板を立てております。書き方だけ、真似ております」
彼女は、それを隠さずに言った。
真似ている、という言い方を選んだのは、この娘なりの正確さだった。写したのでも、導入したのでもない。板の書き方だけを見て、同じ順に並べた。誰の許しも取っていないし、こちらには一枚も紙が来ていない。
この様式は、そうやって広がっている。使う側は、使うと決めた日を誰にも報告しない。報告する先が、そもそも無い。
執務室に入ると、クラリスは机の上を一度だけ見た。左の束と、右の束と、三つ目の束。三つ目がいちばん薄い。
「お返事を、拝見いたしました」
「はい」
「――ただし、の三文字を、お入れにならないでください」
クラリスは、それをそらで言った。
「お入れになりましたか」
「入れませんでした」彼女は言った。「入れないことにいたしました。それをお伝えに参りました」
「文でも、届きます」
「文では、届かないと思いました」
クラリスは、そこで初めて、椅子に座った。座って、膝の上で手を組んだ。
「王国は、この様式を制度にいたしません」
窓の外で、昼の便が門を抜けていった。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「二つございます」クラリスは言った。「一つは、あなたの一割が、規則にすると外れるからです」
「外れます」
「もう一つは、外れたときに、王国は直せないからです」
エレノアは、その二つ目を、そのまま受け取った。
「役所が条文を直すには、二年かかります」クラリスは言った。「上げて、通して、下ろして、各州が写して、掲示を立て替える。二年です。掲示のほうは、三日で外れます」
「三日で」
「三日でございます」彼女は言った。「隣国で、二月前にそうなったと伺いました」
エレノアは、その返事を、聞いた。
この娘は、隣国の街道で何が起きたかを知っている。冬に備えるためと書いた掲示が三日で外れて、半日で下ろされた。その話は王都まで届いている。届けたのが誰かは、訊かなかった。
クラリスは、膝の上で組んでいた手をほどいて、持ってきた紙束の端を揃えた。厚い紙が三枚ある。角が擦れて、丸くなっていた。板に挟んで運ばれた紙ではない。九日、腕に抱えて歩いた紙の角だった。
「王都は、どうなさいますか」
「掲示は、立てます」クラリスは言った。「制度にはいたしません。各区の役所が、自分のところの板に、自分の言葉で書きます。書き方だけを揃えます。区分と、数と、日と、例外の扱い。順だけ、同じにいたします」
「一割は」
「入れます」
「条件は」
「付けません」クラリスは言った。「付けずに、代わりに一行 足します。――この欄の理由は、書いた者に訊いてください、と」
エレノアの手が、机の上で止まった。
「その一行は、どちらでお考えになりましたか」
「東の橋で、半日 待っておりましたときに」クラリスは言った。「板の前に四人 立って、四人とも例外の扱いの欄を見ておりました。誰も、なぜそこが空いているのかを知りません。板を立てた役所の者に訊きましたら、上から言われた形だから、と」
「――そうでしょう」
「答えられない人が板を立てておりますと、その板は、いつか下ろされます」クラリスは言った。「下ろされる前に、答えられる人の名前を、板に書いておけばよいのです」
エレノアは、その言葉を、二度 頭の中で通した。
二十日 かけて、彼女は宛名を人でなくした。人の名を宛先にした紙は、その人が止まったところで止まるからだ。
この娘は、逆のことを言っている。理由の欄には、人の名を書いておけと言っている。
矛盾していなかった。
宛先は、場所でなければならない。人の名を宛先にすれば、その人が止まったところで紙が止まる。去年の冬に死んだ女の名前が、いまも川の向こうの表紙に載っている。
理由は、人でなければならない。理由は、条文にすると条件が付く。条件が付けば、外れる日を持つ。外れない書き方は一つしかない。書かずに、書いた者に訊けるようにしておくことだ。
二つは、別のものだった。別のものを、彼女は二十日 同じ問題として扱っていた。名前を消せば全部 解けると思い、名前を残せば全部 詰まると思っていた。
消す名前と、残す名前がある。
消すのは、宛名のほうだ。残すのは、理由のほうだった。
「クラリス様」
「はい」
「どうして、お分かりになりましたか」
クラリスは、少しのあいだ、答えなかった。
膝の上の手を、一度 組み替えた。それだけだった。この娘は、言い淀まない代わりに、間を取る。
「六年前に」彼女は言った。「あなたが、わたくしに、そうなさいました」
「――何を、でございますか」
「答えを、一度もくださいませんでした」
窓の下で、荷改めの角灯に火が入り始めていた。この時刻から、東向きの部屋には光が入らない。
「王都の帳簿を見せていただいたときも、抽選の箱を見せていただいたときも」クラリスは言った。「あなたは、どうすればよいか仰いませんでした。どこが壊れているかだけを仰って、あとは黙っておられました」
「――申し上げませんでした」
「お恨みしておりました」
彼女は、それを静かに言った。恨んでいた、という言葉を、この娘は普通の音の高さで言った。
あのころ、エレノアはこの娘を、優しさで人を殺す種類の人間だと見ていた。見ていたが、そう言わなかった。言えば、この娘は言われたとおりに直す。直したものは、この娘のものにならない。
――そこまで考えていたわけではない、と彼女は思った。
考えていなかった。ただ、答えを持っていなかった。持っていないものを渡す方法を、彼女は六年 一つも知らなかった。
「三年ほどでございます」クラリスは言った。「三年、あなたはわたくしを試しておられるのだと思っておりました。試して、落第させて、それでご自分の正しさを確かめておられるのだと」
「そうではございませんでした」
「存じております」彼女は言った。「四年目に、分かりました」
「何が、でございますか」
「わたくしが自分で決めた形が、外れなかったのです」クラリスは言った。「東区の配給の順を、わたくしが決めました。二年 もちました。二年 もったあとで、自分で直しました。直せたのは、なぜその形にしたかを、わたくしが知っていたからでございます」
エレノアは、その言葉を、聞いた。
「あなたに教えていただいた形でしたら、二年目に直せませんでした」クラリスは言った。「なぜその形なのかを、わたくしが知らないからでございます」
「――クラリス様」
「はい」
「私は、そこまで考えて、黙っていたのではございません」
「存じております」
「私は、答えを持っておりませんでした」エレノアは言った。「持っていないものを、渡せませんでした。ですから、黙っておりました」
クラリスは、それを聞いて、少しだけ首を傾けた。
「それでも、同じでございます」
「同じではございません」
「結果が同じでございます」彼女は言った。「わたくしは、自分で決めました。決めた理由を、自分で持っております。――エレノア様。理由を持っている者が、いちばん強うございます」
角灯の火が、机の上の三つの束を照らしていた。左がいちばん薄い。右は、その日のうちに返した分が抜けて、空になっている。三つ目には、四枚が載ったままだった。
エレノアは、その言葉を、頭の中の別の場所に置いた。置いたが、収まらなかった。収まらないのは、それが自分に当たっているからだ。
持っている者が強い。持っていない者へ渡そうとすると、渡した先で形が変わる。一月半前に送った二十二文字に、二人が条件を付けたのが、そのままそれだった。
クラリスは、翌朝の便で発った。王都まで九日。往復で十八日を使って、一行を届けに来たことになる。
文でも届く一行だった。文では届かないと思った、とこの娘は言った。
合っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
王国は、この様式を制度にしません。
――あなたの一割は、規則にすると外れます。そして、外れたときに王国は直せません。
役所が条文を直すには二年かかります。掲示のほうは、三日で外れます。
代わりに、王都は一行を足すことにしました。
――この欄の理由は、書いた者に訊いてください。
宛先は、場所でなければ届きません。
理由は、人でなければ持てません。書いた人の頭の中にしか無いからです。
六年前、彼女はこの人に一度も答えを渡しませんでした。
渡さなかったのは、答えを持っていなかったからです。
――それでも、同じでございます。わたくしは、自分で決めました。
決めた理由を、自分で持っております。
次話「いちばん近い者から」では、連合の形が決まります。
真ん中の丸を、置かないことにします。
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