第8話 善意の失敗
その日、クラリスは初めて「自分で動こう」と思った。
ただ守られているだけではいけない。
そう思ったのは、昨夜の出来事のせいだった。
エレノアの沈黙。
そして、その後に広がり始めた違和感。
それが何なのかは、まだはっきりとは分からない。
けれど。
「何か、できることを……」
小さく呟き、クラリスは城を出た。
向かったのは、王都東区の市場だった。
普段であれば、侍女や護衛を伴うべき立場だ。だが今回は、あえて最低限の供だけで出ている。
自分の目で見るために。
自分の耳で聞くために。
市場は、いつも通りに賑わっていた。
行き交う人々。呼び込みの声。焼きたてのパンの香り。
一見すれば、何も変わっていない。
だが。
「……あれ?」
クラリスは足を止めた。
一つのパン屋の前。
列ができている。
それ自体は珍しくない。だが、妙に長い。
そして、空気がどこか張り詰めている。
「すみません、何かあったのですか?」
近くの女性に声をかける。
女性は困ったような顔で振り返った。
「パンが……足りないのよ」
「足りない?」
「いつもなら、もう少し早く焼き上がるのに。今日は粉の入りが遅れてるって」
粉。
その言葉に、クラリスの胸がわずかにざわついた。
昨夜、文官が言っていたこと。
流通。
契約。
繋がり。
「……少し、お話を聞いてもいいでしょうか」
意を決して、店の中へ入る。
焼き窯の前で、店主が忙しそうに動いていた。
「すみません」
「ああ、今ちょっと手が離せなくて――」
顔を上げ、言葉が止まる。
クラリスの服装と立ち居振る舞いから、ただの客ではないと察したのだろう。
「……何か御用で?」
「粉のことで、少し」
店主の表情が曇る。
「それなら、こっちの話だ。お嬢さんが気にすることじゃない」
「でも、困っているのでしょう?」
まっすぐに言う。
店主は少しだけ視線を逸らした。
「……まあな」
「どこから仕入れているのですか?」
「西部の製粉業者だ。いつもなら、朝一で届く」
「今日は?」
「来てない」
短い答え。
「理由は?」
「分からん。ただ、値段の話がどうとか……」
そこで言葉を切る。
あまり外に出したくない話なのだろう。
クラリスは少し考えた。
そして。
「もしよろしければ、私が話をしてみましょうか」
口にした。
店主が目を見開く。
「は?」
「知り合いの方がいるかもしれません。少しでも早く解決できれば――」
「待て待て」
慌てて手を振る。
「お嬢さん、そういう問題じゃない」
「ですが」
「いいか、これは商売の話だ。簡単にどうこうなるもんじゃない」
その言葉には、焦りと苛立ちが混じっていた。
だがクラリスは引かなかった。
「それでも、何もしないよりは」
強く言う。
店主はしばらく彼女を見ていた。
やがて、ため息をつく。
「……分かった。やってみるってんなら、止めはしない」
諦めたように。
「ただし、責任は取れんぞ」
「はい」
クラリスは頷いた。
その顔には、決意があった。
――何かを、変えたい。
その思いだけで動いていた。
結果がどうなるかまでは、まだ考えていなかった。
数刻後。
西部の製粉業者の事務所。
「話は分かった」
椅子に座った男が言う。
「だが、条件は変わらん」
「どうしてですか?」
クラリスは必死に食い下がる。
「困っている方がいるのです。今まで通りの価格で――」
「無理だ」
即答だった。
「運送費が上がる。倉庫の使用料も不安定だ。こっちだって慈善事業じゃない」
正論だった。
だが、クラリスはそれを受け入れられない。
「でも、急にそんなことを言われても」
「急じゃない」
男は言った。
「調整してた奴がいなくなっただけだ」
その言葉に、クラリスは息を止めた。
「……調整、していた?」
「そうだ。あの女だ」
名前は出さない。
だが、誰のことかは分かる。
「無理を通してたんだよ。価格も、流通も、全部な」
男は続ける。
「だから今、歪みが出てる」
静かな説明。
だが、それは現実だった。
クラリスは言葉を失う。
何も言えない。
それでも――
「それでも、お願いです」
絞り出すように言う。
「少しでも、下げていただけませんか」
沈黙。
男はしばらく彼女を見ていた。
そして。
「……分かった」
短く言う。
クラリスの顔が明るくなる。
「本当ですか!」
「ただし」
その言葉で、空気が変わる。
「他の店への供給は減らす」
「え……」
「限られた量だ。全部には回せん」
当然の理屈。
だが。
「それでもいいのか?」
問われる。
クラリスは、答えられなかった。
自分が助けようとした店のために。
他の誰かが困る。
その構図が、初めて目の前に現れた。
「……私は」
言葉が出ない。
どちらも救いたい。
だが、それはできない。
「決めろ」
男が言う。
「商売ってのは、そういうもんだ」
重い言葉。
クラリスは、震える手を握りしめた。
そして――
「……お願いします」
小さく、言った。
その瞬間。
何かが、壊れた。
夕方。
市場に戻る。
パン屋には、粉が届いていた。
「助かったよ」
店主が言う。
「本当にありがとう」
笑顔だった。
救えた。
確かに、救えた。
だが。
その帰り道。
別の店の前で、泣いている子供を見た。
「どうしたの?」
思わず声をかける。
母親が、困った顔で答えた。
「今日はもう、パンがないんです」
その店には、粉が届かなかった。
だから、焼けなかった。
だから――
売れなかった。
クラリスの胸が、強く締めつけられる。
視界が揺れる。
「……私が」
小さく呟く。
自分がやったことの意味が、ようやく分かった。
一つを救い。
一つを切り捨てた。
それが現実。
それが、選択。
そして――
それが、エレノアがやっていたこと。
「……違う」
首を振る。
だが、否定できない。
あの人は、これを。
ずっと。
もっと大きな規模で。
もっと多くの人を巻き込んで。
やっていたのだ。
その重さを。
今、初めて知った。
クラリスは、その場に立ち尽くした。
夕日が沈んでいく。
王都は、まだ穏やかに見える。
だが。
確実に何かが、壊れ始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
クラリスが初めて「選ぶ側」に立ちました。
そしてその結果、何かを救い、何かを失いました。
ここから先はさらに現実が加速していきます。
次話では、流通の停滞がより明確に“形”として現れます。
エレノアがやっていたことの重さ、
そしてその不在がもたらす影響を、ぜひ見届けてください。
少しでも気になったら、ブックマークして追っていただけると嬉しいです。




