第79話 宛名
朝の光は、机の左手から入る。
左には、十一枚になった束があった。夜のうちに二枚 増えている。門で受け取ったヤンが、開けずにそこへ載せた。開けるなと言ったわけではない。この屋敷の者は、机の上のものに触らない。
エレノアは、いちばん上の一枚を取らなかった。
取らずに、束の横に置いてある麻の袋の口紐を見た。昨日 峠から届いた便に、返しの袋が入っていた。中身は空で、袋だけが戻ってきている。十一日 かけて行って、十一日 かけて帰ってきた袋だ。
表に、字が一行。
――“数える人へ”
彼女が書いた字だった。二十日近く前に、この執務室で書いた。宛名だけを書いて、差出人は書かなかった。
その袋は、峠に届いた。
届いて、開かれた。中の三行は読まれて、三年 書きかけだった行に続きが入った。ニナが写しを八枚 作って、九つの街道へ回した。回った先で、全員が名を書いた。
差出人を書かなくても、届いた。
――届いている、と。
エレノアは、その袋を手に取った。
三年前の二月にも、同じ宛名の袋が一つ、峠の役所に届いている。差出人は無かった。宛名だけだった。届いた先の男は、差出人を探さなかった。中身が正しかったからだ。
あの宛名は、人を指していない。
数える人へ。それは、その仕事をしている者へ、という意味だった。誰がその席に座っていても届く。座っている者が替わっても届く。座っている者が死んでも、次の者に届く。
三年前、それを書いたのは二十歳の書記だ。彼女はそれを、うまい書き方だとは思わなかった。差出人を書かなかったのは、書いても誰も知らないと思ったからだと、本人が言っていた。
うまくないから、正しかった。
エレノアは、机の上の写しを引き寄せた。六年 使って背の丸くなった、ただの綴じだ。表紙のいちばん下に、まだ墨の新しい名前がある。
――エレノア・ヴァルディエ
この名は、人だ。
人は、読み切れなくなる。人は、十八日 留守にする。人は、去年の冬に熱を出して三日で死ぬ。人の名を宛先にした紙は、その人が止まったところで止まる。
止まったところで止まるのは、六年前の王都と同じ形だった。
彼女は、筆を執った。
「サラ」
戸口に、声が届いた。返事の代わりに、柱に背が当たる音がした。この女は、呼ばれる前からそこにいる。
「なによ」
「便の宛名を、変えます」
「宛名?」
「これまでは、こちらの名で参りました」エレノアは言った。「今日からは、こう書いていただきます」
彼女は、白い紙に一行 書いた。
――ヴァルディエ侯爵領 照会
サラが、机に近づいた。近づいて、その一行を読んで、しばらく黙っていた。
「……人じゃないのね」
「人ではありません」
「中身は、あなたが読むんでしょ」
「読みます」
「じゃあ、同じじゃないの」
「違います」
「どこが」
「私が読めなくなったときに、止まりません」
サラの指が、紙の縁で止まった。
窓の下で、朝の便が動き始めていた。荷改めの卓が三つ。並び方は乱れていない。この音は、六年 同じだ。同じなのは、誰か一人が回しているからではない。誰が卓に立っても同じ順で数えるように、六年前に組んだからだ。
卓は、そうやって作った。紙は、そうやって作らなかった。
「――止まったの、見たことあるものね」サラが言った。
「ございます」
「三日でパンが倍」
「五日目に、倍の倍でした」
エレノアは、その一行の紙を、机の右へ置いた。テオドルが今朝から使い始めた場所だ。ここへ置いたものは、その日のうちに屋敷の外へ出る。
文官長は、しばらくして、それを取りに来た。取って、一行を読んで、手を止めた。
「お嬢様」
「はい」
「これは、便の宛名でございますか」
「はい」
「差出人は、いかがいたしましょう」
「同じで結構です」
「――ヴァルディエ侯爵領 照会、と」
「はい」
「お名前は、お入れになりませんか」
「入れません」
男は、その紙をもう一度 見た。
「峠の役所は、お名前でお受け取りになるかと存じます」
「受け取れなければ、戻ります」エレノアは言った。「戻ってまいりましたら、こちらの落ち度です。そのときに、もう一度 考えます」
「かしこまりました」
彼は、下がりかけて、戸口で止まった。
「六年、この屋敷から出る紙には、お名前がございませんでした」
「ございませんでした」
「二十日前に、初めてお書きになりました」
「書きました」
「今度は、それを消すために、宛名をお変えになります」
「はい」
テオドルは、それ以上は言わなかった。半分は言わなくてよいことだと、この男は六年で学んでいる。
「もう一つ、ございます」
「まだあるの」
「左の束から、一枚 抜きます」
彼女は、十一枚のうちの一枚を引いた。第六街道の書記からの紙だ。掲示を読めない者が三割いる。読んでやる者が来ない日は、みなが待っている。どうすればよいか、と丁寧に書いてある。
「それ、あなたが答えられないやつでしょ」
「答えられません」
「じゃあ、どうするの」
「第五街道へ回します」
サラが、顔を上げた。
「隣?」
「隣です」エレノアは言った。「第五と第六は、峠を挟まずに繋がっております。荷が行き来しております。行き来しているということは、人が行き来しております」
「あっちの書記が、答えられるの?」
「分かりません」
「分からないのに、回すの」
「はい」
彼女は、返事の紙を書いた。三行だった。
――この照会は、こちらでは答えられません。
――第五街道の書記の方へ、同じものをお回しします。
――あちらでも答えが出なければ、こちらへ戻してください。
書いてから、その三行を読み直した。読み直して、一行 足した。
――こちらが答えられない理由は、その土地の数を持っていないからです。
サラが、それを横から読んだ。
「これ、書くの」
「書きます」
「答えられませんって、あなた、書くの」
「書きます」
「六年、一度も書かなかったでしょ」
「書きませんでした」エレノアは言った。「書かずに済んでおりました。こちらが持っている数の中でしか、決めなかったからです」
サラは、それには何も返さなかった。
彼女は次に、二枚の返事を書いた。
一枚は、王都へ。クラリス・メルヴェイユの書状に対する返事だ。制度にするかどうかについては、何も書かなかった。書いたのは、一割の欄のことだけだった。
――ただし、の三文字を、お入れにならないでください。
――長雨と降雪の時期だけ空けるのであれば、晴れた年の秋には空きません。
――空いていない日に何が来るかは、こちらにも見えません。
――見えないので、空けております。それが理由の全部です。
もう一枚は、隣国の役所へ。
こちらは、一行だった。
――ご指摘のとおりです。
書いて、筆を置いた。
あの男は、二月前に街道を並んで歩きながら、あなたの構造はあなたを必要としませんと言った。それは、そう作ったからですと彼女は答えた。あのときは、そのつもりでいた。
つもりでいて、二月で、必要とされる形に戻していた。
戻した手は、自分の手だ。表紙に名を書いたのも、十三の包みを出したのも、訊けと言ったのも、全部この部屋から出ている。
直せるのは、宛名だけだった。中身は、まだ何も直っていない。
昼前に、門から一枚 上がってきた。
厚い紙だった。板に挟んで運ばれている。折り目が無く、封蝋がある。蝋は濃い茶で、縁が薄く歪んでいた。垂らしてすぐに押した者の手だ。急いでいる。
紋章は、樫の葉を組んだものだった。
――樫の坂。
エレノアは、それを開いた。
文は長かった。丁寧で、順序が整っていて、読みやすい。書いた者は、書く前に何を書くか決めている。
最初のほうに、雪の話があった。掲示の下の三行が読めなくなる件は、こちらで板を高くして解決した、と書いてある。二度 照会して返事が無かったので、自分で決めた、と。
責めてはいなかった。
真ん中に、数が並んでいた。この様式で回している街道が、樫の坂の周りに四つ。他領で、掲示を立てたいと言っている領地が、七つ。合わせて十二。
最後の三行が、こうだった。
――一つの机に十二の問いが集まれば、その机は必ず詰まります。
――詰まる前に、机を増やすべきです。
――エレノア様。連合をつくりましょう。
署名があった。
――ジェラール・オーブリー
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
三年前、峠の役所に届いた袋には、宛名しかありませんでした。
――“数える人へ”。
あれは、人を指していません。その仕事をしている人へ、という意味です。
誰が座っていても届きます。座っている人が替わっても届きます。
座っていた人が死んでも、次の人に届きます。
差出人を書かなかったのは、書いても誰も知らないと思ったからだと、
書いた本人は言っていました。うまくないから、正しかったのです。
彼女は、便の宛名を人でなくしました。
――中身は、まだ何も直っていません。直したのは、いちばん上の一行だけです。
そして、答えられない照会を、初めて隣へ回しました。
「答えられません」と書いたのは、六年で初めてです。
次話から、第8章に入ります。
机を増やしましょう、と言ってくる人が来ます。悪い人ではありません。
――むしろ、言っていることは正しいのです。
よろしければ、ブックマークで追っていただけると嬉しいです。




