第80話 三日で決まります
樫の坂の土は、赤い。
馬車が門の前で止まったとき、エレノアが最初に見たのは車輪の下だった。輪の内側に、乾いた赤土が層になって噛んでいる。この辺りの土は灰色で、峠へ上がれば白く濁る。赤いのは、樫の坂から先の、鉄の混じった地面だけだ。
降りてきた男は、自分で戸を開けた。
五十前後だった。中背で、肩から先が細い。上着は仕立てのいいものだが、袖口が擦れている。靴に、車輪と同じ色の泥がついていた。乗ってきただけの人間の靴には、その色はつかない。
「オーブリーです」
名乗るのが早かった。門の内側へ入る前に名乗った。
「ヴァルディエです」
「ええ、存じております」男は言った。「十五日でした。書状をお出ししてから、こちらへ着くまで。七日 お返事を待ちまして、それから乗って八日です。紙も、こちらまで八日かかります。往復で十六日。――待っていられませんでした」
彼は、そこで初めて頭を下げた。下げ方は丁寧で、速かった。
執務室へ上がるあいだ、この男は喋り続けた。廊下の窓から裏手の溝を見て、東へ落としておいでですね、と言った。エレノアが答える前に、坂が緩むところで深さを変えておられる、と続けた。合っていた。
机の前に立って、彼は左の束を見た。
「これが、詰まっているものですか」
「はい」
「何枚です」
「十七枚です」
「日にちは」
「古いもので、十一日です」
オーブリーは、うなずいた。うなずき方が、納得というより確認だった。
「私のところにも、四枚ございます」男は言った。「周りの街道が四つ、この様式で回っております。そこから来ます。答えられるものは返します。返せないものが、四枚 溜まっております」
「どのような種類ですか」
「その土地の数を、私が持っていないものです」
エレノアは、その言い方を、そのまま受け取った。
同じ言葉だった。彼女が十日ほど前にサラへ言ったのと、一字も違わない。
「オーブリー様」
「ええ」
「樫の坂では、どなたが掲示をお書きですか」
「私です」
即答だった。
「毎日ですか」
「毎日ではありません。三日に一度です」男は言った。「区分の入れ替えがある日だけ、私が書きます。あとは代官が写します」
「入れ替えの判断は」
「私が決めます」
「ほかに、お決めになれる方は」
オーブリーは、そこで少しだけ止まった。
止まったのは、答えを探したからではない。答えは分かっていて、それを口に出すと何かがまずいということに、いま気づいた止まり方だった。
「――おりません」
「ありがとうございます」
「いや」男は言った。「いま、自分で気づきました。私が寝込めば、三日で止まりますな」
彼は、それを笑って言った。笑ったが、目は笑っていなかった。この男は、自分の弱いところを言われる前に自分で言う。それで場を進める癖がついている。
癖がつくのは、そうしないと進まない場所に長くいた者だけだ。八年、この男は自分の坂で、指摘されるより先に指摘し、直されるより先に直してきた。速い。速さで信用を買ってきた人間の話し方だった。
エレノアは、その速さの中身を測っていた。廊下の溝を見て、坂が緩むところで深さを変えていると言い当てた。あれは、目のいい人間の言い分ではない。同じことを自分の領地でやったことのある人間の言い分だ。
樫の坂は、この様式を一年 回している。九つの街道が三月から二年半なのに対して、いちばん長い。長いのに、他領の三つの中で唯一、詰まったという照会を寄こしてこなかった。寄こしてこなかったのは、詰まらなかったからではない。この男が全部 自分で決めて、自分で片づけていたからだ。
「その話を、しに参りました」オーブリーは言った。「机が一つしかないと、その机が詰まったところで全部 止まります。ですから、机を増やします」
彼は、懐から紙を出した。折り目が三つ。畳んで持ち歩いていた紙だ。
広げると、図が描いてあった。
真ん中に丸が一つ。周りに、小さい丸が十二。線で繋いである。線の脇に、数字が振ってあった。日数だ。八、十、六、十一、四。
「十二の領地です」男は言った。「街道は九つ。合わせて二十一。ただし、街道は領地の中を通っておりますので、机の数としては十二で足ります」
「机とは」
「照会を受ける場所です」オーブリーは言った。「各地に一つ。問いは、まずその地の机へ出す。その机で答えられるものは、その場で返す。返せないものだけを、真ん中へ回す」
「真ん中は」
「ここです」
彼の指が、中央の丸を押さえた。
エレノアは、その図を見た。
悪くなかった。悪くないどころか、彼女が三日かけて考えていたことの、先を行っていた。答えられるものはその場で返す。返せないものだけを回す。それだけで、真ん中へ来る紙は四分の一になる。
昨日、彼女は左の束の一枚を隣の街道へ回した。あれの、全部の版がここにある。
「日数は」
「十二の机から、真ん中まで。いちばん遠いのが十一日です」オーブリーは言った。「近いのは四日。平らにして七日ほどでしょう」
「それでも、往復で十四日です」
「ええ」男は言った。「ですから、真ん中の机だけは、決めるのを速くします」
「速くとは」
「合議にしないということです」
彼は、そこで初めて、少し声を落とした。
「十二の領地で寄り合いをやりますと、一つ決めるのに二月かかります」オーブリーは言った。「私は、三つの寄り合いに出ております。二月で決まれば早いほうです。連合を寄り合いにしたら、この様式は死にます」
「では、どうなさいますか」
「一人が決めます」
窓の下で、昼の便が門を抜けていった。
オーブリーは、図の中央の丸を、指で二度 叩いた。
「エレノア様が決めれば、三日で決まります」
エレノアは、その言葉を、聞いた。
三日。届いてから、読んで、書いて、出すまで。彼女が六年やってきた速さだ。左の束が十七枚 溜まっているのは、決めるのが遅いからではない。決められないものだけが溜まっているからだ。
だが、この男が言っているのはそこではなかった。
「――決められない問いは、どうなさいますか」
「それも、決めていただきます」オーブリーは言った。「その土地の数が無いのなら、無いなりに決めればよろしい。私は八年、そうしております」
「外れたときは」
「外れたら、直します」男は言った。「直すのに、また三日です。二月かけて外さないより、三日で外して三日で直したほうが、荷は動きます」
その通りだった。
この男は、正しかった。速さは正義で、合議は死で、決める人間が一人いれば形は回る。彼は八年それをやって、樫の坂の周りに四つの街道を立てた。
六年前、王都でも同じことが言われていた。決めるのが速いから任せておけ、と。任せておけば回った。回っているうちは、誰もその形の中身を見なかった。
外れたら三日で直す、という言い方も正しい。正しいのは、直せる人間がその場にいるあいだだけだ。直せる人間が十一日 離れた場所にいると、外れた掲示は十一日 外れたまま立っている。立っているあいだに、読む者が減る。減った読者は、掲示が直っても戻らない。
彼が寝込めば、三日で止まる。
止まったことが、まだ一度も無い。無いから、この男は自分の形の壊れ方を知らない。彼女は知っている。三日目にパンが倍になり、五日目に倍の倍になり、七日目に列が崩れる。
「オーブリー様」
「ええ」
「その形は、いま、私のところで詰まっております」
「詰まっておりますな」男は、机の左を見た。「十七枚。ですから、机を増やすと申し上げました」
「増やしても、真ん中は一つです」
「一つです」
「真ん中が詰まれば」
「――エレノア様」オーブリーは言った。「詰まらせない方が、真ん中に座ればよろしい」
彼は、それを善意で言った。
この男は、褒めているつもりでいる。実際、褒めている。八年 自分の坂で一人で決めてきた男が、自分より速く決める人間を見つけたら、そこへ真ん中を渡すのは筋が通っている。彼の中では、これは譲歩だった。
エレノアは、図の紙を手に取った。
十二の丸と、線と、日数。線は全部、中央の丸へ向かっている。周りの丸どうしを繋ぐ線は、一本も無かった。
「これは、どなたがお描きになりましたか」
「私です」
「何日 かけてですか」
「一晩です」男は言った。「書状をお出しした夜に描きました」
線は、迷いなく引いてあった。定規は使っていない。手で引いて、それでまっすぐになっている。何度も同じ図を描いた手だ。
一晩で描けたのは、この図がこの男の頭の中に八年 入っていたからだった。樫の坂の周りに四つの街道を立てたときの形が、そのまま十二に伸びている。中央が自分から彼女に替わっただけで、線の向きは一本も変わっていない。
周りの十二は、互いに何も知らない。知らないまま、それぞれが真ん中へ紙を出す。真ん中は、十二ぶんの土地の数を持っていない。持っていないので、無いなりに決める。決めたものが外れる。外れたら三日で直す。直す紙が、また十二へ散る。
紙は増える。答えは、一つの机から出る。
エレノアは、その紙を机に置いた。置いて、しばらく何も言わなかった。
サラが、戸口の柱に背を預けている。いつからいたのかは、この執務室では誰も確かめない。この女は、六年、他人の設計を読むときに、必ず何を借りているかを見る。いまは何も言わずに、図のほうだけを見ていた。
「お受けいただけますか」
オーブリーが、そう言った。
エレノアは、答えなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
机が一つしかないと、その机が詰まったところで全部 止まります。
ですから、机を増やします。――正しい話です。
各地に机を置く。答えられるものはその場で返す。返せないものだけを真ん中へ回す。
彼女が三日かけて考えていたことの、先を行っていました。
寄り合いにすれば二月かかります。一人が決めれば三日です。
外れたら、三日で直せばいい。二月かけて外さないより、荷は動きます。
この人は、八年それをやって、自分の坂の周りに四つの街道を立てました。
――彼が寝込めば、三日で止まります。止まったことは、まだ一度もありません。
図には、十二の丸と、真ん中の丸が描いてありました。
線は全部、真ん中へ向かっています。周りの丸どうしを繋ぐ線は、一本もありません。
六年、即答してきた女が、この日は答えませんでした。
次話「十二の卓」では、その連合の中身を詰めます。
詰めていくと、二十二文字が条文になります。
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