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第86話 入りません

 隣国の使者は、雨が上がった翌日に来た。


 灰色の上着だった。襟が高く、袖の折り返しに細い線が一本 入っている。位を示す線だ。線の数が、あの男より一本 少なかった。


 二十代の後半だろう。手ぶらで歩いてきた。筆と小さな墨壺だけを懐に入れて、荷は持たない。歩き方まで似ていた。あの役所の男は、二十二人にそれを仕込んでいる。


 仕込むというのは、正しくないかもしれない。あの男は、手ぶらで歩けと言ったことはないだろう。手ぶらで歩く上役を六年 見ていれば、下の者は手ぶらになる。教えたのではなく、写された。


 この様式が九つの街道へ広がったのと、同じ回り方だった。


「ヴァルケンの下の者でございます」


 名乗らなかった。名を訊けば答えただろうが、この男は自分から名乗らない。ロイド・ヴァルケンの部下は、そういう教わり方をしている。


「伺います」


「三点、お預かりしております」


 男は、懐から紙を出した。折り目が無い。板に挟んで運ばれた紙だ。


「一点目。そちらの連合に、こちらは入りません」


 エレノアは、その一行を、そのまま受け取った。


「二点目。様式は、共有いたします。こちらの九つの街道は、これまでどおり回します。掲示の写しは、月に一度、峠の役所を通じてお送りします」


「三点目は」


「入らない理由でございます」


 男は、紙を机の上に置いた。


 字は細く、行が詰まっていて、余白が均等に取ってある。書く前に行数を数える人間の書き方だ。前に一度、同じ紙を見ている。


 ――そちらの連合は、卓を十二 置かれると伺いました。

 ――決める者は、一人と伺いました。

 ――一日に、何枚 お読みになれますか。


 三行だった。


 エレノアは、その三行目を、二度 読んだ。


「お答えいたします」


「はい」


「六年前、王都で、一日に六十枚 決めておりました」


「六十枚でございますか」


「朝に四十枚、夕に二十枚です」彼女は言った。「読み切らなかった日は、一日もございません」


 使者は、それを紙に書き取った。書き取る速さが速い。数だけを取っている。


「そのうち、外れたものは何枚でございますか」


「存じません」


「――存じません、と」


「はい」


 男は、その返事も書き取った。


「ヴァルケンより、申し上げるよう言われております」彼は言った。「読み切れる枚数は、能力の話でございます。能力の話は、いつか必ず、その者の体の話になります」


「なります」


「体は、六年 もつ場合がございます」使者は言った。「もった六年のあいだに、その者しか読めない紙が溜まります。溜まった量が、止まったときの被害でございます」


「はい」


「ヴァルケンは、その被害を、六年前に列の中から見ております」


 エレノアは、その言い方を、聞いた。


 あの男は、六年前、粉の買い付け先を見に王都へ行っている。行った先で、止まる街を列の中から見た。棚が倒れて、右耳の上に傷が残った。


 あの日、彼女は断罪されて王都を出ている。二人は同じ街にいて、片方は盤の上から、片方は列の中から、同じ崩れ方を見た。


 見たものは、同じだった。取った結論だけが、逆を向いた。


 彼女は、止まらない仕組みを作ろうとした。誰が抜けても回る形にすれば、二度と同じことは起きない。あの男は、止まる仕組みを潰そうとした。誰か一人に寄りかかっている形を見つけたら、寄りかかっている柱のほうを先に折る。折れば、その場は崩れる。崩れたところから、寄りかからない形が立つ。


 乱暴だが、外れていない。


 二月前、その男は一割を潰した。潰したのは非道だからではなく、一割を空けておける者が一人しかいなかったからだ。三日で外れて、半日で下ろされた。あれは失敗ではなく、確かめだった。


「四点目がございます」使者が言った。


「三点と伺いました」


「三点でございます」男は言った。「四点目は、ヴァルケン個人からのものでございます」


「伺います」


「二月前、街道で、こう申し上げたそうでございます」使者は、紙を見ずに言った。「――あなたの構造は、あなたを必要としません。それは、あなたがそう作ったからです」


「申しました」


「あれは、こちらの負けを認めた言葉でございました」


 エレノアの手が、机の上で止まった。


「ヴァルケンは、六年、そちらの形を潰そうとしてまいりました」男は言った。「潰そうとした理由は、一つだけでございます。国が、一人の人間で止まる形を、二度と作らないためです」


「存じております」


「二月前に、潰す理由が消えました」使者は言った。「あなたの構造は、あなたを必要としない。ならば、あれは危険ではない。ヴァルケンは、そう報告書に書いております」


 窓の下で、朝の便が動いていた。雨の翌日は、荷が多い。前の日に止まった分が、まとめて出る。


「いま、必要としております」


「はい」


「ですので、こちらは入りません」男は言った。「入れば、そちらが止まったときに、こちらも止まります。ヴァルケンが六年 潰そうとしてきたものを、自分から中へ入れることになります」


 エレノアは、机の上の三行を、もう一度 見た。


 この男は、正しかった。


 六年、この二人は同じ場所に立って、違う向きを見てきた。彼女は、止まらない形を作ろうとした。あの男は、止まる形を潰そうとした。同じことを、逆の側からやっていた。


 いま、二人の結論が同じ場所に来ている。


 連合は、このままでは駄目だ。彼女がそう思っていることと、あの男がそう報告していることが、一字も違わない。


 ――ご指摘のとおりです、と。


 二十日前に、彼女は一行だけの返事を出した。あれは、負けを認めた紙だった。認めた相手が、今日、入らないと言いに来た。


 断られたのに、負けた気がしなかった。


 むしろ、机の上が少し軽くなった。連合の形を決めなければならないという仕事は、そのまま残っている。残っているが、決めるべき方向が一つ減った。決める者を一人にする形は、もう選べない。選べないものが確定するのは、選べるものが増えるのと同じだけ役に立つ。


 六年、彼女はこの男の手を読み違えたことがない。読み違えなかったのは、この男が一度も嘘をつかないからだ。単位で喋る人間は、嘘がつけない。四千袋と言えば四千袋で、八つの家と言えば八つの家だった。


「お伝えいただきたいことがございます」


「承ります」


「三点目は、こちらの結論と同じです」エレノアは言った。「連合は、決める者を一人にしません。形は、まだございません。ですが、そこは動かしません」


「かしこまりました」


「二点目について、伺います」


「はい」


「掲示の写しを月に一度 お送りいただけますのは、なぜですか」


 使者は、そこで初めて、少し間を置いた。


「ヴァルケンが、こう申しておりました」


「伺います」


「――こちらの九つの街道は、そちらの様式で回っております。回っている以上、こちらもその様式の一部でございます。入る入らないは、こちらの都合で決めますが、様式のほうは、こちらの都合で切れません」


 エレノアは、その言葉を、頭の中に置いた。


 この男は、連合に入らないと言いながら、様式からは降りないと言っている。二つは、矛盾していなかった。制度には入らない。仕組みには、もう入っている。


 使者は、頭を下げて下がった。


 戸口で、一度 止まった。


「もう一つ、お預かりしておりました」


「伺います」


「ヴァルケンは、こう申しております」使者は言った。「――待ちます、と」


「何をですか」


 男は、少しのあいだ、言葉を選んだ。選んだというより、そのまま言ってよいかを迷った顔だった。


「――そちらが、決めるのをおやめになるのを」

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 隣国は、連合に入りません。

 入れば、そちらが止まったときに、こちらも止まるからです。


 ――読み切れる枚数は、能力の話でございます。

 能力の話は、いつか必ず、その者の体の話になります。


 六年、この二人は同じ場所に立って、違う向きを見てきました。

 彼女は、止まらない形を作ろうとしました。あの男は、止まる形を潰そうとしました。


 いま、二人の結論が、同じ場所に来ています。

 断られたのに、負けた気がしませんでした。


 制度には入らない。仕組みには、もう入っている。

 ――回っている以上、こちらもその様式の一部でございます。


 次話「王都から」では、六年前に「自分たちで、立て直します」と言った人が来ます。

 言い淀まなくなった人です。


 よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。

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