第78話 制度にします
文官長は、昼過ぎに戻った。
馬車で九日。往復で十八日。発ったのは、定期便が十三の包みを運び出した日の昼前だった。そのあいだに、季節が半分ほど進んでいる。
テオドルは、旅装のまま執務室へ上がってきた。厚い上着は、発つときと同じものだ。細い男に、その厚みは似合っていない。ただし今日は、袖の裾が乾いた泥で汚れていた。九日ぶんの道の色だ。
「ただいま戻りました」
「お疲れさまでした」
「お嬢様」男は、そこで一度 言葉を切った。「――この、左の束は」
彼が最初に見たのは、机だった。
「照会です」
「何日ぶんでございますか」
「五日です」
「返せておられませんか」
「返せておりません」
テオドルは、上着を脱がずに、束の厚みを目で測った。それから、部屋の中を一度 見回した。積みの位置が、彼が発った日と変わっている。右手前が空いて、そこに新しい山ができている。
「ヤンを、門から上げてよろしいですか」
「構いません」
「マレンとイーリスを、写しに回します」男は言った。「二人とも、字は速うございます。イーリスは去年の秋から、写しの罫を引いております」
エレノアは、その二つの名を、聞いた。
どちらも、顔が浮かばなかった。この屋敷には二十六人いる。彼女が顔を覚えているのは、三人だけだった。
「お任せいたします」
「はい」
テオドルは、それでようやく上着を脱いだ。脱いだ上着を腕にかけて、机の前に立った。この男は、報告の前に必ず一度、手ぶらになる。
「王都でございますが」
「伺います」
「ご書状は、直接 お渡しいたしました」
「どなたにですか」
「メルヴェイユ様に」テオドルは言った。「王宮の門ではなく、東区の役所でお会いいたしました。あの方は、いま そちらにおいでです」
東区の役所は、六年前には無かった。
「お変わりございませんでしたか」
「お変わりになっておいででした」男は言った。「言い淀まれません」
エレノアは、その一言で足りた。
六年前、あの娘は言葉の途中で必ず一度 止まった。全員は無理でも、少しでも、と言いかけて、少しでもの先を持っていなかった。最後に会ったとき、あれは止まらなくなっていた。お願いではありません、報告です、と言った。
「ご返事は、書状で頂戴しております」テオドルは、懐から包みを出した。「そのほかに、口頭でお預かりしたものがございます」
「伺います」
「王国は、この様式を、制度になさりたいと仰せです」
窓の下で、昼の便が門を抜けていった。
エレノアは、書状を受け取った。受け取ったが、すぐには開かなかった。
「どのような形でですか」
「王国の街道に、掲示を義務づける形でございます」テオドルは言った。「区分と、数と、日。例外の扱い。順は、この様式のとおりに。条文にして、各州へ下ろすと」
「一割は」
「一割の欄も、条文に入れると仰せです」
「――条文に」
「はい」
彼女は、そこで書状を開いた。
文は、短かった。クラリス・メルヴェイユの字は、六年前より角が取れている。それでいて、行の頭が全部 揃っていた。揃え方を、誰かに習ったのだと分かる字だった。
文の中ほどに、こう書いてあった。
――枠の一割は、次の遅れのために空けるものとする。
その下に、もう一行。
――ただし、長雨および降雪の時期に限る。
エレノアは、その一行を、二度 読んだ。
「テオドル」
「はい」
「これは、あちらでお書きになったものですか」
「役所の方が、条文の形に直されたと伺っております」男は言った。「お嬢様の三行のままでは、条文にならないと」
「なりません」
「はい」
「条件が付いております」
「付いております」
テオドルは、それだけ言って、あとを続けなかった。半分は言わなくてよいことだと、この男は六年で学んでいる。
条件が付いた瞬間に、その一行は外れる日を持つ。長雨と降雪の時期だけ空けるのなら、晴れた年の秋は空けなくていい。空けなくていい年に、遅れが出る。出たときには、枠が無い。
枠が無い日に何が来るかは、誰にも見えない。見えないから空けておく、と書いた。それが理由の全部だった。
条件を付けた者を、彼女は責められなかった。条文というのは、そういうものだ。適用の範囲を書かない条文は、誰も運用できない。役所の者は、正しい仕事をしている。
――正しく直された、と。
彼女は、書状を机に置いた。
「メルヴェイユ様は、何と仰せでしたか」
「王都は、これで六年ぶんの立て直しを終える、と」テオドルは言った。「あとは形にして残すだけだ、と仰せでした」
「私に、来いとは」
「仰せになりませんでした」
エレノアは、その返事を、聞いた。
言わないほうが正しい。あの娘は、そこを間違えない。
「もう一つ、ございます」テオドルは言った。「門で、これを預かってまいりました。峠からの便に入っていたものでございます」
彼が置いたのは、一枚だった。
紙が厚い。板に挟んで運ばれた紙だ。折り目が無い。役所の紙だった。
字は、細かった。行が詰まっていて、余白が均等に取ってある。書いた者は、書く前に行数を数える人間だ。
――そちらの街道より、こちらの関所へ照会が三件 参りました。
――三件とも、行き先はヴァルディエ侯爵領でした。
――こちらの二十二人のうち、四人が同じ問いを持っております。出しておりません。
――二月前に、こう申し上げました。あなたの構造は、あなたを必要としません。
――いま、必要としております。
――これは、こちらが六年 潰そうとしてきた形です。
署名は、無かった。署名が無くても、誰の字かは分かった。単位から言葉を組み立てる男の書き方だ。三件、四人、二十二人。二月前。六年。
「お嬢様」
「はい」
「ご返事は」
「――お待ちください」
エレノアは、机の上を見た。
左に、九枚の束。その上に、この五日で増えた分。右に、クラリス・メルヴェイユの書状。手前に、隣国の役所の男の一枚。
三つとも、同じことを言っていた。
この様式は、彼女なしでは動かない。
六年前、王都でもそう言われた。あのときは、それが誉め言葉として使われていた。彼女がいるから回っている、と。誰も、その言い方の中に何が入っているかを見なかった。彼女自身も見なかった。見たのは、断罪されて、王都が三日目にパンを倍にしてからだった。
王都は、それを条文にして彼女を外そうとしている。外し方が正しくないので、一割が死ぬ。隣国の男は、外れないことを問題として報告している。あの男の原理は、六年 一度も変わっていない。国が、一人の人間で止まる形を作らない。
そして九つの街道と三つの他領と川の向こうは、彼女に訊いている。
訊けと書いたのは、彼女だ。
窓の外の光が、少し傾いた。この時刻から、東向きの部屋には光が入らなくなる。テオドルが、角灯を一つ点けた。点けてから、下がろうとして、戸口で止まった。
「お嬢様」
「はい」
「九日 歩きまして、一つだけ、分かりましたことがございます」
「伺います」
「王都までは、九日でございます」テオドルは言った。「峠までは十一日。灰色の川までは、それより先でございます。――どこも、遠うございました」
彼は、頭を下げて出て行った。
エレノアは、机の前に座ったまま、動かなかった。
答えは、出ていない。制度にすれば一割が死ぬ。制度にしなければ、十三の土地の問いが全部ここへ来る。来た問いのうち半分は、その土地の数を知らなければ答えられない。数を訊けば、往復で八日から二十二日。そのあいだに、次が来る。
どちらを取っても、成立しない。
六年、彼女は二つの数字を並べて、大きいほうを取ってきた。並べれば、どちらかが大きい。並べても、どちらも小さいという盤面を、彼女は初めて見た。
角灯の火が、書状の縁を照らしていた。
――見えません、と。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
王都は、この様式を制度にしたいと言ってきました。
条文の形に直された一行には、こう足されていました。
――ただし、長雨および降雪の時期に限る。
条件を付けた人を、彼女は責められません。
適用の範囲を書かない条文は、誰も運用できないからです。役所の人は、正しい仕事をしています。
同じ日に、隣国の役所の男から一枚 届きました。
二月前に「あなたの構造は、あなたを必要としません」と言った男が、
「いま、必要としております」と書いてきました。
制度にすれば、一割が死にます。
制度にしなければ、十三の土地の問いが全部ここへ来ます。
六年、彼女は二つの数字を並べて、大きいほうを取ってきました。
並べても、どちらも小さいという盤面は、初めてです。
次話「宛名」では、一つだけ動かせるものが見つかります。
中身ではありません。紙の、いちばん上の一行です。
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