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第76話 五つ目の行

 峠の朝は、下より半月ぶん早く冷える。


 役所は街道のいちばん高いところにあって、南向きの戸を開けると、下りの道が三曲がりぶん見える。荷改めの角灯は、この時季になると昼まで消さない。霜が下りた朝は、車輪が石をこすって鳴く音の高さが変わる。


 定期便の馬車が二台、その音を連れて上がってきた。北回りの便で、領地を出て十一日になる。


 書記の机は、入口を入ってすぐ左にある。冬に冷えるので、みなが避ける席だ。名を、ニナという。二十歳ほどで、小柄で、髪を後ろできつく結わえている。右手の指先は、爪の際まで墨だった。


「ニナ」


 戸口から声がした。ヨナスだ。この役所の男で、荷改めの角灯を持つ役をしている。


「はい」


「便に、袋が一つ入っとる」


「どちらからですか」


「宛名しか無い」男は言った。「差出人が書いてないやつだ」


「どちらから来たものですか」


「北回りだ」ヨナスは言った。「領地からのやつだな。十一日 かかっとる」


「ほかに、紙はございましたか」


「荷ばかりだ。紙はそれ一つ」


「――ありがとうございます」


「礼を言われる筋じゃない」男は言った。「運んだのは、おれじゃない」


 彼女の手が、止まった。


 麻の袋だった。ヨナスが机の端に置いた。粗い麻で、口を紐で縛ってある。表に、字が一行。


 ――“数える人へ”


 その宛名を、彼女は知っていた。三年前の二月に、同じ字を自分で書いたからだ。あのとき差出人を書かなかったのは、書いても誰も知らないと思ったからだった。


 この字は、彼女の字ではない。


 ニナは、紐を解いた。解くのに、指が一度 滑った。


 中には、紙が二枚 入っていた。


 一枚目は、三行だった。


 ――枠の一割は、空けておきます。

 ――理由。次に何が来るかは、誰にも見えません。

 ――見えるようになったら、埋めてください。


 彼女は、その三行を読んだ。


 読んで、もう一度 読んだ。二度目のほうが時間がかかった。


 三年前の春、屋敷の執務室で、彼女は写しの右の余白に一行 書いたことがある。この一割は、何のためですか、と書いた。翌朝、その余白には定規を当てた線が一本 引いてあって、字は読めなくなっていた。


 訊いてはいけないことを訊いた、と彼女は読んだ。それで、領地を出た。


 その答えが、いま机の上にある。


 三行のうちの二行目までは、彼女が三年かけて自分で辿り着いたものと、ほとんど同じだった。次に何が来るかは、誰にも見えない。だから空けておく。そこまでは分かっていた。分からなかったのは、三行目だ。


 見えるようになったら、埋めてください。


 ――埋めて、いいのでしょうか。


 彼女は、二枚目を開いた。


 二枚目は、三行に一行が足してあった。


 ――ヴァルディエ侯爵領 様式

 ――この様式を写した者は、この下に、名を書き足すこと。

 ――訊かれるのは、いちばん下の名です。


 その下に、名前が一つ。


 ――エレノア・ヴァルディエ


 ニナは、その名を見た。


 六年、あの屋敷の紙に、あの方が自分の名を書いたところを彼女は一度も見ていない。決裁の紙にも、掲示にも、写しにも、名は無かった。名を書かなくても、誰の紙かは全員が知っていたからだ。


 名を書くのは、誰かに渡すときだけだ。


 彼女は、椅子を引いて立った。


 役所の棚は、奥の壁にある。上から三段目に、麻布で装丁した厚い帳面が置いてあった。三年前の二月に彼女が送ったもので、それからずっとここにある。三年のあいだに背が丸くなって、開き癖がついた。開き癖のついた頁は、いつも同じところだった。


 後ろのほうの頁を、彼女は開いた。


 覚書の頁だ。届かなかった場所と、月と、区分と、数が並んでいる。四十一行あって、合計で百三十四人になる。


 その手前に、四つ、線が引いてある。


 自分で書いて、自分で消したものだ。待避所の数を変える案。区分を四つに割る案。月の欄を足す案。四つとも、書いてから半年 もたずに、自分で線を引いた。


 消し方は、あの方のものだ。定規を当てて、まっすぐ引く。


 五つ目が、書きかけで止まっていた。


 ――枠の一割を、次の遅れのために空ける。理由


 そこで終わっている。線は、引いていない。三年、この手は、そこから動いていない。


 理由が書けなかったからだ。


 枠を空ければ、遅れた荷が入る。それは分かる。だが、なぜ一割なのか。なぜ二割ではないのか。なぜ、遅れていない日も空けたままにしておくのか。書こうとするたびに、条件を書いてしまう。長雨のときだけ。冬のあいだだけ。そう書けば、書いた翌年に外れる。外れた掲示は、二度と読まれない。


 だから、線を引くこともできなかった。間違っているとは、思えなかったからだ。


 ニナは、机に戻った。


 筆を執って、墨をつけた。つけすぎて、紙の上で一度 落とした。それを袖で拭いてから、もう一度つけた。


 五つ目の行の、「理由」の下に、続きを書いた。


 ――次に何が来るかは、誰にも見えません。

 ――見えるようになったら、埋めてください。


 書き終えて、彼女は筆を置いた。


 置いてから、その二行を上から読んだ。字が、少し曲がっていた。三年ぶんの空きの下に書いたにしては、あっけない長さだった。


 定規には、手を伸ばさなかった。


「ニナ」


 ヨナスが、戸口に立っていた。角灯を消して、下げている。


「はい」


「下ろす荷が、あと四台だ」


「はい」


「――何を書いとる」


「五つ目です」彼女は言った。「三年、途中でした」


 男は、机の上を覗き込まなかった。この役所の者は、書記の机の上を見ない。それは書記の仕事で、自分の仕事ではないからだ。


「終わったか」


「終わりました」


「三年 かかったな」


「はい」


「途中でやめとると思っとった」


「やめておりました」ニナは言った。「続きが、書けませんでしたので」


「今日、書けたのか」


「教えていただきました」


「誰にだ」


「――遠くの方です」


「そうか」


 それだけ言って、彼は出て行った。


 入れ替わりに、戸の外から声がした。


「書記さん」


 男が一人、入口に立っていた。木材の荷主だ。二月前まで、毎朝ここへ来て順番を訊いていた人間で、いまは掲示を読む側になっている。


「はい」


「うちの、二番目の枠だったな」


「二番目です。十四台のうち、三台目です」


「日は」


「掲示に出ております。十一日後です」


「あれ、当たるのか」


「当たります」ニナは言った。「前の便は、ちょうどでした」


「ちょうどってのは、どのくらいだ」


「一日も、ずれませんでした」


 男は、少し黙った。荷主というのは、当たったという話を聞かされたときに、いちばん疑う顔をする。


「……ずれたら、どうする」


「掲示を書き直します」


「あんたがか」


「わたしが書きます」


「誰に訊いて書くんだ」


 ニナは、その問いに、すぐには答えなかった。


 三年、この問いを誰にもされなかった。書いているのが誰かを、荷主は考えない。掲示は立っているもので、立てている人間がいるとは思わない。それでよかった。訊かれなければ、答えられないことを知られずに済む。


「――いままでは、訊いておりませんでした」


「じゃあ、どうやって書いてた」


「歩いておりました」彼女は言った。「毎月、峠を越えて、四十戸を回っております。何がどれだけ要るかは、そこで伺います」


「毎月か」


「毎月です」


 男は、それには何も言わなかった。言わずに、少し頭を下げて出て行った。下げ方が浅かった。慣れていない下げ方だった。


 ニナは、帳面を閉じた。閉じて、裏返して、表紙を上にした。


 麻布の表紙には、三年前に彼女が書いた二行がある。


 ――ヴァルディエ侯爵領 様式


 自分が考えたものではないので、そう書いた。書いたときは、その下に何かを書くつもりは無かった。


 彼女は、二枚目の紙を、表紙の横に並べた。並べたまま、しばらく座っていた。


 窓の外で、荷が下りていく音がした。四台。数えなくても、音で分かる。三年、毎日 数えている。


 彼女は、筆を執った。


 表紙の、二行目の下に、書いた。


 ――ニナ


 二文字だった。二文字しかないので、行の左に寄って、右に白いところが残った。


 その白いところを、彼女は見た。


 訊かれるのは、いちばん下の名です。いま、いちばん下は自分だ。この様式について訊かれたら、答えるのは自分になる。


 三年、彼女は訊かれたことがなかった。北の谷の四十戸を毎月 歩いて、留守の家の柱に刻みを入れて、それを誰にも報告しなかった。報告する先が無かったからだ。訊かれないから、教わらない。教わらないから、一人で四回 消した。


 いま、訊かれる場所に、名前がある。


「――ヨナス様」


「なんだ」


「この紙を、写してもよろしいですか」


「好きにしろ」


「八枚 要ります」


 男が、戸口で止まった。


「八枚」


「街道の書記は、九人おります」ニナは言った。「わたしを除いて、八人です」


 ヨナスは、少しのあいだ黙っていた。


「――八人に配ったら、どうなる」


「みな、名を書きます」


「その下は」


「その下は、書けません」彼女は言った。「わたしの下に、まだ誰も来ておりませんので」


「そうじゃない」ヨナスは言った。「その八人が、何か分からんことがあったら、どこへ訊く」


 ニナは、二枚目の紙の、いちばん下の名を見た。


 ――エレノア・ヴァルディエ


「……あの方です」


「八人ともか」


「八人ともです」


「他領にも、三つ 出とるそうだな」


「三つです」


「川の向こうにも、一つあると聞いた」


「一つです」


「合わせて十二か」


「わたしを入れて、十三です」


 男は、角灯を持ち直した。


「十三人が、一人に訊くのか」


「はい」


「あの方は、一日に何枚 読める」


 ニナは、答えなかった。


 六年、あの方が一日に読んでいた紙の数を、彼女は横で見ていた。朝の積みが四十枚ほど。夕方に、また二十枚。読み切らなかった日は、一日も無かった。


 だが、あれは全部、決めれば済む紙だった。決めるのは速い。訊かれたことに答えるのは、決めるのとは違う仕事だ。


「足りるのか」

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


 三年前の春、彼女は写しの余白に「この一割は、何のためですか」と書きました。

 翌朝、そこには定規を当てた線が一本 引いてありました。


 その答えが、三年遅れて峠に届きました。


 書きかけで止まっていた五つ目の行に、続きが入りました。

 線は、引きませんでした。


 ――そして、表紙のいちばん下に、二文字の名前が載りました。


 訊かれるのは、いちばん下の名です。

 いま、いちばん下は彼女です。その下は、まだ白いままです。


 次話「十九件」では、八枚の写しが九つの街道へ回ります。

 訊く先は、全員 同じところです。


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