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第7話 空白

 その部屋は、静かすぎた。


 王城の一角、通常であれば常に人の出入りが絶えないはずの執務室。だが今は、紙の擦れる音ひとつしない。


 机の上には書類が積まれている。


 整っているようで、整っていない。


 分類されているようで、繋がっていない。


「……これを、どうしろと」


 低く呟いたのは、若い文官だった。


 エレノアが使っていた机の前に立ち、数枚の書類を手にしている。だがその顔には、明らかな困惑が浮かんでいた。


「南方商会の契約書……に見えるが、途中で別の取引が挟まっている。しかも金額が一致しない」


 机の上に広げる。


 別の文官がそれを覗き込んだ。


「それ、単体で見ても意味がない」


「は?」


「裏に回せ」


「裏?」


 言われた通りに紙を裏返す。


 そこには、別の記述があった。


 日付と、短い指示。


「……何だこれ」


「それが“本体”だ」


 答えたのは、先任の文官だった。


 疲れた顔をしている。


「表はあくまで表向きの契約。実際の流れは、裏に書かれている」


「そんなもの、どうやって――」


「繋げて読むんだ」


 短く言う。


 だがそれは、説明になっていない。


「繋げるって……どうやって」


「全部をだ」


 苛立ちを押し殺した声。


「単体で理解しようとするな。あの方は、全体で一つの仕組みを作っていた」


 沈黙。


 若い文官は、言葉を失う。


 机の上を見る。


 書類。


 帳簿。


 メモ。


 それらは確かに存在している。


 だが、それをどう繋げればいいのか。


 どこから見ればいいのか。


 分からない。


「……無理だろ」


 思わず漏れる。


 その言葉に、誰も反論しなかった。


 それが現実だった。


 エレノアがやっていたことは、存在している。


 だが、それを引き継げる者がいない。


 それが何を意味するのか。


 まだ、この場の全員は理解していない。


「とにかく」


 先任の文官が言った。


「優先順位を決めろ。全部は無理だ」


「優先順位?」


「南方、北部、西部。どれから処理する」


 問い。


 だが、それに答えられる者はいない。


 全員が、黙る。


 どれも重要だ。


 どれも止めてはいけない。


 だが――


 どれが“最も”重要なのか。


 誰も判断できない。


「……南方か」


 誰かが言う。


「いや、北部の運送が止まれば全部止まる」


「だが、粉がなければパンが焼けない」


「なら西部を優先すべきだ」


 意見が出る。


 だが、まとまらない。


 それぞれが、それぞれの視点でしか見ていない。


 全体を見ている者がいない。


 そのとき。


 扉が開いた。


「失礼する」


 低い声。


 全員が振り返る。


 アレクシス王太子が立っていた。


 その場の空気が、緊張で引き締まる。


「状況は」


 短く問う。


 先任の文官が一歩前に出た。


「……芳しくありません」


「具体的に」


「各所の契約が、連動して停滞しております」


「連動?」


「はい。本来であれば、それぞれ独立しているはずの取引が……」


 言葉を選ぶ。


「一人の手で、調整されていたようで」


 沈黙。


 アレクシスは机の上を見た。


 書類。


 数字。


 記録。


 すべてが存在している。


 だが――


「なぜ、誰も把握していない」


 低い声。


 怒りではない。


 理解できないことへの苛立ち。


「……申し上げにくいのですが」


 先任の文官が言う。


「エレノア様が、ほぼ単独で管理されていたため」


「単独で?」


「はい」


 頷く。


「補佐はおりましたが、全体像を共有されていたわけではありません」


 それはつまり。


 彼女がいなくなった瞬間に。


 全体が見えなくなるということ。


 アレクシスは、ゆっくりと息を吐いた。


「……では」


 問いかける。


「今、最も優先すべきは何だ」


 誰も答えない。


 沈黙。


 重い沈黙。


 その場にいる全員が、理解していた。


 答えが分からないということを。


 そのとき。


 先任の文官が、ゆっくりと口を開いた。


「……分かりません」


 その一言は、重かった。


 王太子の前で言うには、あまりにも無力な言葉。


 だが。


 それが現実だった。


 アレクシスは目を閉じた。


 ほんの一瞬だけ。


 そして、開く。


「……南方を優先する」


 決断。


「理由は」


 誰かが問う。


「最も不安定だからだ」


 短い説明。


 だが、それは“勘”に近い。


 本来なら、そんな決め方をしてはいけない。


 だが今は――


 それしかない。


「急げ」


 アレクシスが言う。


 文官たちが動き出す。


 だがその動きには、どこか不安が混じっていた。


 正しいのか分からない。


 だが、止まるわけにはいかない。


 だから進む。


 その選択が、どんな結果を招くのかも分からないまま。


 アレクシスは、机の上の書類にもう一度目を落とした。


 そこには、エレノアの筆跡があった。


 整った文字。


 迷いのない線。


 その一つ一つが、何かを繋いでいた。


 自分には見えない何かを。


「……何を見ていた」


 小さく呟く。


 答える者はいない。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 彼女がいなくなったことで。


 この部屋には、“空白”が生まれている。


 それは席の空きではない。


 役割の欠落。


 構造の断絶。


 そして――


 誰にも埋められない、空白だった。

 ここまで読んでいただきありがとうございます。


 エレノアがいなくなったことで、

 「誰も全体を見れていない」という状況がはっきりしてきました。


 そしてここから、

 その判断の“ズレ”が現実に影響し始めます。


 次話では、

 善意で動いた結果、状況が悪化する瞬間が描かれます。


 「正しさだけでは回らない世界」

 その現実をぜひ見届けてください。


 少しでも続きが気になったら、

 ブックマークしていただけると嬉しいです。

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